詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平田好輝「先生!」

2007-06-07 15:19:08 | 詩(雑誌・同人誌)
 最近読んだ詩のなかでは一番の傑作だ。

ハカマには
オチンチンを出す穴は
開いていないので
柳田教授と並んで立ったとき
教授はなにかひどく仰々しい
音を立てて
ハカマ全体を捲くり上げ
尻まくりをしたのであった

 平田が学生のとき、大学教授とたまたまトイレでいっしょになった。そのときの描写である。教授も学生と同じように小便をする。オチンチンをひっぱりだす。「人間」になってしまう。「人間」に直接触れてしまう。そういうおもしろさがある。
 全行引用したいのだが、そうすると「鰐組」に申し訳ないので、2連目を省略して、3連目。

それからゼミの部屋に入って
ぼくは先生の西周論を拝聴した
森鴎外が論じた西周を
先生は一通りなぞって下さって
それから柳田泉の西周論のウンチクを傾けて下さり
ぼくはそれを
せっせとノートに取った
勿論
オチンチンのことなんか
思いだしもしなかった

 平田は「オチンチンのことなんか/思いだしもしなかった」と「当時」のことを書いているが、今はどうだろう。「オチンチンのこと」しか思い出さないのではないだろうか。西周論については「ウンチクを傾けて下さ」ったとは書けるけれど、その「ウンチク」がどんなものであったかは、オチンチンのようにはすらすらと語れないのではないだろうか。「ノート」なしでは書けないのではないだろうか。
 でも、それでいいのだ、と私は思う。
 オチンチンのことを思いだすのは、たぶん西周論よりも、もっともっと大切なことであると思う。
 西周論というのは、こう書くと誤解を招くかもしれないが、柳田泉教授は西周についてあれこれ語ってくれたというだけで十分である。そういう立派なひとは無数にいる。西周論も無数にある。そういうことは、そういう人がいるということだけ理解できていればいいのである。
 大切なことは、どんな人も同じ人間であるという感覚だ。
 どんな人間も同じであるからこそ、学生に対して西周論も展開するのだろう。学生がどんな人間になるかなんてわかりはしない。西周論を正確に理解し、その理解をもとにさらに西周について考えを深めるかどうかはわからない。西周を乗り越えて、さらに立派な人間になるかなんていうことも、もちろんわからない。そんなことはわからないけれど、同じ人間であるから、教授は語るのである。
 どの部分で、他人を「同じ人間」であると感じるか。それは、ひとそれぞれである。
 泣いたとき、その涙に「同じ人間」を感じるときもあれば、笑いのなかに「同じ人間」を感じるときもある。そして、いっしょに小便をする、ハカマからオチンチンをひっぱりだすのに苦労する--という笑いのなかに「同じ人間」を感じることもある。
 オチンチンは誰にでもある。だれにでもあるもの、そういうところから、人間ってみんな同じ、みんな滑稽で楽しいと思えれば、それでいい。

 書かなくていいことまで書いてしまった。
 「鰐組」を買って、ぜひ、全行を読んでください。2連目にも楽しい楽しい行があります。人間って滑稽で、そこが好きで好きでたまらない、という平田の声が聞こえてきます。

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遠藤誠「龍虎図」

2007-06-07 14:47:24 | 詩(雑誌・同人誌)
 遠藤誠「龍虎図」(「フットスタンプ」14、2007年06月01日発行)。
 書き出しが印象的である。

 その声は粉々に砕かれて垂直に立ち上り、やがて重力に逆らい濃密な意味を軽やかに振り落とすと、さらに馴れ合う必然性をどこまでも逸脱していく。

 落下と重力の関係が、私の意識とは逆である。私なら

 その声は粉々に砕かれて垂直に「落下し」、やがて重力に逆らい濃密な意味を軽やかに「舞い上げる」と、さらに馴れ合う必然性をどこまでも逸脱していく。

 となる。
 遠藤のことばのようには動かない。私の想像力は遠藤のことばとは違うことを想像してしまう。ことばの粘着力を利用して、通常ではありえない世界、私の想像力では思い描けない世界を書こうとしている。とても期待してしまった。
 ただし、2連目以降、印象が違ってくる。
 1行あきのあと、2連目。

