最近読んだ詩のなかでは一番の傑作だ。
平田が学生のとき、大学教授とたまたまトイレでいっしょになった。そのときの描写である。教授も学生と同じように小便をする。オチンチンをひっぱりだす。「人間」になってしまう。「人間」に直接触れてしまう。そういうおもしろさがある。
全行引用したいのだが、そうすると「鰐組」に申し訳ないので、2連目を省略して、3連目。
平田は「オチンチンのことなんか/思いだしもしなかった」と「当時」のことを書いているが、今はどうだろう。「オチンチンのこと」しか思い出さないのではないだろうか。西周論については「ウンチクを傾けて下さ」ったとは書けるけれど、その「ウンチク」がどんなものであったかは、オチンチンのようにはすらすらと語れないのではないだろうか。「ノート」なしでは書けないのではないだろうか。
でも、それでいいのだ、と私は思う。
オチンチンのことを思いだすのは、たぶん西周論よりも、もっともっと大切なことであると思う。
西周論というのは、こう書くと誤解を招くかもしれないが、柳田泉教授は西周についてあれこれ語ってくれたというだけで十分である。そういう立派なひとは無数にいる。西周論も無数にある。そういうことは、そういう人がいるということだけ理解できていればいいのである。
大切なことは、どんな人も同じ人間であるという感覚だ。
どんな人間も同じであるからこそ、学生に対して西周論も展開するのだろう。学生がどんな人間になるかなんてわかりはしない。西周論を正確に理解し、その理解をもとにさらに西周について考えを深めるかどうかはわからない。西周を乗り越えて、さらに立派な人間になるかなんていうことも、もちろんわからない。そんなことはわからないけれど、同じ人間であるから、教授は語るのである。
どの部分で、他人を「同じ人間」であると感じるか。それは、ひとそれぞれである。
泣いたとき、その涙に「同じ人間」を感じるときもあれば、笑いのなかに「同じ人間」を感じるときもある。そして、いっしょに小便をする、ハカマからオチンチンをひっぱりだすのに苦労する--という笑いのなかに「同じ人間」を感じることもある。
オチンチンは誰にでもある。だれにでもあるもの、そういうところから、人間ってみんな同じ、みんな滑稽で楽しいと思えれば、それでいい。
書かなくていいことまで書いてしまった。
「鰐組」を買って、ぜひ、全行を読んでください。2連目にも楽しい楽しい行があります。人間って滑稽で、そこが好きで好きでたまらない、という平田の声が聞こえてきます。
ハカマには
オチンチンを出す穴は
開いていないので
柳田教授と並んで立ったとき
教授はなにかひどく仰々しい
音を立てて
ハカマ全体を捲くり上げ
尻まくりをしたのであった
平田が学生のとき、大学教授とたまたまトイレでいっしょになった。そのときの描写である。教授も学生と同じように小便をする。オチンチンをひっぱりだす。「人間」になってしまう。「人間」に直接触れてしまう。そういうおもしろさがある。
全行引用したいのだが、そうすると「鰐組」に申し訳ないので、2連目を省略して、3連目。
それからゼミの部屋に入って
ぼくは先生の西周論を拝聴した
森鴎外が論じた西周を
先生は一通りなぞって下さって
それから柳田泉の西周論のウンチクを傾けて下さり
ぼくはそれを
せっせとノートに取った
勿論
オチンチンのことなんか
思いだしもしなかった
平田は「オチンチンのことなんか/思いだしもしなかった」と「当時」のことを書いているが、今はどうだろう。「オチンチンのこと」しか思い出さないのではないだろうか。西周論については「ウンチクを傾けて下さ」ったとは書けるけれど、その「ウンチク」がどんなものであったかは、オチンチンのようにはすらすらと語れないのではないだろうか。「ノート」なしでは書けないのではないだろうか。
でも、それでいいのだ、と私は思う。
オチンチンのことを思いだすのは、たぶん西周論よりも、もっともっと大切なことであると思う。
西周論というのは、こう書くと誤解を招くかもしれないが、柳田泉教授は西周についてあれこれ語ってくれたというだけで十分である。そういう立派なひとは無数にいる。西周論も無数にある。そういうことは、そういう人がいるということだけ理解できていればいいのである。
大切なことは、どんな人も同じ人間であるという感覚だ。
どんな人間も同じであるからこそ、学生に対して西周論も展開するのだろう。学生がどんな人間になるかなんてわかりはしない。西周論を正確に理解し、その理解をもとにさらに西周について考えを深めるかどうかはわからない。西周を乗り越えて、さらに立派な人間になるかなんていうことも、もちろんわからない。そんなことはわからないけれど、同じ人間であるから、教授は語るのである。
どの部分で、他人を「同じ人間」であると感じるか。それは、ひとそれぞれである。
泣いたとき、その涙に「同じ人間」を感じるときもあれば、笑いのなかに「同じ人間」を感じるときもある。そして、いっしょに小便をする、ハカマからオチンチンをひっぱりだすのに苦労する--という笑いのなかに「同じ人間」を感じることもある。
オチンチンは誰にでもある。だれにでもあるもの、そういうところから、人間ってみんな同じ、みんな滑稽で楽しいと思えれば、それでいい。
書かなくていいことまで書いてしまった。
「鰐組」を買って、ぜひ、全行を読んでください。2連目にも楽しい楽しい行があります。人間って滑稽で、そこが好きで好きでたまらない、という平田の声が聞こえてきます。