詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ42)

2007-06-19 23:40:06 | 詩集

 入沢康夫『歌--耐へる夜の』(1988年)。
 「J・Nの頭文字を持つてゐた人に」。西脇順三郎に捧げた詩である。追悼詩である。

もしもここで 私が
あなたの詩句を一行でも引用しようものなら
あなたの語調を片鱗だにも真似ようものなら
私が あなたを悼む気持は
無辺際に拡散してしまふことであらう
あなたの詩は 今日 私に
あなたの死は 今日 私に
それを固く禁じてゐる
かつて私は あなたの詩を
「したたかな」詩と形容した
それを撤回する気は毛頭ないが
その「したたかさ」にぴつたりと釣合つてゐた
あなたの「寄る辺なさ」についても
どこがで触れるべきではなかつたかと
今日 私は しみじみ思ふ

おそらくそれは
今日の私の 私たちの「寄る辺なさ」と
つながつてゐる思ひなのであらうけれど……

 最後の「つながつてゐる」。ここに「誤読」への願い、祈りを私は感じる。その前の行の「私の 私たちの」という言い直しに、強い強い祈りを感じる。「私」だけではなく、「私たち」と言い直すとき、そこには「私」だけではなく、人間全体で引き受けるという行為が想定されている。西脇のことばを読み、そこからなにかを感じ、引き受けていく。入沢はそれを個人的な行為であると知っているけれど、同時にその個人的な行為が個人におさまらず「私たち」に共有されるものであることも知っている。「共有」されることを願っている。
 この「共有」を言い直したのが「つながつてゐる」なのである。
 「つながつてゐる思ひ」。それは共有された思いのことである。

 「共有」というとき、一方に西脇がいる。他方に「私」(入沢)がいる。また「私たち」もいる。「思ひ」の周囲に別個な人間が存在する。そのことは「思ひ」がそれぞれ別個な個人的事情によって汚染(?)されているということでもある。それぞれ違ったものを「思ひ」のなかに人間はこめ、その違ったものをこそ「思ひ」と感じているかもしれない。「誤読」というのは、そういうことだ。
 真実は「共有」されたもののなかにはない。真実は共有されない。それが「寄る辺なさ」というものかもしれない。「誤読」だけが「共有」されるのだ。

 「淋しい/ゆえにわれあり」という西脇のことばを思い出してしまう。「共有」されないもの、つねに孤独なものがいつも存在する。そういうものを片方の目で見ながら、もう一方で共有されたものを見る。共有のなかで「つながり」が多くなればなるほど、真実は孤立する。寄る辺ないものになる。
 そう理解しながら、それでも「つながつてゐる」ものの方に重心をずらし、そこで生きてゆくのが入沢のことばである。




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天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(1)

2007-06-19 14:14:47 | 詩集
 天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(思潮社、2007年05月31日発行)。
 帯におもしろいことばが書いてある。「天沢の詩のことばたちは粘粘と彼に絡みつき、詩人でなければ解くことのできないこんがらがりようだ。」あ、そうか、ことばというのは「解く」ということが求められているのか。でも、「解く」ことをやめてしまえば、もっと楽しいんじゃないだろうか。でも、「解く」をやめて、何をする? まずはいっしょにからまれたまま、からんでくるものの力を楽しんでみる。あるいは、逆にからみつく、からませる、というのもいいんじゃないだろうか。
 「嘘売岳ブルース」。その冒頭。

嘘売岳へ登るには
まず白無沙(しらなさ)峠をこえるんだ

 「嘘売岳」。あ、いやですねえ。いきなり「嘘」なんてことばを持ち出して、これから始まることが「嘘」、それも岳のように嘘が積み重なってそびえ立っているなんて言ってしまうなんて、昔話にもないような、ずるいずるい始まりだねえ。昔話が確立されたあとの「お話」、そうだねえ、「童話」みたいな始まりですね。
 たぶん、天沢にとって、ことばを書くということは「童話」を書くのと同じことなんだろうなあ。それも子どもが書く童話。どこまでもどこまでも思いつきを積み重ねる。相手の反応を見ながら、これわかる? これわかる? 何言っているかわかる? ついてこれる? そんな感じ。
 「白無沙(しらなさ)峠」。そのことばのなかの「知らない」。「嘘売岳」知らない? あ、そう。だめだねえ。「嘘売岳」ってさ、「白無沙峠」の向こうにあるんだ。まさか「白無沙峠」を知らないってことは、いくらなんいでもないよねえ。
 子どもは、こういうことばに弱い。もちろん、そんなものは知らないけれど、「知ってる」、「あ、そうか、白無沙峠の向こうにあるんだ。忘れてた」という具合に、自分で「嘘」のなかへ入って行ってしまう。
 こういう子どものリズム、童話のリズムが天沢のことばを動かしている。
 もちろん「白無沙峠」くらいでは、「あ、今のことば、知らないってことばがある。天沢さん、それ知らないんでしょ。嘘でしょ。嘘って、必ず本当のことが含まれてるから、ばれるんだよ」なんて、こましゃくれた子どもも出てくる。
 そういうときは。

するとだな

とドスをきかせて転調する。

嘘売岳へ登るには
まず白無沙峠をこえるんだ
するとだな
顔にも頭にも真珠をいっぱいつけて
女があるいてくる
と思ったらそれはみんな水玉
つまり涙というやつではないか?
これは気持ちわるい!