 いや、それは情念の暗がりに蟠っていた決別のことばだったろうか、あるいは縺れた感情の糸を絶ち切るように発せられた断末魔の不穏な叫び。初め恨みまがしい粘りを帯びた声の波動が胸の辺りに重い衝撃として打ちあたると、得体の知れない感情を抉り出すように深々と沈み込んできて、次ぎの瞬間にはわたしという存在の網目を突破する鋭い痛みの束となって通過していったのだ。

 粘着力を利用した文体を最近は読んだ記憶がない。こうした文体は、どこまでつづけることができるかが作品の善し悪しを決める。
 そして、この「持続」という問題に関して言えば、遠藤は成功していない。粘着力はあるにはあるのだが、その粘着力は1連目と性質がまったく別のものになっている。
 「情念の暗がり」「蟠っていた」という表現。そこには、ことばの「裏切り」がない。1連目にあったような「重力に逆らい」「振り落とす」といった、想像を超えたものが描かれていない。想像を超えず、逆に「流通している概念」にこびるような文体になってしまっている。
 「恨みまがしい」「粘り」「帯びた」、「重い」「衝撃」、「得体の知れない」「感情」。どのことばの結びつきも「流通」しきっている。私はときどき、こういう表現を「抒情にまみれている」と呼ぶが、そこには「流通している抒情」しかない。
 1連目の印象が強烈で、期待が大きかっただけに、読み進むにしたがって、なんだか残念な気持ちになった。

 詩の最後。

 メールに曰く、「表参道ヒルズのジャン・ポール・エヴァンでマカロンを買って早く帰れ」と共棲する佳人は、風雅に在らずその迫力月日とともに龍虎いずれにも似て、またもわたしを救う。

 笑い話を書きたかったのかもしれない。私がだまされただけだったのかもしれない。最初の1連は、ここに書かれていることは「虚言」ですよ、という「お知らせ」だったのかもしれない。
 それにしても「佳人」とは、よく書いたなあ、と笑い出してしまう。笑い話ではなく、おのろけが書きたかったのかな?


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入沢康夫と「誤読」(メモ36)

2007-06-07 10:47:26 | 詩集
 入沢康夫『死者たちの群がる風景』(1982年)。
 入沢の作品には「連作」が多い。そして「連作」は「連作」であると同時に「別稿」でもある。いくつかの作品を集め、ひとつの世界を構成するというよりも、ある世界のために書いたことばを修正し続けるという感じがする。しかも、その「修正」は作品そのものというよりも、「修正」することが目的なのだ。あることばを書き直す。そのときの精神の動き、動く瞬間に見える何か--それを求めているような印象が非常に強い。
 「Ⅰ 潜戸から・潜戸へ--死者たちの群がる風景1」。その冒頭。

「我らは皆、
形を母の胎に仮ると同時に、
魂を里の境の淋しい石原から得たのである」
といふ民俗学者の言葉を、
三つ目の長編小説で終章の扉に引いたあの先達も、
夜見の世界へと慌しく駆け去つて行つた。

 「民俗学者」のことばを引用すると同時に、入沢は「先達」のことばも引用している。そして、冒頭の3行は「民俗学者」と「先達」が共有すると同時に、入沢も、それについて言及することで共有し、さらにそのことばを読む私たち読者も共有する。
 ことばは共有される。共有されることでことばそのものになる。

