秋山基夫「赤い花」(「ペーパー」創刊号、2007年06月01日発行。)
「赤い花」は不思議な詩(?)である。エッセーなのかもしれないが……。
廃園の描写である。
つづいて、蔦葛の描写が出てくる。
そこへ、どういうわけだかわからないが、赤い花が流れてくる。谷間の向こうから流れてくる霧にのって……。
ああ、美しいと思う。「霧の海の断面を見ることが出来るなら」というのは仮定だが、仮定を借りてくっきりとその姿を見ている--その秋山の視力に感動する。
どのような存在も、ただ肉眼の力だけで見えるわけではない。かならずそこには想像力、(あるいは構想力と三木清なら言うだろうか、)が介在している。世界を統一するひとつの視点(あるときは意図的に、あるいは無意識に)にもとづいて言語は世界を描写する。そのときの視点の確かさ(19日-21日にかけて書いた天沢退二郎のことばを利用していえば「Xレベルの尺度」の揺るぎなさ)が、そして詩の、あるいは文学全体の魅力を測るときの、それこそ「尺度」である。
秋山の作品は、この幻(?)の廃園の描写までは、その「尺度」が一定していて、とても美しい。肉眼から始まり、肉眼ではないもの、想像力でみる世界への以降がスムーズで感動的だ。
ただし。
それ以降があまりおもしろくはない。第二次大戦後、敗戦後の描写、あるいは秋山が「廃」ということばとともに何を考えたか、という秋山にとってはとても重要な部分がおもしろくない。他人のことばが出てくるたびに秋山の「想像力」(構想力)が揺れるからである。「尺度」が他人に影響されて秋山自身の「尺度」を維持できないためである。
その作品が維持できているのは「尺度」によるものではなく、秋山にからみついている様々な「尺度」が、ちょうどアーチにからみついた蔦葛のように、彼ら自身の「尺度」を維持しているからである。蔦葛が生きているからである。秋山がアーチになり、様々なひとのことばが蔦葛の働きをしているからである。これではつまらないと思う。
前半の、「霧の海の断面」を現前させた視力、想像力の視力で見つめなおした「後半」を読んでみたいとしきりに思った。
「赤い花」は不思議な詩(?)である。エッセーなのかもしれないが……。
糸杉の大木に囲まれた広大な屋敷に到着する アール・ヌーヴォー
風の青銅の門扉は随分以前から開いたままだ かまわず通りすぎ
林の中の小径をしばらく進むと 煉瓦造りのアーチの前に出る ア
ーチは上質の煉瓦を用いて熟練の腕が積み上げたもので 古代力学
による安定を保っている そう見えるが すでに幾十年もの歳月を
経て すっかり脆くなり随所に深い亀裂が走っている 鶸か鶇の一
羽の飛び立つ羽音によっても 一挙にそれは崩壊するかもしれない
廃園の描写である。
つづいて、蔦葛の描写が出てくる。
蔦葛は吸盤のついた無数の触毛
のようなものを巧妙に絡みあわせて網目を作り……それは眼球の中
の毛細血管の網目そっくりなのだが どうしようもなく散乱へ向か
うアーチの各構成要素を ぎとも 外観だけは古典的均衡をたもっ
ている
そこへ、どういうわけだかわからないが、赤い花が流れてくる。谷間の向こうから流れてくる霧にのって……。
赤い花が次から次へと漂ってくる すべての赤い花は反転を繰
り返しつつ しだいに揉みほぐされ 幾億の花びらに分解し 霧の
底に沈んでいく 霧の海の断面を見ることが出来るなら 沈下する
幾億の花びらは 壊れた巨大な万華鏡のように見えるかもしれない
ああ、美しいと思う。「霧の海の断面を見ることが出来るなら」というのは仮定だが、仮定を借りてくっきりとその姿を見ている--その秋山の視力に感動する。
どのような存在も、ただ肉眼の力だけで見えるわけではない。かならずそこには想像力、(あるいは構想力と三木清なら言うだろうか、)が介在している。世界を統一するひとつの視点(あるときは意図的に、あるいは無意識に)にもとづいて言語は世界を描写する。そのときの視点の確かさ(19日-21日にかけて書いた天沢退二郎のことばを利用していえば「Xレベルの尺度」の揺るぎなさ)が、そして詩の、あるいは文学全体の魅力を測るときの、それこそ「尺度」である。
秋山の作品は、この幻(?)の廃園の描写までは、その「尺度」が一定していて、とても美しい。肉眼から始まり、肉眼ではないもの、想像力でみる世界への以降がスムーズで感動的だ。
ただし。
それ以降があまりおもしろくはない。第二次大戦後、敗戦後の描写、あるいは秋山が「廃」ということばとともに何を考えたか、という秋山にとってはとても重要な部分がおもしろくない。他人のことばが出てくるたびに秋山の「想像力」(構想力)が揺れるからである。「尺度」が他人に影響されて秋山自身の「尺度」を維持できないためである。
その作品が維持できているのは「尺度」によるものではなく、秋山にからみついている様々な「尺度」が、ちょうどアーチにからみついた蔦葛のように、彼ら自身の「尺度」を維持しているからである。蔦葛が生きているからである。秋山がアーチになり、様々なひとのことばが蔦葛の働きをしているからである。これではつまらないと思う。
前半の、「霧の海の断面」を現前させた視力、想像力の視力で見つめなおした「後半」を読んでみたいとしきりに思った。