詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

荒川洋治「郵便」ほか

2007-06-11 14:51:25 | 詩(雑誌・同人誌)
 荒川洋治「郵便」ほか(「現代詩手帖6月号」2007年0601日発行)。
 「犬塚尭を読む」という特集で、荒川洋治は「郵便」というエッセイを書いている。そのなかで、荒川は犬塚を批評して、

改行の意志がないのだ。

 と書いている。
 これは犬塚の詩の本質をとらえたすばらしい指摘だ。

 犬塚には確かに美しいリズムをもった詩もある。荒川が取り上げているように「郵便」の3行は美しい。しかし、それは例外だ。犬塚の詩は読みにくい。声に出しにくい。もっと私に引きつけていえば、私には声に出して読むことができない。声に出すと、イメージがつかめない。読んでいて、なんのことかわからなくなる。黙読というか、目で読んでいるときは、左右の行の「残り」と「前触れ」が視野のなかにあるので、まだ読み進むことができるが音読すると、何がなんだかわからなくなる。
 「改行の意志がない」とは、1行1行の独立した「意志」がないということだ。1行を1行として独立させる意識というのは不思議なもので、たぶん日本の詩の場合、(これは荒川が書いていることではないので、以下は私の思いつき、荒川のことばに刺激されておもいついたこと)、和歌とか俳句とかのリズムに影響されている。「5・7・5」「5・7・5・7・7」。そういうことばのリズムがあって、歌の場合、たとえば

流してから尿意がもどるあかつきのかすかな異和が思考を叩く(岡井隆)

を、私たちはおうおうにして「流してから尿意がもどるあかつきの/かすかな異和が思考を叩く」という風にして読む。「流してから尿意がもどる/あかつきのかすかな異和が思考を叩く」というのが「意味論」的には正確なのだろうけれど。肉体になじんだリズムが意味よりも優先するのだ。リズムを優先させても、肉体のなかで意味が復活するのだ。そうしたリズムと意味の呼吸のようなものが、日本語の詩のなかには存在する。
 荒川が指摘するように、犬塚には、そういう日本語のリズムと意味の呼吸のようなものが存在しない。リズムそのものがない。
 どうしてだろうか。
 ここから先は、さらに私の推測。
 犬塚は朝日新聞の記者だった(時代がある)。新聞記事というのは、日本語で書かれているが、日本語ではない。そこには日本語のリズムはない。事実をどれだけ正確につたえられるかという基本的な制約のほかに、行の制約(ことばの量の制約)がある。犬塚のことばは、リズムを無視して、どれだけの量を、どれだけ正確に書くかということに、無意識に意識が向けられている。犬塚が発見した詩を、リズムによって磨き上げるという工夫を放棄している--と書くと言い過ぎになるかもしれないが、詩をリズムで磨き上げるという意識が欠けている。
 この意識の欠落が、荒川が指摘するように、犬塚の詩を、日本の詩から分離させている。



 同じ「現代詩手帖」6月号に、荒川は「プリント」という作品を書いている。これは日本語のリズムそのものである。荒川は「美しい」リズムではなく、1行のなかに「場」がくっきりとおさまるリズムをつかっている。「場」をリズムによって再現するという試みをしている。(こういう試みをしている詩人は、たぶん荒川だけである。)
 4連目がとても美しい。

そのうち三〇人ほどになり
「余るはずだった プリント」が
なくなりはじめた
きれいな かたい潮風
鎌田は「さっき余分にもらったの、
返します!」と
少しずつ崖を登り 係の人にちかづく

 「きれいな かたい潮風」と鎌田少年のこころがぴったり重なり、「場」が輝き出す。誰もが少しずつうれしい気分になる、そういう気持ちを共有する「場」がくっきりと浮かび上がってくる。

 荒川にとって詩とは、意味ではない。詩とは「場」である。日本語が日本語と出会って、互いにことばの内側を豊かにしてゆく「場」である。


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入沢康夫と「誤読」(メモ39)

2007-06-11 11:01:38 | 詩集
 入沢康夫『死者たちの群がる風景』(1982年)。
 「Ⅵ 《鳥籠に春が・春が鳥のゐない鳥籠に》--死者たちの群がる風景3」の最終連、この詩集の最後の連に置かれたことば。

あの隻眼の西方の遊行びとは問うてゐる。
「われわれの行為は、ことごとく、
われわれの内部にある死者の行為なのではあるまいか。」
おそらくは然りだ。われわれの生存の道順に従つて
死者の群がる風景は展開する、鈍重に、時としては過激に。
  (谷内注・「問うてゐる」は「問ふてゐる」か?)

 引用されているのはラフカディオ・ハーンのことばだろうか。引用は入沢の作品にとって重要な要素となっている。ことばを引用し、そのことばが含んでいる運動を展開する。展開の仕方によって、「誤読」の世界が始まる。引用されたことばは、私たちの血、神経、肉体、感情となって、私たちを動かすのだともいえる。私たちは、先達の残したことばに従ってことばを学び(真似しながら)、私たちのことばを育てるが、それはある意味では、私たちのことばは先達の残したことばによって動かされているのだとも言い換えることができる。
 「引用」は、この作品に書かれている「死者」と同じなのである。

 ことばは先達の残したもの、「死者」となった人々が残したものを基本に動いて行く。「引用」できることばに従って動いて行く。「引用」とは「死者に群がる」行為なのである。「引用」に群がり、そのことばの世界を私たちの生きている世界へひきずりこむ。死者をよみがえらせるように。

だから、少年の日、私は何度も死んだ。
その度に女神たちは私を生返らせた。

 この作品に書かれているこの死と生の物語は、「引用」(先達のことばに触れる)ことを契機としている。他者のことばに触れる。そして、それまで知らなかったことを知る。(そこには、とうぜん「誤読」も含まれているのだが。)そのとき、そのことばを知らなかった「少年」は死に、同時に、そのことばを知ってしまった「少年」として生き返る。死と生をもたらす「女神」は同一の存在である。
 死と生が深く絡みついているからこそ、その「引用」のことば、「少年」の触れたことばの意味は、「少年」には正確にはわからない。また、大人になった入沢にもわからない。
 メモ「38」でけ触れた「今だつて判つてやしないけれども。」は、そうした事情を語っている。

 「引用」に群がり、展開することば。「引用」されることで「われわれの内部」に存在することになる「ことば」。その運動は、今の私の肉体と感情を通るがゆえに、「引用」されたことばのままでは動けない。何物かがつけ加わる。そのために、時として「鈍重に」なる。また時として「過激に」なる。

 詩集全体をとおして、入沢は入沢自身の詩の方法を語っているのだといえる。
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