詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山川久三「ベランダ」、豊原清明「人生の青い中也よ」

2007-06-17 14:54:21 | 詩(雑誌・同人誌)
 山川久三「ベランダ」、豊原清明「人生の青い中也よ」(「SPACE」3、2007年07月01日発行)。
 山川久三「ベランダ」。
 ギリシャ悲劇と現実が交錯する。そこから乾いた笑いがひろがる。

オイディプスが ベランダに
うずくまって タバコを喫すと
オリュンポスの方から寄せる風が
何倍もの咳の発作で報復する
犯してきた罪を責めるように
放浪の脚を支えた力は
たるんだ皮膚の どこにも
見あたらない

乾いたアンティゴネの靴音を
研ぎすまされた聴覚がとらえる
歩道を重くたく刻んでくる踵(かかと)

ショルダーバッグを投げ出すと
アンティゴネは 父であり兄である
老人を 風呂場へいざなう
ほつれ髪をかきあげる娘の二の腕を
つかむことが このごろ
老人の一日を支えている
母と娘の二の腕が
豊かな肉づきで似てくる不思議

 山川はもちろん「オイディプス」ではない。しかし、自身を「オイディプス」に重ねるとき、重なる部分もあるのだ。老いは「オイディプス」の「オイ」である、というのは冗談だが、自分ひとりでではどうすることもできない肉体がオイディプスを引き寄せる。それにつられてアンティゴネも呼び出される。その交錯が楽しい。
 「放浪の脚を支えた力」から「老人の一日を支えている」までの、「支える」ということばでカッティングされた日常が、すばやいスケッチで無駄がない。余分な抒情がない。その乾いた感じが悲劇を喜劇にしている。悲劇と喜劇は、とても似ている。ともに対象を対象としてみつめる客観力無しには成り立たない点が。山川は、ここでは彼自身を客観化している。そこにもちろん抒情が入り込むことはできるのだが、山川はそれを拒絶している。そのさっぱりした精神の運動--ああ、これが山川を「支えてきた」脚力、ことばの脚力なのだと思った。



 豊原清明「人生の青い中也よ」。
 豊原は俳句を書いているが、俳句の視力が詩のなかにも登場してきて、それがことばをひきしめる。

ゆっくり蛇行して、
体全体ツキの色と成す。
青洟垂らして、生命を悟る。
青い詩人は風の只中に生きて、
くさった網戸を開き、
(中也の人生は、難しい。)
青い首を凝って、緊張している。

 「ゆっくり蛇行して、/体全体ツキの色と成す。」のスピード感が俳句そのもの。また「くさった網戸」から始まる諧謔がとてもうれしい。くさった網戸を開くのは難しいよなあ、と不思議な肉体の記憶がよみがえり、その記憶が中也と重なってしまう。私は中也の愛読者ではないので、中也のことはほとんど知らないが、あ、たしかに中也にはくさった網戸を前にして苦戦しているようなどうしようもないところがあるなあ、と思ってしまう。豊原の詩を読むと、だれの解説を読んだときよりも中也が身近に感じられる。何か遠いものを一気に引き寄せ、世界の中心にし、その中心から世界へもう一度ひろがってゆく--そういう一元論としての俳句の力がどこかに潜んでいる。豊原のことばには。


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入沢康夫と「誤読」(メモ41)

2007-06-17 13:44:15 | 詩集
 入沢康夫『歌--耐へる夜の』(1988年)。
 「Ⅰ『賤しい血』およびその三つの変奏 1986-1987」には3ではなく、4篇の詩が収められている。なぜ「三つ」なのか。そして、これらの詩はどれもだれかに捧げられたものである。その最初の詩「賤しい血」は「--親愛なる二人のランバルディアン、粟津則雄、渋沢孝輔に」と二人の名前を掲げている。なぜ「三つ」なのか。これは、わからない。わからないことはわからないままにして、4篇の冒頭。

