海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」ほか(「hotel 」17、2007年05月20日発行)
海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」を読みながら不思議な気持ちになった。引用が多く、海埜自身が何を感じたかわからない。
セザンヌは私の大好きな画家のひとりだ。セザンヌを見るとき私は何を見ているかといえば何が描かれているかというよりも、色だ。どの色も私には出せない。塗り残しの「白」、キャンバスの色さえ、私には出せない。どうしたらこんなに堅牢な色になるのかわからない。その色は、たとえば林檎やポットや木々や洋服そのものが持っている色を超えている。現実に存在する色はもっと不確かだ。セザンヌの視力をとおして、その色が鍛え上げられ、それしかないという感じで絵のなかにある。そのことに私は驚く。
ひとのセザンヌに対する感想と私の感想が重なり合わなくても不思議なことではないけれど、あまりにも印象が違いすぎて、とまどってしまった。
詩の場合も、内容よりも私は「ことば」そのものを読んでいるのかもしれない。私にはつかえないことばというものがある。そういうものに出会ったとき、私は驚く。そして、その驚きとともに、その詩にひかれる。
海埜は「とんぼ玉、買い」という詩を書いている。その1連目。
何が書いてあるかわからない。わからないのだけれど、「ぬった筆をしみました」の「しみました」に非常に驚いた。「しみる」ということばは知っているが、こんなふうにつかうとは知らなかった。知らなかったということが、非常に印象に残るのである。
海埜の、この「しみる」のつかい方が正しいかどうかわからない。しかし、セザンヌの絵の色を見て、あ、あの色をどこかでつかってみたいという衝動に襲われたときのように、このことばをどこかでつかってみたい、という気持ちにさせられる。
詩とは、たぶん、そういう衝動を引き起こすことばなのだ。
こんなふうに、ことばをつかってみたい。こんなふうなつかい方をしてみたい。こんなふうなつかい方でなら今の自分の気持ちをはっきりさせることができる……。そう思わせることばが「詩」なのだ。
そうしたことば、そうした1行が、この詩のなかにはほかにもある。
3連目のなかほどに出てくるこの1行の美しさ。強さ。ひとが吐息を吐いているのを何度も見たことがある。吐息なら何度も聞いたことがある。見ることと聞くことが、そのときどんなふうに私のなかで融合していたのかわからない。思い出せない。けれども、たしかに吐息は眺めることと聞くことはどこかでつながっている。
この1行が、吐息を吐く人間と、「私」の距離をくっきりと浮かび上がらせる。そういう時間があった、ということをくっきりと思い出させる。
こういうとき、セザンヌの「色」そのものを見つめたときのように、私は「ことば」そのものを読んでいるという気持ちになる。
*
野村喜和夫「わたくしはけさ起き上がり肺胞きりり青空をみていました」は、ことばをことばそのものとして読ませることを狙った詩かもしれない。
「石を脱ぎ/風をいたみ」の2行が美しい。特に「風をいたみ」。あ、いま、こんなふうにつかうのか、と驚く。
海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」を読みながら不思議な気持ちになった。引用が多く、海埜自身が何を感じたかわからない。
セザンヌは私の大好きな画家のひとりだ。セザンヌを見るとき私は何を見ているかといえば何が描かれているかというよりも、色だ。どの色も私には出せない。塗り残しの「白」、キャンバスの色さえ、私には出せない。どうしたらこんなに堅牢な色になるのかわからない。その色は、たとえば林檎やポットや木々や洋服そのものが持っている色を超えている。現実に存在する色はもっと不確かだ。セザンヌの視力をとおして、その色が鍛え上げられ、それしかないという感じで絵のなかにある。そのことに私は驚く。
ひとのセザンヌに対する感想と私の感想が重なり合わなくても不思議なことではないけれど、あまりにも印象が違いすぎて、とまどってしまった。
詩の場合も、内容よりも私は「ことば」そのものを読んでいるのかもしれない。私にはつかえないことばというものがある。そういうものに出会ったとき、私は驚く。そして、その驚きとともに、その詩にひかれる。
海埜は「とんぼ玉、買い」という詩を書いている。その1連目。
そのとんぼをこぼしましたか
こえのきれつがどこまでも 闇
いちにあてがい
たまを あなを
糸のはてにひろってやる
くるんだことがしりたくなって
ぬった筆をしみました
何が書いてあるかわからない。わからないのだけれど、「ぬった筆をしみました」の「しみました」に非常に驚いた。「しみる」ということばは知っているが、こんなふうにつかうとは知らなかった。知らなかったということが、非常に印象に残るのである。
海埜の、この「しみる」のつかい方が正しいかどうかわからない。しかし、セザンヌの絵の色を見て、あ、あの色をどこかでつかってみたいという衝動に襲われたときのように、このことばをどこかでつかってみたい、という気持ちにさせられる。
詩とは、たぶん、そういう衝動を引き起こすことばなのだ。
こんなふうに、ことばをつかってみたい。こんなふうなつかい方をしてみたい。こんなふうなつかい方でなら今の自分の気持ちをはっきりさせることができる……。そう思わせることばが「詩」なのだ。
そうしたことば、そうした1行が、この詩のなかにはほかにもある。
といきのながめかたをなんどもきく
3連目のなかほどに出てくるこの1行の美しさ。強さ。ひとが吐息を吐いているのを何度も見たことがある。吐息なら何度も聞いたことがある。見ることと聞くことが、そのときどんなふうに私のなかで融合していたのかわからない。思い出せない。けれども、たしかに吐息は眺めることと聞くことはどこかでつながっている。
といきのながめかたをなんどもきく
この1行が、吐息を吐く人間と、「私」の距離をくっきりと浮かび上がらせる。そういう時間があった、ということをくっきりと思い出させる。
こういうとき、セザンヌの「色」そのものを見つめたときのように、私は「ことば」そのものを読んでいるという気持ちになる。
*
野村喜和夫「わたくしはけさ起き上がり肺胞きりり青空をみていました」は、ことばをことばそのものとして読ませることを狙った詩かもしれない。
わたくしはけさ
起き上がり
肺胞きりり
外に出て
伸び
樹を包み
祖を接ぎ
石を脱ぎ
風をいたみ
すいと
また内へへこんで
妻を詰め
「石を脱ぎ/風をいたみ」の2行が美しい。特に「風をいたみ」。あ、いま、こんなふうにつかうのか、と驚く。