詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ34)

2007-06-02 16:27:57 | 詩集
 入沢康夫『春の散歩』(1982年)。
 「浅春--旧詩帳より」。書かれている内容(ことがら)よりも、書かれている様式、構造に詩を感じる、と書いて、はたと思い悩む。
 タイトルにある通り「旧詩帳」からの引用がつづき……、

    新聞の地方版に故里の伯父が物価統
制例違反で告発された(そのやうなことが当
時はあつた)との記事が出てゐた私は歯刷子
を使ひながら眼だけは活字を追ひごほんごほ
んと咳込んだなあに歯みがき粉にむせたんだ
よ』といふ詩を古びた詩帳の中に見つけた。
括弧の中はそれを書き写しながらの補足であ
るが、作中の伯父(今から五六年前、たしか
昭和三十四年に死んだ)を、どういふわけか
私はとても愛してゐたやうだ。」といふ詩を、
今日、私は古びた詩帳の中に見つけた。
  (谷内注・原文では、詩帳に最初に書かれたことばはゴシック体)

 「入れ子細工」のような形式。それは様式、構造であると同時に「内容」でもある。ことばそのものでもある。書かれていることへの言及、ことばへの言及が内容であり、同時に構造である。

 この詩のページの余白に、私はメモを書いていた。それをここに再録しておく。(まるで、入沢のこの詩に誘われて、「入れ子細工」そのものにのみこまれてしまったような気になるが。
 そのメモ(いつ書いたのだろうか)、は次の通り。

 繰り返すことの意味、強調。
 「……という詩を見つけた」と書くこと。見つけられて、先に書いたことばは「詩」に「なる」。

 「なる」と鉤括弧でくくっているところをみると、私はこ入沢の作品を読みながら「なる」ということについて書きたかったのだと思う。何か書こうとしてメモしたのだと思う。
 詩は、詩であるのではなく、詩に「なる」。
 私が感じるのは、たしかに「なる」なのだ。入沢のことばは詩そのものとしてそこに存在しているというよりも、読んだとき、はじめて詩に「なる」。

 正確に書くことはできない。(正確に書かなくてもいい「メモ」、日記というスタイルで書いている気安さで書き続けると……。)
 たとえば谷川俊太郎のことばは、詩で「ある」。
 入沢のことばは詩で「ある」というより、読んだときに詩に「なる」。
 これは、私にとってそうであるというだけではないような気がする。入沢自身も、ことばを書いただけでは詩は存在しないと感じているのではないだろうか。入沢がことばを書く。そして、それを読み、点検する。そのとき詩に「なる」。
 自分の書いたことばを点検し、それに対して言及する。そのとき、詩が、ことばのなかから誕生してくる。

 こうしたことを「葬制論」の「1」のパーツは、強く感じさせる。

「フィジー諸島のナモシの酋長は、髪の毛を刈ら
せる場合には用心のために必ず人を一人食べるこ
とにしてゐた」とさる有名な書物に書いてあり、
そして、その書物は、ほとんどすべてが厖大な文
献を渉猟して成つたものであることは、著者の明
言してゐるところであってみれば、この一条も、
いづれ何らかの別な書物に典拠を有するのではあ
らうけれども、いかやうにもあれ、他人の肉体を
おのれの墓とした人々が古来数へきれぬほどゐた
ことは、間違ひのない事実である。

 どのようなことばもすでに書かれていて、それを読み、引用する。そのときの「選択」するという行為のなかで、ことばが詩に「なる」。ここで取り上げられている「書物」が多数の文献の寄せ集めで成り立っているというけれど、それは裏をかえせば、「書物」に引用されることで先行する文献は文献に「なった」のである。

 ことばが書かれる。そして、読まれる。読まれた瞬間から、それは書いたものではなく読まれたものに「なる」。その「なる」のなかに、詩がある。いや、これも、そういう精神が詩に「なる」というべきことなのか……。



 「読む」ことによって何かがかわる。ことばの持っているものがかわる。そういうことを入沢は別の形でも書いている。「「誕生」へ」。13の断章から構成されている。断章ごとにタイトルがついている。しかし、断章の内容(詩として提示された1行)は「13」をのぞいてみな同じである。

  1 競争原理

まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。

  2 泉の探索
 
まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。

(略)

  13 真の泉の探索

まつくらな画面。岩に砕ける波頭さへも見えぬ。

 読み進んでいる内に、1行が「詩」なのではなく、断章の「タイトル」が「詩」なのだ、という気持ちになっててくる。そうして、そんなふうに感じさせておいて、入沢は、最後はやっぱりそうではなく、1行こそが「内容」であり、詩であり、それはタイトルではないのだと強調する。
 詩に「なる」のはどっちだ、と入沢は、読者に質問しているのかもしれない。
 ことばを「答え(正しい読み)」のなかに定着させることを入沢は嫌っているのかもしれない。「誤読」をとおして、ことば自由になり、……ここにも「なる」ということばが姿をあらわしてきるのだが……、自由になりながら、しかし、読者のなかで「定着」する。

 矛盾。矛盾。矛盾。
 入沢のことばは、矛盾を拡大しながら自由に「なる」ことを願っていることばのように思える。



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斎藤恵子「みずうみ」、川邉由紀恵「母の物語」

2007-06-02 10:12:41 | 詩(雑誌・同人誌)
 斎藤恵子「みずうみ」、川邉由紀恵「母の物語」(「どうるかまら」2、2007年05月31日発行)。
 「どうるかまら」2号の作品群には「水」がたくさん登場した。そして、そのどれもが魅力的だった。
 斎藤恵子「みずうみ」の書き出し。

みずうみのふちがやわらかくなっている
今夜から水かさが増して移動してくるのだった

 1行目がとりわけ魅力的だ。「ふちがやわらかくなって」が、やがて現実と夢の「ふちがやわらかくなって」、夢に浸食されてゆく。そして、浸食されながら、浸食によってかわってゆく世界をなつかしさとともに受け入れてゆく。そのときの感じが水のように静かにあふれてくる。
 末尾。

だれかが帰ってきたにちがいない
曾祖母に逢えるのだ

 「逢えるのだ」。再会によって世界の厚みが増してくる。水嵩のように。その感じが、ていねいでとてもいい。



 川邉由紀恵「母の物語」。

蔦やかずらが手をのばして 屋敷の石垣にからみつき 庭
木は小路までしだれています 深いひさしにおおわれた海
の底 のような屋敷に 母はひとりで住んでいます 母は
毎日たまごをたべます 魚やかえるのたまごです

 「海の底」。このことばの登場によって「魚」が自然になり、「たまご」も自然になる。「たまご」はその後変容してゆくが、「海の底」、水の厚みが「屋敷」全体をのみこみ、外部へと浸食し、外部を受け入れ、さまざまなものを生み出す。しかし、あいかわらず「屋敷」は「海の底」。永遠にそのまま、という感じが「日常」そのものの不思議さをあぶりだしているようで、その静かな感じがおもしろい。

コメント (2)
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