詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「死者が行く」

2007-06-04 10:26:17 | 詩(雑誌・同人誌)
 岡井隆「死者が行く」(「現代詩手帖」6月号、2007年06月01年発行)。
 「現代詩手帖」の「「二〇〇七年 如月抄」を読む」のなかで岡井自身が引用していた作品。その全行。

向うから自転車を漕いで来る若いのをよく見ると、死んだ
アイザック・Kなので、
かたときもやまぬ光の照り透る国の彎曲を死者で通るとは
と囃せば、いたって真面目に、
思想の戻り道に出てみたれば針・春・晴の斑猫の背に詩ぞ
しぐるる
と返すのであった。
安保の年の夕まぐれ、かき寄せる、言の葉どちの深さかな
〈運命のつたなく生きて此処に相見る〉
と挨拶して過ぎた。
ふと小馬おろしの吹きそうな夜だ。雨乙女ザムザム、Kの
あとを追ってひらめく。
         (谷内注・原文にはルビが何か所かあるが省略した)

 「詩」とはなにか。「詩」とは尋常とは違ったことば、気取ったことばである。散文、口語とは違ったことばである。いわば「あいさつ」である。そうした簡単な定義が有効な作品だと思う。そして、こういう簡単な定義が、散文のなかではなく、詩のなかで実現されている。
 この作品そのものも「詩」なのだが、その「詩」のなかでさらに「詩」の役割をになっているのが「歌」である。定型のリズムをもったことばである。定型手あるがゆえに、普通のことばとはちょっと違った動きをする。私はこんなふうにことばを動かせますよ、といわば自分の「お里」を披露している。それは、別のことばで言えば、私はこんなふうにあなたをおもてなしいたします、というあいさつなのだ。
 それに対して、客は客で、「歌」でこたえる。「おもてなし」に対して、私はこんなふうにお受けすることができます。これもあいさつだ。
 「お里」と「お里」の出会い。文化と文化の出会い。教養と教養の出会い。感性と感性の出会い。どう名づけてもいいのだが、そうした「一期一会」の出会いの楽しさ。それが「歌」であり、「詩」の出発点なのだということをこの作品は教えてくれる。

 そうしたこととは別に、この詩のことばの絶妙な切り替えに私は非常にうれしい気持ちになった。楽しくなった。
 「あいさつ」の「歌」には一首の鍛えられた文語の文脈の美しさがあるの当然である。そういうふうに書かれているからである。一方、「歌」を取り囲む「地」の部分に、日常のことばのはつらつとした響きがあり、それが「歌」をいっそう引き立てている。
 その対比が絶妙である。その絶妙さに、この作品の、ほんとうの「詩」があるのだと思った。
 1行目の「若いのをよく見ると」の「わかいの」。「若者」「青年」であったら、この作品は死んでしまう。口語のすばやさ、寸詰まりというか、末尾をのみこんで先へ先へと動いて行くことばのスピードがあって、そのあとでいったん立ち止まり「歌」のリズムにかわる。
 この対比は、同時に岡井の「口語」と「歌」がいつでも隣り合わせにある、「口語」から瞬時に「歌」にかわりうることばの世界を生きていることをも明らかにする。それが楽しい。「口語」から「歌」へ、「歌」から「口語」へ。そのすばやさは、「囃せば」にもあらわれている。「歌」はほんの「ごあいさつ」なのだ。なじみの相手だから軽くあいさつしたのだという感じを、ぱっと表現している。
 そのあとの「返すのであった。」からもう一度「歌」へ転換するのだが、そのときの「歌」の調べの変化も絶妙だ。「返すのであった。」の「のであった。」という口語も、「返した」ということばと対比するとわかりやすいけれど、長くなったことばと、そのことばのなかの促音の凝縮した感じが、最初の「歌」から次の「歌」への切り替えをうきぼりにしており、ああ、すごい、と思うのだった。
 「歌」を生かすための「地」の「声」があり、その「地声」そのものも岡井の魅力なのだ。「地声」が魅力的な詩人なのだ。岡井が実際に話すのを私は聞いたことがないが、「話法」と「声」が、たぶん絶妙に美しいのだと想像できる。
 落語家のように。


コメント
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