詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

仲山清「くもがたの」、坂多瑩子「春」

2007-06-05 07:22:24 | 詩(雑誌・同人誌)
 仲山清「くもがたの」、坂多瑩子「春」(「鰐組」222 、2007年06月01日発行)。
 仲山清の「くもがたの」はいきなり始まる。

くもがたの
と そのあとに
だんな とつけくわえられそうな
呼ばれかたをして
ふりかえったが 声のぬしもなく
信号待ちの空は くもがたもなにも
ただひたすらまっさおなばかり

 ふと誰かに呼ばれたような気になる。「くもがたの、だんな」と。「くもがた」って何? 作品のなかに「定規」ということばが出てくる。「雲形定規」。曲線を引くのにつかう。とはいうものの、そんなもの、いまごろつかうのだろうか。
 ということは、どうでもいいような、あるいはもしかしたらとても大切なことのような……。
 あやふやなことがあやふやなままつづいてゆく。

だがなんのまねやら
赤信号をともしたなりで
鉄の橋がしずむじゃないか
世事にうとい偽くもがたに
わかっているのは
情緒にもたれて身を持ちくずした
やつらとは縁を切って
橋を渡り
川の堤を背に
ゆるい坂をバイクでせかせかくだっていたこと

 あやふやな感じをあやふやなままことばに定着させている。「世事にうとい偽くもがた」は、まあ、夢なんだろうなあ。そんなふうに自己肯定したいんだろうなあ。それがいいなあ、と思ってしまう。
 ふっとしのびこませた自己肯定が、文体を支える力になっている。そんなことを考えた。



坂多瑩子「春」は窓枠の隙間にみつけた「やもり」と坂多のやりとり(?)を描いている。そこにおもしろい行が出てくる。

めん棒につかまらせ
ナイフですきまをひろげてやる
ひろがりはしないけど
ひろげてやる

 私はこういう行に感動してしまう。「ひろがりはしないけど/ひろげてやる」。明瞭すぎるほど明瞭だ。仲山の書いていたことがらがどこまでいってもあいまいでぼんやりしているのに対し、坂多の文体はあくまで明瞭である。そして、明瞭とは、実は目の前の存在の描写ではなく、ほんとうはこころのなかで起きていることの描写なのだと気がつく。隙間をひろげて、やもりを助けてやりたい。それが「……ひろげてやる/ひろがりはしないけど/ひろげてやる」の2回の「ひろげてやる」(2回目は、独立した1行である)でくっきり見えてくる。
 こころの動きはさらにさらに明瞭になる。

めん棒につかまらせ
ナイフですきまをひろげてやる
ひろがりはしないけど
ひろげてやる
ひろげてやっているのに
ときどき めん棒をはなして
だらんとする
きっと疲れたのだ
死ぬなよ
そんな
せまっくるしいところで

 「ひろげてやっているのに」がいいなあ。
 こんなときこそ、ことばが通じればいいね、と思う。「くもがたの、だんな」ではなく、「やもりの、だんな」なんて呼びかけて、「ほら、がんばれ、がんばれ」と言ってみたくなる。

コメント (1)
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