鈴村和成「ハエ、ヒトともに」、八木忠栄「夢七夜」(「るしおる」64、2007年05月25日発行)。
鈴村和成「ハエ、ヒトともに」の書き出し。
これは何だろう。何が書いてあるかわからない。わからないのに繰り返し読んでしまった。書いてあることがわかりたかったわけではない。音の変化がおもしろかった。
「くもり日はひかり」は「くもりびはひかり」と読むのか「くもりひはひかり」と読むのか。「くもり」と「ひかり」の対比と「ひ」の繰り返しが印象に残る。「ひ」はそのあとも「神経はひかり」という具合に出てくる。
「無機質な」「むき出しの」という頭韻(?)のようなものもある。
「やけにつやけしだし しけってるしな」という音もおもしろい。音の入り乱れ方がおもしろい。このあとには、「くるおしく くろ焦げに とかげたちと」というものもある。音がしり取りをしながら入り乱れ、突き進む。
ただし、この「音」は私の耳には音楽には聞こえない。なんだか不思議な音だ。快感とは別の場所で響く、何か神経をひっかくような。
いい意味でいえば、「音以前の音」(音楽以前の音)というものかもしれない。もしかすると、武満徹が音楽でやろうとしたことを、詩でやろうとしている?
しかし。
途中に差し挟まれた「音だけでいいんだ どうせ抽象だからね」という「意味」が、ちょっと興ざめだ。
「音だけでいいんだ どうせ抽象だからね」という自覚があるなら、この部分も、もっと「音」に分解してほしかった。そうすれば、わからない、だからおもしろい、という印象になる。「意味」が居すわっているのが残念だ。
*
八木忠栄「夢七夜」の「第一夜(猫が…)」にとても美しい音楽がある。
「ナムアミダブツ」と「涙の粒々」。ああ、いいなあ。文字を見た瞬間、(つまり読むよりも先に、という意味だが)、喉が動いてしまう。舌が動いてしまう。唇が動いてしまう。口蓋と舌の接触、唇のくっついたりはなれたりする感触が体全体を目覚めさせる。そのあとで、ようやく耳に音がやってくる。こういう音楽が私は大好きだ。
詩を読み返すと、この2行よりも前にも美しい音楽があることに気がつく。
「ロシアの老婆」のことではない。「一匹は、……」の3行のことだ。「ただぼーぜん」の「ただ」の力。「ぼーぜん」のひらがなの力。意味を拒絶し、ナンセンスに屹立することば、音の美しさ。
「ナムアミダブツ」と「涙の粒々」に隠れているのも「意味」ではなく、意味を拒絶するナンセンスだ。
ああ、それにしても、それにしても、と繰り返さずにはいられない。「一匹は、ただぼーぜん」のこの美しい音。濁音の豊かな響き。濁音を発音するとき、喉が大きくひろげられる。その解放感が、そのまま音楽だ。感じで「茫然」と書かれていたら、たぶん読み落としてしまう音楽がある。詩においては、ことばをどのように書くかということも音楽の要素なのだ。
鈴村和成「ハエ、ヒトともに」の書き出し。
くもり日はひかり いんさんなものだよ とげと 神経はひかり
無機質な 磁鉄かい むき出しの土間に あいまいな人影が走り
ホテルの玄関まで地続きだった
これは何だろう。何が書いてあるかわからない。わからないのに繰り返し読んでしまった。書いてあることがわかりたかったわけではない。音の変化がおもしろかった。
「くもり日はひかり」は「くもりびはひかり」と読むのか「くもりひはひかり」と読むのか。「くもり」と「ひかり」の対比と「ひ」の繰り返しが印象に残る。「ひ」はそのあとも「神経はひかり」という具合に出てくる。
「無機質な」「むき出しの」という頭韻(?)のようなものもある。
ところどころ穴ぼこが目立つ顔
もくろい穴になって 土足であるくと なんか吸いとられてゆく
みたいで やけにつやけしだし しけってるしな 混線してるん
じゃないか
「やけにつやけしだし しけってるしな」という音もおもしろい。音の入り乱れ方がおもしろい。このあとには、「くるおしく くろ焦げに とかげたちと」というものもある。音がしり取りをしながら入り乱れ、突き進む。
ただし、この「音」は私の耳には音楽には聞こえない。なんだか不思議な音だ。快感とは別の場所で響く、何か神経をひっかくような。
いい意味でいえば、「音以前の音」(音楽以前の音)というものかもしれない。もしかすると、武満徹が音楽でやろうとしたことを、詩でやろうとしている?
しかし。
途中に差し挟まれた「音だけでいいんだ どうせ抽象だからね」という「意味」が、ちょっと興ざめだ。
「音だけでいいんだ どうせ抽象だからね」という自覚があるなら、この部分も、もっと「音」に分解してほしかった。そうすれば、わからない、だからおもしろい、という印象になる。「意味」が居すわっているのが残念だ。
*
八木忠栄「夢七夜」の「第一夜(猫が…)」にとても美しい音楽がある。
車はナムアミダブツをくりかえし
落葉はなみだの粒々をかぞえる
「ナムアミダブツ」と「涙の粒々」。ああ、いいなあ。文字を見た瞬間、(つまり読むよりも先に、という意味だが)、喉が動いてしまう。舌が動いてしまう。唇が動いてしまう。口蓋と舌の接触、唇のくっついたりはなれたりする感触が体全体を目覚めさせる。そのあとで、ようやく耳に音がやってくる。こういう音楽が私は大好きだ。
詩を読み返すと、この2行よりも前にも美しい音楽があることに気がつく。
青山三丁目の交差点脇
ロシアの老婆がむっつりした表情で
大鍋で猫を三匹煮ている
一匹は、泣きわめき
一匹は、笑いころげ
一匹は、ただぼーぜん
「ロシアの老婆」のことではない。「一匹は、……」の3行のことだ。「ただぼーぜん」の「ただ」の力。「ぼーぜん」のひらがなの力。意味を拒絶し、ナンセンスに屹立することば、音の美しさ。
「ナムアミダブツ」と「涙の粒々」に隠れているのも「意味」ではなく、意味を拒絶するナンセンスだ。
ああ、それにしても、それにしても、と繰り返さずにはいられない。「一匹は、ただぼーぜん」のこの美しい音。濁音の豊かな響き。濁音を発音するとき、喉が大きくひろげられる。その解放感が、そのまま音楽だ。感じで「茫然」と書かれていたら、たぶん読み落としてしまう音楽がある。詩においては、ことばをどのように書くかということも音楽の要素なのだ。