天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(2)(思潮社、2007年05月31日発行)。
どんな作品にもそのことばがないと成立しないことばがある。そうしたことばを私は「キイワード」と呼んでいる。そのことばが見つかると、作品全体がくっきり見えてくる。「人間の運命 あるいは忍冬と優曇華」のなかに登場する。
3連目。
その3行目の「蟻レベルの尺度」。この詩では「蟻」が取り上げられているが、この「蟻」を「X」と読み替えてみる。「Xレベルの尺度」。天沢は、どのような作品を書くときでも、特別のレベルの尺度を用意している。この詩では「蟻レベルの尺度」ということばが出てくるが、だからといって、この作品が「蟻レベルの尺度」で構成されているというわけではない。「蟻レベルの尺度」というものを持ち出しうる「Xレベルの尺度」がつかわれている。「蟻」ではなく、別のレベルの尺度があるからこそ、それを「蟻レベルの尺度」でとらえなおすと……ということができる。
ちょっと、視点をかえて……。
これは実際には何メートル?
「蟻レベルの尺度」は蟻の尺度だけでなりたっているわけではない。もし人間が蟻のサイズになったと仮定したら、その全長は、人間が10㎞と感じる長さである、ということは、そこには「人間の尺度」も含まれるということだ。「人間の尺度」を持ち込まないと、「蟻レベルの尺度」も正確には把握できない。
「人間の普通のレベルの尺度」が一方にあり、それとは別の独特のレベルの尺度がある。「Xレベルの尺度」がある。そしてその「Xレベルの尺度」でとらえられた世界、表現された世界は、「人間の尺度」を持ち込まないと、正確には把握できない。
少しややこしい。込み入った書き方しかできないが……。もう一度視点をかえてみる。
「普通の人間の尺度」。これは「日本語」のことである。日常私たちが話していることばのことである。天沢は「日本語」をつかって書いている。どこにもわからないことばはない。けれども、そのことばは「普通の日本人のレベルの尺度」とは違った「尺度」で動いている。
「人間の運命」の第1行。
スイカズラ、ウドンゲ、結婚する。どのことばも単語自体は簡単である。私たちが日常でつかうことばである。ところが、それを天沢がつかっているような組み合わせではつかわない。天沢は「普通の人間のレベルの尺度」にもとづかないで、別の「Xレベルの尺度」でことばをつかい、世界を描写しているのである。
「Xレベル」の「X」とは何か。それがわからないといけないだろうか。
そんなことはない。「Xレベル」の「X」は「X」のままでよい。
数学の方程式で何かをXに置き換える。そして、それをXのままにして数式を動かしていく。そういうことができるように、天沢は、詩において「Xレベル」の「X」を「X」のままにして、ことばの数学をやっているのである。
では、そこで展開されることがらは、内容は、どう評価すればいいのか。
人生の意味は? 人間の苦悩、悲哀は? 喜びは?
そんなことは何の判断の基準にもならない。
「Xレベルの尺度」がそのまま、どこまで整然と動いてゆくか、その尺度でどこまで均一な美を維持したままことばが動いていけるか。そのことが問題なのである。
比喩をつかった方がいいかもしれない。
たとえば絵。それが傑作であるかどうかは、描かれている「内容」(モデル)とは関係がない。色のバランス、構図のリズム。絵画空間を支配している精神が均一であるかどうか。作家の精神が、感覚が空間全体を統一しているかどうかによって、絵は評価される。画家が何を考えているかも関係ない。
天沢の詩も同じように読めばいいのである。「内容」も「意味」も関係ない。ことばが「Xレベルの尺度」で統一されて動いているかどうかだけを判断基準にすればよい。「スイカズラがウドンゲと結婚した」。その不思議なことばの動き。そのとき「不思議」と感じた印象が、同じ「不思議」さでつづいてゆくとき、それは同じ「Xレベルの尺度」で世界が描写されているということだ。
「現代詩」は難しい--としばしばいわれるが、それは「Xレベルの尺度」の「X」を求めようとするからだ。そんなものは求めなくていい。というより、「X」を維持したまま、どこまでもつづく言語の方程式、言語の製図を楽しめばいいのである。
天沢は、その方程式、言語空間の設計図を、とても読みやすいレベルでつくりあげている。ことばのひとつひとつの艶、輝き、匂い、響きというものに乱れがなく、美しい。声に出して読めないことばがない。こんなふうにことばを鍛える(「Xレベルの尺度」を統一する)、その力のなかに「詩」がある。
どんな作品にもそのことばがないと成立しないことばがある。そうしたことばを私は「キイワード」と呼んでいる。そのことばが見つかると、作品全体がくっきり見えてくる。「人間の運命 あるいは忍冬と優曇華」のなかに登場する。
3連目。
そんな噂を伝えるコチニール赤(レッド)印刷のビラが
工事現場を囲む金属板(バリッサード)の面また面に貼りまくられた
その全長は蟻レベルの尺度で10㎞に及ぶ
その3行目の「蟻レベルの尺度」。この詩では「蟻」が取り上げられているが、この「蟻」を「X」と読み替えてみる。「Xレベルの尺度」。天沢は、どのような作品を書くときでも、特別のレベルの尺度を用意している。この詩では「蟻レベルの尺度」ということばが出てくるが、だからといって、この作品が「蟻レベルの尺度」で構成されているというわけではない。「蟻レベルの尺度」というものを持ち出しうる「Xレベルの尺度」がつかわれている。「蟻」ではなく、別のレベルの尺度があるからこそ、それを「蟻レベルの尺度」でとらえなおすと……ということができる。
ちょっと、視点をかえて……。
その全長は蟻レベルの尺度で10㎞に及ぶ
これは実際には何メートル?
