詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

 ジャック・ルーマン「黒檀」

2007-06-26 12:32:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 ジャック・ルーマン「黒檀」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」2007年06月号)

 「沈黙」ということばが何度か出てくる。

サイレンが鳴り、鋳物工場の
圧搾機の弁が開くと憎悪の酒が流れ出す
肩の大波、叫び超えの飛沫が
あるいは路地裏に溢れ
あるいはあばら家--蜂起の醸造器--で
沈黙のうちに醗酵する

 この「沈黙」は矛盾である。「沈黙」のなかに叫びがある体。叫びが真実のもの、簡単に他人に聞かせられないものであるから「沈黙」している。その真実を語り、聞かせるときは、その真実はかならず現実をひっくりかえし、勝利しなければならないことが義務づけられたものだからである。長い長い敗北が、「沈黙」にそういう義務を課している。
 「沈黙」をジャック・ルーマンは言い換えている。

さあおまえの声に肉と血のこだまが応じるだろう

 こうした1行を読むと、文学の「決まり事」には歴史的背景はない、国の違いはない、民族の違いはないということがわかる。(だからこそ、翻訳可能なのだろう。)大事なことばはかならず違った形で繰り返される。違った形になって反芻されることで、強烈になってゆく。
 「沈黙」を経たのち発せられる声--その声に血と肉のこだまが応じる。「こだま」は「沈黙」と裏返しの声である。たとえば「マンダング アラダ バンバラ イボ」と繰り返される女性の歌声。そこには声に出しても拒絶されない(人格を否定されない)悲しみが生きている。生き残っている。そして、その悲しみを生きてきた肉体が。「こだま」が応じるのではなく、「こだま」のようにして、そういうものが「声」に反映してしまうのだ。「こだま」のなかで醗酵したもの--それが「声」になる。

貝殻の中に胸苦しい海の音がこだまするように
しかしぼくはまた沈黙も知っている
二万五千の黒人の死体の沈黙
二万五千の黒檀の枕木の沈黙

 歌う女性は「貝殻」になり、貝殻のなかにある「沈黙」が実は二万五千人の死、肉体の沈黙にかわる。
 ことばが言い換えられるたびに強烈になる。

アフリカ ぼくは覚えているぞ アフリカ
おまえはぼくの中にある

 ことばがうねり、ことばが真実を引き出す。「沈黙」の全てを引き出す。
 途中を大幅に省略しているので、私の紹介ではジャック・ルーマンの詩のすばらしさ(恒川の訳のすばらしさ)が伝わらないと思うが、女性が歌う歌の構造と二重写しのようにアフリカ人の自覚、沈黙している血の自覚が輝き出し、怒りとなり、悲しみとなる。そして、それが同時に「誇り」にもなる。
 この「誇り」は「沈黙」と同様に、矛盾である。アフリカの大地から強制的に連れ出され、奴隷として生きた人々、その血の歴史はそれ自体では「誇り」ではない。むしろ「誇り」とは反対のものであろう。しかし「沈黙」のなかで血を途絶えさせずに生き抜いてきたこと、そのいのちのつながりは「誇り」である。誇っていいことである。
 ことばの中から、自覚することの強さ、自覚としての人格が立ち上がる。
 刺激的だ。
 詩は立ち上がる人格である--と書いてしまうと、なんだかわかりきった定義のようでもあるけれど(また、現代詩はそういう「意味」を追及するものではないという意見も聞こえてきそうだけれど)、こうした作品を読むと、ことばそのものの出発点に触れるようで体が震える。


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入沢康夫と「誤読」(メモ45)

2007-06-26 09:42:25 | 詩集
 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 「Ⅰ」「Ⅱ」に分かれている。「Ⅰ」を「Ⅱ」で読み直す、あるいは書き直す。そのときのふたつのことばの「差」(ずれ、というのではない)本当の書きたいことがしのびこんでくる。「差」を行き来するために、どちらにも属さないことばが必要である。それを探している詩集だとも言える。
 このふたつの世界を行き来するための「道」を入沢は、この詩集では「梯子」ということばで表現している。
 その「梯子」そものものよりも、「梯子」にともなう動きが興味深い。

  梯子だ 一段下の(「上の」といつてもそれは同
じこと)

 「Ⅰ」と「Ⅱ」のあいだにあるのは「上・下」の違いではない。上下の違いがあったとしてもそれを上下で呼ぶことは無意味である。これは「上・下」だけではなく「前・後」についても言えることである。

 この作品はまず「Ⅰ」が書かれ、中断ののちに「Ⅱ」が書かれている。引用した「梯子」の文は「Ⅰ」に書かれている。「Ⅰ」に書かれているが、入沢はすでに「Ⅱ」を予感している。無意識のなかで「Ⅱ」は平行して書かれている。
 どんな文学作品でもそうだが、筆者のなかには書きはじめと同時にその終わりが予感として存在する。全体が見えなくても、予感としての全体がある。ことばとして存在していない「結末」がひそかに書き出しに影響している。
 この平行して書かれていることば、無意識のことばのゆえに、入沢は作品を中断しなければならなくなったとも言える。

 この詩集は「到来まで」という作品で始まる。そのなかに《来るべき者》という表現が出てくる。その姿は正確にはだれも知らない。

《来るべき者》 この「べき」こそが問題の要 人々の
話は 細部において全てことなつてゐる

 「細部」が違う。それはだれもその存在を正確には知らないのに、ただその存在がたしかに存在することは知っていることを意味する。何かが違えば、それぞれの存在は別物である可能性があるのに、ここではそういうことは問題になっていない。細部は違っていて当然なのである。細部の違いを超越して「同じ」ひとつの何かがあるのだ。それは、ちょうど「予感」に似ている。何かを書きはじめるときの、結末の「予感」に似ている。書きはじめ、書き進めるたびに細部は違ってくる。違ってくるにもかかわらず、たしかにそこに近づいて行っているという感じが強くなる。
 「到来」で、入沢はその「予感」がはやくもやってきた、と書いている。

 来た! それは思ひもまうけぬ 西南の方角からやつ
て来た

 本当なら「結末」に来るべきものが、書き出してすぐ、2篇目で登場する。これは「予感」が入沢を超越したためである。その「予感」はもしかすると入沢が回避したかった予感かもしれない。ところが、ことばは、それを書いた瞬間から独自の展開をしてしまう。作者の思いとは別に独自に動き回り、全てを先取りしてしまうのである。
 この詩集には、「予感」に先取りされてしまった何か、ことばよりも先行してしまう「事実」のようなものにとまどう入沢がいる。とても風変わりな詩集である。

             しかし俺の身体は今しがた
どこかに どこだつたかは定かでないにせよ 置き去り
にしたはず それなら これは何 この背中 この肩甲
骨は?

 「俺の身体」。このことばに私はつまずいた。「身体」ということばはだれでもがつかう。入沢もつかっているかもしれない。しかし、私の印象には残っていない。身体の部分、目とか耳とか手とか脚とか。そういうものが出てきたとしても、身体全体とは別個のもの、ある特定の働きを明確にするものとして登場しているだけのような印象が残っている。
 この詩集では、入沢の精神といっしょに「身体」も動いている。あるいは、精神の動きを乱す存在として「身体」がその流れに突き刺さっているという感じがする。そして、その突き刺さった「身体」をどう超えていくかが、どこかで問われている。

  (私が書いているこの文章は、メモのメモのようなもので、まだ具体的には何も書いていない状態かもしれない。)

 「身体」によって本来の流れではなくなってしまったことば--それを超えるために「梯子」が求められているのかもしれない。

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