荒川洋治「郵便」ほか(「現代詩手帖6月号」2007年0601日発行)。
「犬塚尭を読む」という特集で、荒川洋治は「郵便」というエッセイを書いている。そのなかで、荒川は犬塚を批評して、
と書いている。
これは犬塚の詩の本質をとらえたすばらしい指摘だ。
犬塚には確かに美しいリズムをもった詩もある。荒川が取り上げているように「郵便」の3行は美しい。しかし、それは例外だ。犬塚の詩は読みにくい。声に出しにくい。もっと私に引きつけていえば、私には声に出して読むことができない。声に出すと、イメージがつかめない。読んでいて、なんのことかわからなくなる。黙読というか、目で読んでいるときは、左右の行の「残り」と「前触れ」が視野のなかにあるので、まだ読み進むことができるが音読すると、何がなんだかわからなくなる。
「改行の意志がない」とは、1行1行の独立した「意志」がないということだ。1行を1行として独立させる意識というのは不思議なもので、たぶん日本の詩の場合、(これは荒川が書いていることではないので、以下は私の思いつき、荒川のことばに刺激されておもいついたこと)、和歌とか俳句とかのリズムに影響されている。「5・7・5」「5・7・5・7・7」。そういうことばのリズムがあって、歌の場合、たとえば
を、私たちはおうおうにして「流してから尿意がもどるあかつきの/かすかな異和が思考を叩く」という風にして読む。「流してから尿意がもどる/あかつきのかすかな異和が思考を叩く」というのが「意味論」的には正確なのだろうけれど。肉体になじんだリズムが意味よりも優先するのだ。リズムを優先させても、肉体のなかで意味が復活するのだ。そうしたリズムと意味の呼吸のようなものが、日本語の詩のなかには存在する。
荒川が指摘するように、犬塚には、そういう日本語のリズムと意味の呼吸のようなものが存在しない。リズムそのものがない。
どうしてだろうか。
ここから先は、さらに私の推測。
犬塚は朝日新聞の記者だった(時代がある)。新聞記事というのは、日本語で書かれているが、日本語ではない。そこには日本語のリズムはない。事実をどれだけ正確につたえられるかという基本的な制約のほかに、行の制約(ことばの量の制約)がある。犬塚のことばは、リズムを無視して、どれだけの量を、どれだけ正確に書くかということに、無意識に意識が向けられている。犬塚が発見した詩を、リズムによって磨き上げるという工夫を放棄している--と書くと言い過ぎになるかもしれないが、詩をリズムで磨き上げるという意識が欠けている。
この意識の欠落が、荒川が指摘するように、犬塚の詩を、日本の詩から分離させている。
*
同じ「現代詩手帖」6月号に、荒川は「プリント」という作品を書いている。これは日本語のリズムそのものである。荒川は「美しい」リズムではなく、1行のなかに「場」がくっきりとおさまるリズムをつかっている。「場」をリズムによって再現するという試みをしている。(こういう試みをしている詩人は、たぶん荒川だけである。)
4連目がとても美しい。
「きれいな かたい潮風」と鎌田少年のこころがぴったり重なり、「場」が輝き出す。誰もが少しずつうれしい気分になる、そういう気持ちを共有する「場」がくっきりと浮かび上がってくる。
荒川にとって詩とは、意味ではない。詩とは「場」である。日本語が日本語と出会って、互いにことばの内側を豊かにしてゆく「場」である。
「犬塚尭を読む」という特集で、荒川洋治は「郵便」というエッセイを書いている。そのなかで、荒川は犬塚を批評して、
改行の意志がないのだ。
と書いている。
これは犬塚の詩の本質をとらえたすばらしい指摘だ。
犬塚には確かに美しいリズムをもった詩もある。荒川が取り上げているように「郵便」の3行は美しい。しかし、それは例外だ。犬塚の詩は読みにくい。声に出しにくい。もっと私に引きつけていえば、私には声に出して読むことができない。声に出すと、イメージがつかめない。読んでいて、なんのことかわからなくなる。黙読というか、目で読んでいるときは、左右の行の「残り」と「前触れ」が視野のなかにあるので、まだ読み進むことができるが音読すると、何がなんだかわからなくなる。
「改行の意志がない」とは、1行1行の独立した「意志」がないということだ。1行を1行として独立させる意識というのは不思議なもので、たぶん日本の詩の場合、(これは荒川が書いていることではないので、以下は私の思いつき、荒川のことばに刺激されておもいついたこと)、和歌とか俳句とかのリズムに影響されている。「5・7・5」「5・7・5・7・7」。そういうことばのリズムがあって、歌の場合、たとえば
流してから尿意がもどるあかつきのかすかな異和が思考を叩く(岡井隆)
を、私たちはおうおうにして「流してから尿意がもどるあかつきの/かすかな異和が思考を叩く」という風にして読む。「流してから尿意がもどる/あかつきのかすかな異和が思考を叩く」というのが「意味論」的には正確なのだろうけれど。肉体になじんだリズムが意味よりも優先するのだ。リズムを優先させても、肉体のなかで意味が復活するのだ。そうしたリズムと意味の呼吸のようなものが、日本語の詩のなかには存在する。
荒川が指摘するように、犬塚には、そういう日本語のリズムと意味の呼吸のようなものが存在しない。リズムそのものがない。
どうしてだろうか。
ここから先は、さらに私の推測。
犬塚は朝日新聞の記者だった(時代がある)。新聞記事というのは、日本語で書かれているが、日本語ではない。そこには日本語のリズムはない。事実をどれだけ正確につたえられるかという基本的な制約のほかに、行の制約(ことばの量の制約)がある。犬塚のことばは、リズムを無視して、どれだけの量を、どれだけ正確に書くかということに、無意識に意識が向けられている。犬塚が発見した詩を、リズムによって磨き上げるという工夫を放棄している--と書くと言い過ぎになるかもしれないが、詩をリズムで磨き上げるという意識が欠けている。
この意識の欠落が、荒川が指摘するように、犬塚の詩を、日本の詩から分離させている。
*
同じ「現代詩手帖」6月号に、荒川は「プリント」という作品を書いている。これは日本語のリズムそのものである。荒川は「美しい」リズムではなく、1行のなかに「場」がくっきりとおさまるリズムをつかっている。「場」をリズムによって再現するという試みをしている。(こういう試みをしている詩人は、たぶん荒川だけである。)
4連目がとても美しい。
そのうち三〇人ほどになり
「余るはずだった プリント」が
なくなりはじめた
きれいな かたい潮風
鎌田は「さっき余分にもらったの、
返します!」と
少しずつ崖を登り 係の人にちかづく
「きれいな かたい潮風」と鎌田少年のこころがぴったり重なり、「場」が輝き出す。誰もが少しずつうれしい気分になる、そういう気持ちを共有する「場」がくっきりと浮かび上がってくる。
荒川にとって詩とは、意味ではない。詩とは「場」である。日本語が日本語と出会って、互いにことばの内側を豊かにしてゆく「場」である。