詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」ほか

2007-06-24 22:39:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」ほか(「hotel 」17、2007年05月20日発行)

 海埜今日子「隔たる“郷”--ポール・セザンヌ」を読みながら不思議な気持ちになった。引用が多く、海埜自身が何を感じたかわからない。
 セザンヌは私の大好きな画家のひとりだ。セザンヌを見るとき私は何を見ているかといえば何が描かれているかというよりも、色だ。どの色も私には出せない。塗り残しの「白」、キャンバスの色さえ、私には出せない。どうしたらこんなに堅牢な色になるのかわからない。その色は、たとえば林檎やポットや木々や洋服そのものが持っている色を超えている。現実に存在する色はもっと不確かだ。セザンヌの視力をとおして、その色が鍛え上げられ、それしかないという感じで絵のなかにある。そのことに私は驚く。
 ひとのセザンヌに対する感想と私の感想が重なり合わなくても不思議なことではないけれど、あまりにも印象が違いすぎて、とまどってしまった。

 詩の場合も、内容よりも私は「ことば」そのものを読んでいるのかもしれない。私にはつかえないことばというものがある。そういうものに出会ったとき、私は驚く。そして、その驚きとともに、その詩にひかれる。
 海埜は「とんぼ玉、買い」という詩を書いている。その1連目。

そのとんぼをこぼしましたか
こえのきれつがどこまでも 闇
いちにあてがい
たまを あなを
糸のはてにひろってやる
くるんだことがしりたくなって
ぬった筆をしみました

 何が書いてあるかわからない。わからないのだけれど、「ぬった筆をしみました」の「しみました」に非常に驚いた。「しみる」ということばは知っているが、こんなふうにつかうとは知らなかった。知らなかったということが、非常に印象に残るのである。
 海埜の、この「しみる」のつかい方が正しいかどうかわからない。しかし、セザンヌの絵の色を見て、あ、あの色をどこかでつかってみたいという衝動に襲われたときのように、このことばをどこかでつかってみたい、という気持ちにさせられる。
 詩とは、たぶん、そういう衝動を引き起こすことばなのだ。
 こんなふうに、ことばをつかってみたい。こんなふうなつかい方をしてみたい。こんなふうなつかい方でなら今の自分の気持ちをはっきりさせることができる……。そう思わせることばが「詩」なのだ。
 そうしたことば、そうした1行が、この詩のなかにはほかにもある。

といきのながめかたをなんどもきく

 3連目のなかほどに出てくるこの1行の美しさ。強さ。ひとが吐息を吐いているのを何度も見たことがある。吐息なら何度も聞いたことがある。見ることと聞くことが、そのときどんなふうに私のなかで融合していたのかわからない。思い出せない。けれども、たしかに吐息は眺めることと聞くことはどこかでつながっている。

といきのながめかたをなんどもきく

 この1行が、吐息を吐く人間と、「私」の距離をくっきりと浮かび上がらせる。そういう時間があった、ということをくっきりと思い出させる。
 こういうとき、セザンヌの「色」そのものを見つめたときのように、私は「ことば」そのものを読んでいるという気持ちになる。



  野村喜和夫「わたくしはけさ起き上がり肺胞きりり青空をみていました」は、ことばをことばそのものとして読ませることを狙った詩かもしれない。

わたくしはけさ
起き上がり
肺胞きりり
外に出て
伸び
樹を包み
祖を接ぎ
石を脱ぎ
風をいたみ
すいと
また内へへこんで
妻を詰め

 「石を脱ぎ/風をいたみ」の2行が美しい。特に「風をいたみ」。あ、いま、こんなふうにつかうのか、と驚く。

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入沢康夫と「誤読」(メモ43)

2007-06-24 00:25:05 | 詩集

 入沢康夫『夢の佐比』(1989年)。
 「夢の錆 あるいは過去への遡及」「夢の錆 遺稿群」のふたつの部分から構成されている。最後に「付記」があって、それには次のように書いてある。

 「佐比」は「●」(利剣)であり、「鋤」であり、「荒び・寂び」であり、とりわけここでは「錆」である。
               (谷内注・●は原文は「金偏に且」、すき。)

 まるで、この付記のために詩集全体が書かれている、という印象がある。「佐比」が「錆」である、と言いたくて書かれた詩集という印象がある。

 私は「佐比」の出典を知らない。そして、ただ想像するだけなのだが、入沢はある文献で「佐比」ということばに出会った。それは「さび」と読むのではないのか。「錆」なのではないのか、と思ったのではないのか。文脈からすると、するどい刃物(剣)のようである。何かを耕すものでもあるらしい。--しかし、その耕す(あるいは切る)ということと、「錆」はどこかで通じているのではないのか。「耕す」ということは、土を豊かにすることだ。豊かにするということは、それはそのままでは豊かではないということだ。いわば「錆」ている、つかいものにならないということと、どこかで通じているのではないのか……。あるいは逆に、「耕す」--すると、そこは一瞬は豊かになるが、何かを生み出したあとは「耕す」前よりも貧しくなる。荒んでしまう。寂しいものになる。「錆」びてしまう……。(たぶん、あとに書いた方が入沢の考えに近いように、私は直感的に感じる。)
 ということは、もちろん、この詩集には書かれてはいない。入沢はそんなふうに感じた、思ったとは書いていないけれども、私はなんとなくそんなことを想像してしまった。

 詩集のなかでもっとも印象的なのは、書き出しである。

薄暮の背広に包まれた肉質の悪夢 随所に踞る消炭の行
路標識 季節の裂け目にうづたかく積つて行く綿埃 再
会した二人の友 前世の友のあひだを 走り抜けるまつ
白な雉の幻 この雨がちの箱庭の中で そこだけが深々
と燐光を放つてゐるidの井戸
 (谷内注・「踞る」は原文には「うづくま」るとルビがついている。)

 「id」。精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。「源泉」であるから、それはすでに「井戸」なのだが、それにさらに「井戸」と繰り返す。繰り返すことで、ことばをはがす--耕す。
 「裂け目」「再会」「前世」。「再会」には「裂け目」がある。「前世」にも、「前世」と「いま」という「裂け目」がある。「裂け目」とは断絶であり、それは接合(再会)によって明確になる。断絶と接合は切り離せないものである。「耕す」とは、そういうことかもしれない。何かを耕すことは何かを断ち切ることであり、新たな接合を演出することである。そして、その新たなものもやがて古びていく。
 「佐比」(鋤)と「錆」のあいだには果てしない循環がある。

 「id」の「井戸」。覗き込んで、そこに見えるのは「わたし」の姿である。深く深くのぞけばのぞくほど、それは「わたし」に近くなる。何か、そういう物もある。

 この詩、「夢の錆」は、不思議な具合に展開する。たとえていえば「歌仙」のように展開していると私には感じられる。ある結末が設定されているのではなく、最初に提示されたことば(1連目)はそれ自体で独立している。2連目は1連目を受けてはいるけれど、1連目の延長にあるのではない。古い土地を耕し新しい植物を植えるように、何か新しものが展開していく。
 そして、それは入沢が付記で書いていた「佐比」から「鋤」「荒び・寂び」「錆」への移行のように、何か少しずつずれていくという感じでもある。

 「歌仙」のとき、参加者は必ずしもその場の「現実」を句にするわけではない。古典を引用したりもする。そこで問題になっているのはことばの運動と、ことばの共有である。あるいは「文化」の共有であり、「誤読」の共有である。
 そういうことを、入沢はひとりでやっている。「句」ではなく、数行の「詩」を組み合わせることでやっている。
 そんなふうにして、私はこの詩集を読んだ。

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