 「するとだな」がほんとうにすごい。もう、有無を言わせない。「と思ったら」という転換がさらにすごい。「そう思うだろう、だれでもそう思うよな。でも、本当は違うんだぜ。これはおれだけが知っていることなんだぜ、よく聞けよ」というわけである。子どもは、この「おれだけが知っていることなんだぜ」に弱い。いちころである。自分の想像力の弱さをあばかれることは悔しいけれど、一方で、「いいか、おれだけが知っていることをおまえに教えてやるからな」と言われたような、つまり信頼されたような気持ちになる。信頼されれば、もう、信頼しかえすしかない。信頼し、ついてゆくしかない。

つまり涙というやつではないか?
これは気持ちわるい!

 「え、涙って気持ち悪いの? かわいそうって思ったりしたらだめなの?」なんてこころを隠しながら、「そうだそうだ、涙って気持ち悪い」「気持ち悪い」「気持ち悪い」と大合唱である。ぜんぜん思っても見なかったことを口に出すって気持ちがいい。なんだかのびのびする。うれしくなる。ほら、大人がいやな顔してみている。きっと、これは本当のことなんだ。

いまは無き泣き女の幽霊だよ
真珠か水玉なら膨らんでいるだろ?
それがみんな逆に凹(へこ)んでるんだから

 「そうだ、そうだ、涙が凹んでるんだ、気持ち悪い」(あ、そうか、涙が気持ち悪いんじゃなくて、凹んでいるから気持ちわるいのか--よかった、とちょっと安心しながら)「凹んでる、凹んでる、気持ち悪い」とまたまた大合唱。

そのわけを言うよりさきに
山麓に嘘売り神社てのがあるよ
そこの名物が「あなた好きよ」とか
「あなたって、お上手ね」とか
みんな嘘ばかり書いた短冊を
おみくじと称して売ってるんだ

 「そのわけを言うよりさきに」。え、何? なんだか話がずれていっていない? あ、大人の秘密の話に変わったんだね。「あなたが好きよ」「あなたって、お上手ね」。聞いたことあるぞ。やっぱり、嘘だったのか。おとなって嘘をついて生きてるのか。やっとわかったぞ。とこころのなかで叫びながら、わくわく。わくわく。
 このわくわくを隠すのは子どもには難しい。
 そこへ、さらにさらに天沢は、子どもの思い付かないことを言う。

それをイタコが吹き込んで
CDも売っていてこれはバカ高い

 突然、現実が顔を出す。現実って、お金のことだよ。子どもにとっても。「あれ買って」「高いからだめ」。
 ますますリアルになっていくなあ。
 「バカ高い。パパがよく言っているなあ」。「バカ」って頭がわるいっていう意味じゃないんだ。「とっても」っていう意味なんだね。「バカ」「バカ」「バカ」。わるいことばをつかうって気持ちかいいのかな……。

 このまま書いていったら、感想がおわりそうもない。で、以下省略。
 そして追加。

 天沢の詩の魅力は、この詩の場合、3行目の「するとだな」に集約されている。ドスの聞いた転調。その間合い。リズム。書いてあることがら(内容)が同じでも、ことばの間合いひとつで、そのことばがぴったりきたり、遠いものになったりする。同じ歌謡曲でも美空ひばりが歌うとこころに響いてくるのに、別の歌手だとそんなに感じないというのに似ている。ことばにはことばを発するときの間合いがある。それが絶妙である。絶妙であるというのは一種の批評を放棄したことばなのだけれど、もう絶妙としかいいようがない。
 そして、その間合い、呼吸と通じることなのだけれど、天沢の詩はとても読みやすい。思わず口が、喉が、舌が、耳が動いてしまう。落語かなにかのように、1行1行ことばが表情をもって動いていく。
 天沢の詩は、ことばの表情を読ませる詩なのである。
 さらにつけくわえるなら、その表情こそ、「童話」の力だ。「童話」は基本的に読むというより聞くものだ。語ってくれる人がいる。一方に語ってくれるひとの表情がある。他方に聞くひとの表情がある。表情を見ながら、語る人はことばをかえたりもする。(ストーリーをかえたりもする。)そういうやりとりが、天沢のことばにはある。
 もちろん天沢はだれかを相手に読み聞かせしながら書くわけではないだろうから、天沢自身の中に、子どもの純粋さをもって、ことばを表情をじっとみつめる天沢がいるということだろう。そのもうひとりとの天沢とのいきいきとした口語のやりとりがあって、それが詩になっている。天沢が語り、天沢がきく。その「場」の空気が濃密にことばを支え、輝かせている。
 それに誘われ、思わず、「聞かせて、聞かせて」とおねだりしたくなることばがつまった詩集である。
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