詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ46)

2007-06-29 23:17:28 | 詩集

 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 この詩集は二部構成になっている。そしてその「Ⅱ」は「「前表」の追認--「わが地獄くだり」その5」というタイトルをもって始まる。

 この旅の出発に当たつて 深まるためらひの揚句に記
した 《前表の確認 といふかむしろ 追認》 その一
行のにがさを ここ何十日 何百日のあひだに 何度味
ひ直したことか

 ここで書かれている「前表の確認 といふかむしろ 追認」ということばが最初に登場するのは、この連作の2篇目である。「到来」。その書き出しは

 来た!

 と始まる。何が来たのか、明確には示されていない。ほんとうはまだ来ていないのかもしれない。来ていないものを「来た!」とことばにしたために、それはやってきてしまったのである。
 ことばには、そういう不思議な力がある。特に詩人のことばには。そして、ことばのあとで、詩人は事実を確認する。そしてそのとき確認は、ことばでいってしまったことを追認することでもある。いや、確認を通り越して「追認」以外の何ものでもない。
 あらゆる事実は「ことば」を「追認」する形で動く。
 現代の物理学では論理物理学が先行し、そのあとを実証物理学が追いかける。論理を実証によって追認する。そういうことが「詩」でも起きるのである。
 だからこそ、あらゆる「誤読」が生まれる。作者は「事実」にもとづいて書いたかもしれない。しかし読者は「事実」を無視して、そのことばが描き出しうる可能性の世界、自分たちの夢を託した世界を読み取る。そして、そのうちにその世界がやってくる。追認という形で事実がやってくる。

 このやってき方には、ほんとうの「追認」という来方がある。だが、もっとも多いのは同時進行だろう。

 歌と現実の同時進行

 その1行が「「前表」の追認」という作品のなかにある。中断を挟んで再開した詩のなかにある。

 「事実」は先行する「ことば」のなかにあるのではない。また、あとからやってきた「事件」のなかにあるのでもない。「同時進行」のなかにある。「同時進行」であるかぎり、それはどちらか一方に重心をおくということはない。同時に、両方に、重心をおく。いや、おくのではなく、おかされる。どちらか一方に重心をおくという選択ができない。

 ここに苦悩と、喜びが同時にある。



 このことを入沢は克明に描いている。告白している。

「情感を手放し 衝迫から解き放たれ」ることを願つた
途端に 俺は 手痛いしつぺ返しを喰らつた ヒュドラ
ーはヘーラクレースでなくては退治できないのだ 感官
をひとた閉ざし 吸ひ込まれて行つた先は 恐れつつも
願つてゐた「地獄」ではなく--といふか むしろ無意
識裡に願つたままの「Copy of 《地獄》」に他ならなかつ


 入沢は「地獄」そのものではなく、ことばで地獄のコピーをつくろうとした。ところがいったんことばになってしまうと、それはコピーであることをやめて「事実」になった。そのことを入沢は「追認」したのである。
 ここに書かれているのは、ことばの力に対する入沢の実感である。

 私たちはことばを「誤読」する。そして現実もまたことばを「誤読」してしまう。
 「誤読」に見入られ、「誤読」に凌駕されてしまう詩人がここにいる。

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松尾真由美「汐の彩色、しめやかな雨にながれる鍵と戸と窓」

2007-06-29 21:59:53 | 詩集
 松尾真由美「汐の彩色、しめやかな雨にながれる鍵と戸と窓」(「ぷあぞん」22、2007年05月31日発行)
 ある作品をつくりあげるのに絶対に不可欠なことばがある。そのことばを私は「キーワード」と呼んでいる。「キーワード」を探し、そのことばを中心にして作品を読み通すというのが私の読書の方法である。「キーワード」はたいていの場合、とても簡単なことばが多い。作者はそのことばを無意識でつかっている。作者になじみがありすぎて、つかっているという感覚がないのかもしれない。無意識にまで溶け込んでしまった「思想」がそこには隠れている。
 松尾の長いタイトルもったこの作品の「キーワード」は「同時に」であり、それは一回だけ、次のようにつかわれている。
 7ページ、下段、1行目。

外側と内側の倒壊は同時にはじまり、

 「同時に」を省略しては文意が通じない。世界が成り立たない。
 松尾にしてみれば、ほんとうはつかわずにすませたいのだが、どうしても省くと世界が成り立たないので、しかたなくつかっている。--「キーワード」とはそういうものである。たいていは省略されている。省略できなくて、しかたなくつかったことばこそ「キーワード」である。
 この「同時に」は「思想」である。「同時に」こそが、松尾がこの作品で試みていることである。
 この作品は、河津聖恵の「シークレット・ガーデン--今しずくをみつめている人のために」(『アリア、この夜の裸体のために』収録)を取り込む形で構成されている。一方に河津のことばがあり、「同時に」、もう一方に松尾の作品がある。そのふたつは分離することができない。「同時に」とはそういう意味である。
 松尾の書いている部分(散文形式)は、意味がわかりやすかったり、わかりにくかったりする。わかりやすい場合でも、わかりにくい場合でも、任意の文を取り出して、「同時に」を挿入してみると、松尾の世界がとてもよくわかる。
 たとえば……。

 さあさあと雨音は流れていって、夏の葉という葉にすがって落ちる雨滴をたどり、音の息が車輪となり、「同時に」、あなたも私も流れだす。

 「同時に」は私が挿入したものである。原文にはない。
 雨音が流れる。音の息が流れる。これは自然(風景)の描写である。雨音は流れると言えば流れるだろう。音の息(があるかどうかは難しいところだが)が流れるといえば流れるだろう。しかし、「あなた」や「私」は簡単には流れない。洪水でもない限り雨といっしょに流れるということはない。しかし、そこに「同時に」ということばを差し挟むと、ちょっと事情が変わってくる。「あなた」「私」はもちろん流れはしないけれど、雨音をたどる「あなたの意識」「私の意識」は「同時に」流れるということがある。「意識」は「流れる」ものでもあるからだ。
 「同時に」というのは単に「時間」の問題ではない。「時間」というより、意識の問題なのである。
 最初の引用にもどる。

 浮揚するまなざしから家屋がくずれ天地がおとずれ、家の絆でまもられた血の色はうすまって、私の血もうすまって、外側と内側の倒壊は同時にはじまり、

 これは「外側の意識」は「内側の意識」という意味である。「同時に」は常に「意識」といっしょにある。

 この「同時に」を河津はどんなことばで表現しているか。「あいだに」(あいだ)ということばをつかっている。

わたしたち“よこたわる人”と“よこたわる人”のあいだに

あるいは

ひとりひとり眠るわたしたちは出会えないかもしれない
「あいだ」は鮮やかに生きつづけているから

 「あいだ」は複数の存在があってはじめて生まれるものである。「同時に」もまた複数の存在があってはじめて成り立つものである。「あいだ」によって複数の存在として存在させられながら、しかし「同時に」何かをする--そういう世界を松尾は描いている。「同時に」と意識するとき、見えてくる繊細なもの、繊細な意識のゆらぎを松尾は描いている。そういう揺れ動きを、ひとつ、ふたつではなく、様々に、複数に、「同時に」、描き続けることで、松尾は河津が描いた「あいだ」に踏み込んでゆくのである。「あいだ」を味わい尽くそうとするのである。

 もし、松尾の書いている「散文詩」の部分で、何かよくわからない部分に出会ったら、だまされたと思って「同時に」を挿入して読み直してみてください。そうすると、全体がくっきり見えてくるはずです。



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