新川和江『記憶する水』(2)(思潮社、2007年05月31日発行)。
愛にはいろいろな形がある。「わたし」と他者(あなた)はけっして融合しない。一体になって溶け合うということはない。一体になり、溶け合うものがあるとすれば、「わたし」と「あなた」のあいだにある「こと」が、溶け合い、一体になる。
「ときどき自分が…」を読むと、新川はそんなふうに感じているのではないかと思えてくる。
1連目。
「わたし」は「畑」なのか。それとも「畑」を手入れする人間なのか。もしほんとうに「わたし」が「ほったらかしにされた遠くの畑」ならば、「わたし」が「走って行って伸び放題の雑草をむしり」云々という行動はできない。ひとりの人間は同時に離れた場所には存在し得ない--というのは基本的な常識である。
新川はありえないこと、でたらめを書いているのか。
そうではない。そして、その「そうではない」ということを明らかにするときに必要なのが、きのう書いた「こと」なのである。
遠くにある畑が、誰も手入れをしないままほったらかしにされている「こと」。--ここでは「畑」が主語である。
遠くにある畑を手入れしに行けない「こと」。--ここでは「わたし」が主語である。
二つの主語が「こと」で結びつく。
遠くにある畑を手入れする「こと」ができたとき、「畑」も「わたし」も幸福になる。「こと」をどうするかが「愛」であり、よろこびであり、生きる意味なのだ。畑を手入れする「こと」、畑が手入れされる「こと」。能動と受動が一体になる。どちらかひとつの行動では世界は成り立たない。する「こと」、される「こと」という反対に向き合ったものが、「こと」のなかで融合し、そこからよろこびの世界が始まる。
これは、たとえばセックスについても同じである。ふたりが融合するのではなく、ふたりでしている「こと」、ふたりが互いにされている「こと」が溶け合い、一体になる。ひとつの世界になる。
新川のもとめているものが「こと」であるがゆえに、新川は「わたし」以外の人間、「わたし」以外の存在を必要とする。
2連目は、そういう状態、「こと」を他人と共有できないときの悲しみ、苦しさを描いている。
この連はまた、新川がなぜ詩を書くのかを語っている部分として読むこともできる。「ずうっと黙りこくって」いては、「のどが/詰まってしまって」、うまく答えられない。他人と話をするという「こと」ができない。新川は、自分自身を相手に、いつも他人と話すという「こと」の練習をしているのだろう。哲学を死の練習と言ったのはプラトンだが、詩は、新川にとっては他人と「話すこと」、他人ときちんと「出会うこと」、「触れ合うこと」の練習なのだ。どうすれば他人と「こと」を楽しめるか、いっしょによろこびをわかちあえるか--そういう練習をしている。
そういう練習をして、何になる?
答えは3連目(最終連)に書かれている。
「わたし」が誰かに出会う「こと」。そしてその出会いのなかで、たとえば話すという「こと」をする。セックスをする「こと」。そのなかで、新川は、それまでの新川とは違ったものになる。海雲雀に。濡れた砂に。それはいままでの新川ではない。だからこそ、その新しい「わたし」が「わたし」に「近づく」(遠いではなく、ぴったりと密着したものになる)。「わたし」が「わたし」のままでは、「わたし」は「遠い」。けれども、ある出会いのなかで「わたし」が海雲雀に、あるいは濡れた砂に「なる」とき、「わたし」はいきいきとした感情を味わうことができる。--これは「わたし」の再生である。
新川は、出会いのなかの「こと」をとおして、何かに「なる」。再生する。生まれ変わる。--これは新川にとっての、セックスと、愛の結晶である出産なのだ。生まれ出たこども、詩は、新川自身であるけれど、同時に新川自身ではない。というのは、詩にしろ、こどもにしろ、それは一人立ちして行くものだから。そんなふうに一人立ちして行く詩、こども(再生した新川自身)を、新川はみつめるという「こと」をしているのかもしれない。
最終連には、そういう願い、祈りが書かれている。
愛にはいろいろな形がある。「わたし」と他者(あなた)はけっして融合しない。一体になって溶け合うということはない。一体になり、溶け合うものがあるとすれば、「わたし」と「あなた」のあいだにある「こと」が、溶け合い、一体になる。
「ときどき自分が…」を読むと、新川はそんなふうに感じているのではないかと思えてくる。
1連目。
ときどき自分が
ほったらかしにされた遠くの畑のように
思えることが わたしにはあります