まこと、残された者は、死んだ人々の
「代わりに、一つ一つ」言葉の「小石を積み重ねて
自分が生きてゐることの証(あかし)とする」ほかは
「ないのだらうか」。

 冒頭の部分に続く4行だが、この4行はとても不思議な4行である。括弧でくくられた部分は「引用」であることを明示するのだろう。出典は詩の冒頭の「民俗学者」のことばが、あるいは長編小説を書いた「先達」のことばである。「先達」のことばと理解するのが文意の流れからいって自然かもしれない。出典が明示されていないので、あいまいである。そういうことも疑問ではあるが、それよりももっとわからないことがある。

「ないのだらうか」。

 この1行は、ほんとうに「引用」なのか。出典はたしかにあるのだろうけれど、出典として明示するだけの意味があるのか。つまり、「引用」であると断らなければ「盗作」になるような行だろうか。「ないのでらうか」という推測は誰もがする。「民俗学者」や「長編小説」を書いた「先達」だけがするのではない。こういうことばまで「引用」だと仮定すると、引用ではないことばなど存在しなくなる。
 この1行が「引用」である、と断らなければならない理由があるとしたら、「民俗学者」「先達」が「ないのだらうか」と推測したことに対して、入沢が異議をもっているときだけである。「民俗学者」「先達」は「ないのだらうか」と推測しているが、入沢は、推測する必要がないと考えている。そういう意味をこめたとき、それは「引用」と断る必要がある。
 そして、もし、そうだとするならば、ここではことばの共有は破綻していることになる。「民俗学者」と「先達」は、生きている人々は死んだ人々のかわりにことばの小石を積み上げて生きている証とするほかは「ないのだらうか」と推測したが、入沢はそういう推測をしない。生きている人間は、そうするのだ、と「断定」するのだ。
 そのとき、生きているひとのする行動は、実際には「民俗学者」も「先達」も入沢もおなじことをすると考えていることになるが、その同じことのなかに微妙な差異がある。「民俗学者」と「先達」はそういうことを「推測」しているのに対し、入沢は、そういうことを「断定」している。
 ことば共有され、繰り返されるうちに「推測」から「事実」へかわっていってしまう。入沢が詩のなかで書きたいのは、たぶん、そういう変化なのである。
 ことばは最初は「推測」や「夢」であった。しかし、人々のあいだで繰り返され、語り継がれるうちに、「推測」「夢」が絶対に譲れない「事実」、こころが描く「事実」になってしまう。--ことばを、そんなふうにかえていく力、それを私は「誤読」の力と呼ぶのだが、そうした力の存在をこそ、入沢は書こうとしている。書き続けていると私には感じられる。

 ことばの継承、事実の継承。そうしたことに触れた別の部分。

  岸の岩に黒ぐろと立つ三本腕木の絞首台を目撃した、
  腕木の一本は実際に用ゐられてゐるのを
  たしかに見たと、雑誌連載の旅行記に書いた。
  真偽について論議のある記述だが、
  これに触発された別の詩人が名高い詩を仕立て、
  その詩がまた、いま一人の詩人の作品の
  きつかけになつたといふのは事実である。

 「腕木」を目撃し、雑誌に旅行記を書いたのは「軍医」である。(引用が長くなるので、その部分は省略した。)それをもとに詩人が詩を書き、さらにその詩を読んで別の詩人(入沢)が作品を書く。その過程で、「ことば」は共有され、「事実」にかわる。最初のことばの「真偽」が不確かであるにもかかわらず、「事実」として引き継がれていく。それを「事実」と感じたい、信じたい人間が存在するからである。
 このときほんとうに確かなことはひとつしかない。
 「ことば」がつぎの「ことば」を引き出し、さらにまた別の「ことば」を引き出す。「事実」として存在するのは、そういう「ことば」の運動だけである。「ことば」の運動の奥には、そのことばをどういう風に理解したいかという人間の願望がある。それがことばを動かしていく。「誤読」だけが「事実」なのである。最初のことばが真実であろうと、虚偽であろうと、なんの関係もない。

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