ジャック・ルーマン「黒檀」(恒川邦夫訳)(「現代詩手帖」2007年06月号)
「沈黙」ということばが何度か出てくる。
この「沈黙」は矛盾である。「沈黙」のなかに叫びがある体。叫びが真実のもの、簡単に他人に聞かせられないものであるから「沈黙」している。その真実を語り、聞かせるときは、その真実はかならず現実をひっくりかえし、勝利しなければならないことが義務づけられたものだからである。長い長い敗北が、「沈黙」にそういう義務を課している。
「沈黙」をジャック・ルーマンは言い換えている。
こうした1行を読むと、文学の「決まり事」には歴史的背景はない、国の違いはない、民族の違いはないということがわかる。(だからこそ、翻訳可能なのだろう。)大事なことばはかならず違った形で繰り返される。違った形になって反芻されることで、強烈になってゆく。
「沈黙」を経たのち発せられる声--その声に血と肉のこだまが応じる。「こだま」は「沈黙」と裏返しの声である。たとえば「マンダング アラダ バンバラ イボ」と繰り返される女性の歌声。そこには声に出しても拒絶されない(人格を否定されない)悲しみが生きている。生き残っている。そして、その悲しみを生きてきた肉体が。「こだま」が応じるのではなく、「こだま」のようにして、そういうものが「声」に反映してしまうのだ。「こだま」のなかで醗酵したもの--それが「声」になる。
歌う女性は「貝殻」になり、貝殻のなかにある「沈黙」が実は二万五千人の死、肉体の沈黙にかわる。
ことばが言い換えられるたびに強烈になる。
ことばがうねり、ことばが真実を引き出す。「沈黙」の全てを引き出す。
途中を大幅に省略しているので、私の紹介ではジャック・ルーマンの詩のすばらしさ(恒川の訳のすばらしさ)が伝わらないと思うが、女性が歌う歌の構造と二重写しのようにアフリカ人の自覚、沈黙している血の自覚が輝き出し、怒りとなり、悲しみとなる。そして、それが同時に「誇り」にもなる。
この「誇り」は「沈黙」と同様に、矛盾である。アフリカの大地から強制的に連れ出され、奴隷として生きた人々、その血の歴史はそれ自体では「誇り」ではない。むしろ「誇り」とは反対のものであろう。しかし「沈黙」のなかで血を途絶えさせずに生き抜いてきたこと、そのいのちのつながりは「誇り」である。誇っていいことである。
ことばの中から、自覚することの強さ、自覚としての人格が立ち上がる。
刺激的だ。
詩は立ち上がる人格である--と書いてしまうと、なんだかわかりきった定義のようでもあるけれど(また、現代詩はそういう「意味」を追及するものではないという意見も聞こえてきそうだけれど)、こうした作品を読むと、ことばそのものの出発点に触れるようで体が震える。
「沈黙」ということばが何度か出てくる。
サイレンが鳴り、鋳物工場の
圧搾機の弁が開くと憎悪の酒が流れ出す
肩の大波、叫び超えの飛沫が
あるいは路地裏に溢れ
あるいはあばら家--蜂起の醸造器--で
沈黙のうちに醗酵する
この「沈黙」は矛盾である。「沈黙」のなかに叫びがある体。叫びが真実のもの、簡単に他人に聞かせられないものであるから「沈黙」している。その真実を語り、聞かせるときは、その真実はかならず現実をひっくりかえし、勝利しなければならないことが義務づけられたものだからである。長い長い敗北が、「沈黙」にそういう義務を課している。
「沈黙」をジャック・ルーマンは言い換えている。
さあおまえの声に肉と血のこだまが応じるだろう
こうした1行を読むと、文学の「決まり事」には歴史的背景はない、国の違いはない、民族の違いはないということがわかる。(だからこそ、翻訳可能なのだろう。)大事なことばはかならず違った形で繰り返される。違った形になって反芻されることで、強烈になってゆく。
「沈黙」を経たのち発せられる声--その声に血と肉のこだまが応じる。「こだま」は「沈黙」と裏返しの声である。たとえば「マンダング アラダ バンバラ イボ」と繰り返される女性の歌声。そこには声に出しても拒絶されない(人格を否定されない)悲しみが生きている。生き残っている。そして、その悲しみを生きてきた肉体が。「こだま」が応じるのではなく、「こだま」のようにして、そういうものが「声」に反映してしまうのだ。「こだま」のなかで醗酵したもの--それが「声」になる。
貝殻の中に胸苦しい海の音がこだまするように
しかしぼくはまた沈黙も知っている
二万五千の黒人の死体の沈黙
二万五千の黒檀の枕木の沈黙
歌う女性は「貝殻」になり、貝殻のなかにある「沈黙」が実は二万五千人の死、肉体の沈黙にかわる。
ことばが言い換えられるたびに強烈になる。
アフリカ ぼくは覚えているぞ アフリカ
おまえはぼくの中にある
ことばがうねり、ことばが真実を引き出す。「沈黙」の全てを引き出す。
途中を大幅に省略しているので、私の紹介ではジャック・ルーマンの詩のすばらしさ(恒川の訳のすばらしさ)が伝わらないと思うが、女性が歌う歌の構造と二重写しのようにアフリカ人の自覚、沈黙している血の自覚が輝き出し、怒りとなり、悲しみとなる。そして、それが同時に「誇り」にもなる。
この「誇り」は「沈黙」と同様に、矛盾である。アフリカの大地から強制的に連れ出され、奴隷として生きた人々、その血の歴史はそれ自体では「誇り」ではない。むしろ「誇り」とは反対のものであろう。しかし「沈黙」のなかで血を途絶えさせずに生き抜いてきたこと、そのいのちのつながりは「誇り」である。誇っていいことである。
ことばの中から、自覚することの強さ、自覚としての人格が立ち上がる。
刺激的だ。
詩は立ち上がる人格である--と書いてしまうと、なんだかわかりきった定義のようでもあるけれど(また、現代詩はそういう「意味」を追及するものではないという意見も聞こえてきそうだけれど)、こうした作品を読むと、ことばそのものの出発点に触れるようで体が震える。