詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

秋山基夫「赤い花」

2007-06-21 13:54:44 | 詩(雑誌・同人誌)
 秋山基夫「赤い花」(「ペーパー」創刊号、2007年06月01日発行。)
 「赤い花」は不思議な詩(?)である。エッセーなのかもしれないが……。

糸杉の大木に囲まれた広大な屋敷に到着する アール・ヌーヴォー
風の青銅の門扉は随分以前から開いたままだ かまわず通りすぎ
林の中の小径をしばらく進むと 煉瓦造りのアーチの前に出る ア
ーチは上質の煉瓦を用いて熟練の腕が積み上げたもので 古代力学
による安定を保っている そう見えるが すでに幾十年もの歳月を
経て すっかり脆くなり随所に深い亀裂が走っている 鶸か鶇の一
羽の飛び立つ羽音によっても 一挙にそれは崩壊するかもしれない

 廃園の描写である。
 つづいて、蔦葛の描写が出てくる。

                蔦葛は吸盤のついた無数の触毛
のようなものを巧妙に絡みあわせて網目を作り……それは眼球の中
の毛細血管の網目そっくりなのだが どうしようもなく散乱へ向か
うアーチの各構成要素を ぎとも 外観だけは古典的均衡をたもっ
ている

 そこへ、どういうわけだかわからないが、赤い花が流れてくる。谷間の向こうから流れてくる霧にのって……。

  赤い花が次から次へと漂ってくる すべての赤い花は反転を繰
り返しつつ しだいに揉みほぐされ 幾億の花びらに分解し 霧の
底に沈んでいく 霧の海の断面を見ることが出来るなら 沈下する
幾億の花びらは 壊れた巨大な万華鏡のように見えるかもしれない

 ああ、美しいと思う。「霧の海の断面を見ることが出来るなら」というのは仮定だが、仮定を借りてくっきりとその姿を見ている--その秋山の視力に感動する。
 どのような存在も、ただ肉眼の力だけで見えるわけではない。かならずそこには想像力、(あるいは構想力と三木清なら言うだろうか、)が介在している。世界を統一するひとつの視点(あるときは意図的に、あるいは無意識に)にもとづいて言語は世界を描写する。そのときの視点の確かさ(19日-21日にかけて書いた天沢退二郎のことばを利用していえば「Xレベルの尺度」の揺るぎなさ)が、そして詩の、あるいは文学全体の魅力を測るときの、それこそ「尺度」である。
 秋山の作品は、この幻(?)の廃園の描写までは、その「尺度」が一定していて、とても美しい。肉眼から始まり、肉眼ではないもの、想像力でみる世界への以降がスムーズで感動的だ。
 ただし。
 それ以降があまりおもしろくはない。第二次大戦後、敗戦後の描写、あるいは秋山が「廃」ということばとともに何を考えたか、という秋山にとってはとても重要な部分がおもしろくない。他人のことばが出てくるたびに秋山の「想像力」(構想力)が揺れるからである。「尺度」が他人に影響されて秋山自身の「尺度」を維持できないためである。
 その作品が維持できているのは「尺度」によるものではなく、秋山にからみついている様々な「尺度」が、ちょうどアーチにからみついた蔦葛のように、彼ら自身の「尺度」を維持しているからである。蔦葛が生きているからである。秋山がアーチになり、様々なひとのことばが蔦葛の働きをしているからである。これではつまらないと思う。
 前半の、「霧の海の断面」を現前させた視力、想像力の視力で見つめなおした「後半」を読んでみたいとしきりに思った。


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天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(3)

2007-06-21 10:30:35 | 詩集
 天沢退二郎『人間の運命 黄変綺草集』(3)(思潮社、2007年05月31日発行)。
 「Xレベルの尺度」。あまりにあいまいすぎるだろうか。しかし、これは「X」のままにしておくしかない。「Xレベル」には理由などないのである。
 「黄色くずし」に、その「理由がない」ということばがでてくる。

うるさいなあ
いいかい
とにかく
とつぜん黄八丈がいなないた
「フィーヒ フィーヒ フィーヒ」
すると すかさず黄水仙老爺が
「ふん、黄じるしめが」
とつぶやいた
それをききとがめた黄蜂が
「おれは黄色くなんかない」
と抗議した
どこにも いなないた理由(わけ)なんて
入り込むすきがないだろうが!