賤しい血
  --親愛なる二人のランバルディアン、粟津則雄、渋沢孝輔に

  1

なべての有情の吐息を押流す大河のほとりで
ばらばらにされた四肢を 人目を忍んで
生木の枝のやうに藤蔓でたばねる
そして来いの焼棒杭を高々吊るす



悪胤
  --安藤元雄に

夜のゴム引きの麻布の蔭で、砂や小砂利の粒が、間遠に打返す睡気
に逆ひながら、今こもごもに光を放つ。凸レンズを透してみると、
ありとある有情の吐息をひたすらに押流す大河のほとり、人足たち
は、一旦ばらばらに解き離された五体をひそやかに拾ひ集めて、枯
枝のやうに藤蔓でからげる作業に余念がない。その男どもの腕には、
赤や青の魚の刺青。
   (谷内注・「麻布」には原文「リネン」のルビあり)


蛇の血脈
  --葉紀甫に

流れて止まぬ二叉川の岸辺
点々と落ち散らばつた昨日の淫夢の断片を 人目忍びつつ
拾ひ集め 晒し木綿の袋に収め
砂地に立てた竹竿の先に高々と吊す
   (谷内注・「蛇」「二叉」には原文「ナギ」「ふたまた」のルビあり)



DNAの汀で
  --岩成達也に

循れ、循れ、七つの河よ、
晒し木綿の袋につめて、
人目忍んで河原に埋めた
畸形の恋を押し流せ。
   (谷内注・原文の漢字にはルビがあるが省略した)

 すべて荒々しい男たちの恋のあとの様子から始まっている。1篇ではおぼろげだったものが「変奏」されることで濃密になっていく。それはそれぞれのことばのなかでのことというより、4篇を読む読者の感覚のなかで、読者の肉体のなかで、濃密になっていく。
 これまで「誤読」「誤書(偽書)」として見たきたものは、「変奏」という形でひとつになっているのだともいえる。「誤」が「誤」と出会い、「誤」を洗い流してゆくような感じである。
 基本的に同じテーマを「ずらす」ことによって、「ずれ」が見えると同時に、逆に共通のものが見えてくる。「ずれ」(差異)が、「ずれ」(差異)のために存在するというよりも、共通のものを認識するために存在する。

 ことば--それぞれの書き手。その個性。それは個性的であることによって存在するのはもちろんだが、同時にその個性は他の個性とぶつかるとき、個性そのものと同時にある共通のものを浮かび上がらせる。
 この共通のものは、しかし、単独では取り出せないものである。そのことに入沢は気がついている。あるいは入沢は、そのことを誰よりも強く「発見」している。その単独では取り出せないもの、ことばの動きに潜んでいる力、ことばを動かすことで何かを見ようとする力--それが人間の力だと入沢は実感している。

 ことばはことばと出会うとき、ある音が別の音と出会って「和音」をつくるように「和・意味」をつくる。その響きのなかに、「和」のなかに、人間の願いが存在する。祈りが存在する。夢が存在する。単独のことばのなかにもそういうものは存在するが「和」を響かせるときにもそういうものがあらわれる。単独では存在しなかったものが、たのことばの力を借りながら、単独では表現できなかったものを表現する。

 入沢の音楽は「和・意味」としての音楽である。
 それを明確にするために、入沢は次々に「変奏」を繰り返す。「誤読」として、「偽書」として。よりよいひとつの完成形を目指すというよりも、「和・意味」のうごめく言語空間、そこに書かれているのではなく、読者のなかで沸き上がる言語空間をめざしているのだといえる。

 入沢の「詩」は入沢のことばのなかにはない。入沢のことばを読んだ読者のなかにある。ひとりの読者になるために、入沢は「変奏」という行為を繰り返す。「変奏」のなかでなら、入沢は筆者であり、同時に読者でいられるからだ。「変奏」は他者の「音」(ことば)を正確に聞きとることを出発点としている。正確に聞き取り、同時にそれとは違った音を(ことば)を提出することで、単独では存在しなかった豊かな「和・ことば」空間をつくりだすのである。


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