入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
この詩集は二部構成になっている。そしてその「Ⅱ」は「「前表」の追認--「わが地獄くだり」その5」というタイトルをもって始まる。
この旅の出発に当たつて 深まるためらひの揚句に記
した 《前表の確認 といふかむしろ 追認》 その一
行のにがさを ここ何十日 何百日のあひだに 何度味
ひ直したことか
ここで書かれている「前表の確認 といふかむしろ 追認」ということばが最初に登場するのは、この連作の2篇目である。「到来」。その書き出しは
来た!
と始まる。何が来たのか、明確には示されていない。ほんとうはまだ来ていないのかもしれない。来ていないものを「来た!」とことばにしたために、それはやってきてしまったのである。
ことばには、そういう不思議な力がある。特に詩人のことばには。そして、ことばのあとで、詩人は事実を確認する。そしてそのとき確認は、ことばでいってしまったことを追認することでもある。いや、確認を通り越して「追認」以外の何ものでもない。
あらゆる事実は「ことば」を「追認」する形で動く。
現代の物理学では論理物理学が先行し、そのあとを実証物理学が追いかける。論理を実証によって追認する。そういうことが「詩」でも起きるのである。
だからこそ、あらゆる「誤読」が生まれる。作者は「事実」にもとづいて書いたかもしれない。しかし読者は「事実」を無視して、そのことばが描き出しうる可能性の世界、自分たちの夢を託した世界を読み取る。そして、そのうちにその世界がやってくる。追認という形で事実がやってくる。
このやってき方には、ほんとうの「追認」という来方がある。だが、もっとも多いのは同時進行だろう。
歌と現実の同時進行
その1行が「「前表」の追認」という作品のなかにある。中断を挟んで再開した詩のなかにある。
「事実」は先行する「ことば」のなかにあるのではない。また、あとからやってきた「事件」のなかにあるのでもない。「同時進行」のなかにある。「同時進行」であるかぎり、それはどちらか一方に重心をおくということはない。同時に、両方に、重心をおく。いや、おくのではなく、おかされる。どちらか一方に重心をおくという選択ができない。
ここに苦悩と、喜びが同時にある。
*
このことを入沢は克明に描いている。告白している。
「情感を手放し 衝迫から解き放たれ」ることを願つた
途端に 俺は 手痛いしつぺ返しを喰らつた ヒュドラ
ーはヘーラクレースでなくては退治できないのだ 感官
をひとた閉ざし 吸ひ込まれて行つた先は 恐れつつも
願つてゐた「地獄」ではなく--といふか むしろ無意
識裡に願つたままの「Copy of 《地獄》」に他ならなかつ
た
入沢は「地獄」そのものではなく、ことばで地獄のコピーをつくろうとした。ところがいったんことばになってしまうと、それはコピーであることをやめて「事実」になった。そのことを入沢は「追認」したのである。
ここに書かれているのは、ことばの力に対する入沢の実感である。
私たちはことばを「誤読」する。そして現実もまたことばを「誤読」してしまう。
「誤読」に見入られ、「誤読」に凌駕されてしまう詩人がここにいる。