 「理由がない」というよりも、「理由」が「はいりこむすきがない」。あるのはただ緊密なつながりだけである。「黄八丈」(八丈絹か何か、黄色い八丈絹のことだろうか)、「黄水仙」「黄じるし」「黄蜂」とつづく「黄」の文字のつながり。その緊密さ。そこに「いなないた」「わけ」を持ち込むと「黄」の関係が乱れてしまう。そういう乱れを拒絶して、ひたすらことばの統一を狙って加速する--というのが天沢のことばである。
 あれ? でも「キ印」の「キ」って「黄」じゃないよね。
 だが、「キ印」の「キ」を「黄」と書くことで、統一と、そしてその統一が隠しているゆがみがくっきり見えてくる。隠しながら、何かをみせる。何が見える? と聞きながら、天沢はことばを動かし続け、ついて来れるかい、と読者を誘っている。

 「黄じるし」って、何だろう。
 ここでは、たぶん天沢は「キ印」ということばをつかいたかったのだ。ところが、今の時代は「キ印」ということばを好まない。差別的だからである。侮蔑的だからである。そこで「黄じるし」。しかも前後に「黄八丈」「黄水仙」「黄蜂」。「きじるし」は「黄」にまみれて、ニュートラルなことばになる。どこにも属さない「自由」なことばになる。その「自由」を支える語り口、「きじるし」さえもこんなふうにつかってしまえるという語り口--語り口の奥にあるものこそ「Xレベルの尺度」というものである。ことばをあくまで自由に解放しようという願いの強さの「レベル」が、そこにあらわれている。

 「Xレベル」の「X」は語り口にあらわれてくる。ことばをあくまで自由にしたいという強い欲望と、その強い欲望が引き起こす毒々しい笑い。その艶。

 「笑い」に「理由」なんかいらない。「理由」のある「笑い」、「理由」が入り込んでくるすきのあることばは「笑い」ではない。
 「理由」を拒絶して、疾走することば、そのスピードの「レベル」、つまり「速度」がつくりだす一種の快感(麻薬)のようなものが、天沢のことばの魅力なのである。

 そして、この駆け抜けることばには「キ印」(黄じるし)のように、ふいに、現実も顔をのぞかせる。私たちのこころの奥底に存在する意識、抑圧されている意識をふいにすくい上げる。
 どんなことばも現実に根差している。それは天沢のことばも例外ではない、というところに、またこの詩のおもしろさがある。
 同じ「黄色くずし」の「2」の部分。

六神丸は多神教で
一心多助は一神教
ところが一味唐辛子と
七味唐辛子の戦争になって
共食いで下痢に終ったのはオソマツで
やっぱり原理主義はこわいなと
十間(けん)道路を非武装化したがやな
それで世田谷街道は
いまはただいちめん十字花(ナタネ)ばたけ
豚骨峠までつづいておるわい
  (谷内注・「下痢」と「原理」には原文は傍点がついている。)

 「一心多助」を「多」をつかって書く遊びが「多神教」と「一神教」を引き寄せ、さらに「一心」と「一神」がからみつくおもしろさ。「一味」「七味」のことばの、音の近さ。「したがや(な)」と「世田谷」の舌を噛みそうなことばあそび。さらには「いちめんのなのはな」ならぬ「いちめんの十字花(ナタネ)ばたけ」という、わざとずらしたパロディー、「とんこつ」「とうげ」という遊びへの逆戻り……。そうしたことば遊びの滑らかさのあいだに、ふいに顔を出す「原理主義はこわい」という本音。(原理主義では下痢をおこしてしまうという「傍点」による暗示。)その顔の出させ方が「黄じるし」と同じなのである。「同じXレベルの尺度」でことばが選ばれ、ことばが駆け抜ける。
 「キ印」ということばをつかってはいけないという「原理主義」はこわいぞ。
 そんなことばにならないことばが、天沢の詩のことばといっしょに(あるいは、それよりもっと速く)、駆け抜けていく。このスピード感。スピード感の陶酔。その陶酔の「レベル」を一定にする「尺度」--そういものとしての「語り口」(話法)が天沢には確立されている。

 描かれている対象、ことば、天沢--その三つの関係が、三つの存在の「距離感」(尺度)が一定である。「Xレベル」がいつも守られている。この安定感が天沢の詩である。天沢は次々に新しい詩を書きながら「こんなXレベル」がありますよ、こんな尺度がありますよ、と様々な「レベルの尺度」の展覧会をやっているのである。



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