走って行って伸び放題の雑草をむしり
ていねいに土を耕し 畝をたて
時無し大根や
莢いんげんの種を播きたいのですが
雑用がわたしの足腰にまつわりついて
放してくれないのです
とんで行けないのです
「わたし」は「畑」なのか。それとも「畑」を手入れする人間なのか。もしほんとうに「わたし」が「ほったらかしにされた遠くの畑」ならば、「わたし」が「走って行って伸び放題の雑草をむしり」云々という行動はできない。ひとりの人間は同時に離れた場所には存在し得ない--というのは基本的な常識である。
新川はありえないこと、でたらめを書いているのか。
そうではない。そして、その「そうではない」ということを明らかにするときに必要なのが、きのう書いた「こと」なのである。
遠くにある畑が、誰も手入れをしないままほったらかしにされている「こと」。--ここでは「畑」が主語である。
遠くにある畑を手入れしに行けない「こと」。--ここでは「わたし」が主語である。
二つの主語が「こと」で結びつく。
遠くにある畑を手入れする「こと」ができたとき、「畑」も「わたし」も幸福になる。「こと」をどうするかが「愛」であり、よろこびであり、生きる意味なのだ。畑を手入れする「こと」、畑が手入れされる「こと」。能動と受動が一体になる。どちらかひとつの行動では世界は成り立たない。する「こと」、される「こと」という反対に向き合ったものが、「こと」のなかで融合し、そこからよろこびの世界が始まる。
これは、たとえばセックスについても同じである。ふたりが融合するのではなく、ふたりでしている「こと」、ふたりが互いにされている「こと」が溶け合い、一体になる。ひとつの世界になる。
新川のもとめているものが「こと」であるがゆえに、新川は「わたし」以外の人間、「わたし」以外の存在を必要とする。
2連目は、そういう状態、「こと」を他人と共有できないときの悲しみ、苦しさを描いている。
ときどき自分が
田舎道のバス停の朽ちかけたベンチに
置き去りにされた子供のようにも
思えることが わたしにはあります
日が暮れかかる頃
駐在さんが自転車でやってきて
おうちはどこ? 名前は?
と優しくたずねてくれるけれど
はっきり答えられるかどうか
ずうっと黙りこくっていたので のどが
詰まってしまっていて
この連はまた、新川がなぜ詩を書くのかを語っている部分として読むこともできる。「ずうっと黙りこくって」いては、「のどが/詰まってしまって」、うまく答えられない。他人と話をするという「こと」ができない。新川は、自分自身を相手に、いつも他人と話すという「こと」の練習をしているのだろう。哲学を死の練習と言ったのはプラトンだが、詩は、新川にとっては他人と「話すこと」、他人ときちんと「出会うこと」、「触れ合うこと」の練習なのだ。どうすれば他人と「こと」を楽しめるか、いっしょによろこびをわかちあえるか--そういう練習をしている。
そういう練習をして、何になる?
答えは3連目(最終連)に書かれている。
わたしが遠い わたしが
遠いのです ここにいるわたしは何なのだろう
錆びた船腹に
びっしり牡蠣の貼りついた 廃船のようです
永いこと航海にも出ていないのです
ほんとうは わたしは
嬉嬉として沖に舞いあがる海雲雀かも知れないのに
誰かにはだしの足跡をつけられたがっている
渚の濡れた砂かも知れないのに
「わたし」が誰かに出会う「こと」。そしてその出会いのなかで、たとえば話すという「こと」をする。セックスをする「こと」。そのなかで、新川は、それまでの新川とは違ったものになる。海雲雀に。濡れた砂に。それはいままでの新川ではない。だからこそ、その新しい「わたし」が「わたし」に「近づく」(遠いではなく、ぴったりと密着したものになる)。「わたし」が「わたし」のままでは、「わたし」は「遠い」。けれども、ある出会いのなかで「わたし」が海雲雀に、あるいは濡れた砂に「なる」とき、「わたし」はいきいきとした感情を味わうことができる。--これは「わたし」の再生である。
新川は、出会いのなかの「こと」をとおして、何かに「なる」。再生する。生まれ変わる。--これは新川にとっての、セックスと、愛の結晶である出産なのだ。生まれ出たこども、詩は、新川自身であるけれど、同時に新川自身ではない。というのは、詩にしろ、こどもにしろ、それは一人立ちして行くものだから。そんなふうに一人立ちして行く詩、こども(再生した新川自身)を、新川はみつめるという「こと」をしているのかもしれない。
最終連には、そういう願い、祈りが書かれている。