「蟻レベルの尺度」は蟻の尺度だけでなりたっているわけではない。もし人間が蟻のサイズになったと仮定したら、その全長は、人間が10㎞と感じる長さである、ということは、そこには「人間の尺度」も含まれるということだ。「人間の尺度」を持ち込まないと、「蟻レベルの尺度」も正確には把握できない。
「人間の普通のレベルの尺度」が一方にあり、それとは別の独特のレベルの尺度がある。「Xレベルの尺度」がある。そしてその「Xレベルの尺度」でとらえられた世界、表現された世界は、「人間の尺度」を持ち込まないと、正確には把握できない。
少しややこしい。込み入った書き方しかできないが……。もう一度視点をかえてみる。
「普通の人間の尺度」。これは「日本語」のことである。日常私たちが話していることばのことである。天沢は「日本語」をつかって書いている。どこにもわからないことばはない。けれども、そのことばは「普通の日本人のレベルの尺度」とは違った「尺度」で動いている。
「人間の運命」の第1行。
スイカズラとウドンゲが結婚した
スイカズラ、ウドンゲ、結婚する。どのことばも単語自体は簡単である。私たちが日常でつかうことばである。ところが、それを天沢がつかっているような組み合わせではつかわない。天沢は「普通の人間のレベルの尺度」にもとづかないで、別の「Xレベルの尺度」でことばをつかい、世界を描写しているのである。
「Xレベル」の「X」とは何か。それがわからないといけないだろうか。
そんなことはない。「Xレベル」の「X」は「X」のままでよい。
数学の方程式で何かをXに置き換える。そして、それをXのままにして数式を動かしていく。そういうことができるように、天沢は、詩において「Xレベル」の「X」を「X」のままにして、ことばの数学をやっているのである。
では、そこで展開されることがらは、内容は、どう評価すればいいのか。
人生の意味は? 人間の苦悩、悲哀は? 喜びは?
そんなことは何の判断の基準にもならない。
「Xレベルの尺度」がそのまま、どこまで整然と動いてゆくか、その尺度でどこまで均一な美を維持したままことばが動いていけるか。そのことが問題なのである。
比喩をつかった方がいいかもしれない。
たとえば絵。それが傑作であるかどうかは、描かれている「内容」(モデル)とは関係がない。色のバランス、構図のリズム。絵画空間を支配している精神が均一であるかどうか。作家の精神が、感覚が空間全体を統一しているかどうかによって、絵は評価される。画家が何を考えているかも関係ない。
天沢の詩も同じように読めばいいのである。「内容」も「意味」も関係ない。ことばが「Xレベルの尺度」で統一されて動いているかどうかだけを判断基準にすればよい。「スイカズラがウドンゲと結婚した」。その不思議なことばの動き。そのとき「不思議」と感じた印象が、同じ「不思議」さでつづいてゆくとき、それは同じ「Xレベルの尺度」で世界が描写されているということだ。
「現代詩」は難しい--としばしばいわれるが、それは「Xレベルの尺度」の「X」を求めようとするからだ。そんなものは求めなくていい。というより、「X」を維持したまま、どこまでもつづく言語の方程式、言語の製図を楽しめばいいのである。
天沢は、その方程式、言語空間の設計図を、とても読みやすいレベルでつくりあげている。ことばのひとつひとつの艶、輝き、匂い、響きというものに乱れがなく、美しい。声に出して読めないことばがない。こんなふうにことばを鍛える(「Xレベルの尺度」を統一する)、その力のなかに「詩」がある。