吉本隆明「岡井隆の近業について 『家常茶飯』を読む」(「現代詩手帖」6月号、2007年06月01年発行)。
「自己劇化」と「自己解体」。この違いは微妙だ。自己劇化のためには自己分析が必要だ。分析はときとして解体をともなう。どこが、どう違うのか。
吉本は次の歌から引き出している。
この作品を引いて、先に引用した「自己解体」に先立って、次のように書いている。
「散文」によって自己分析をする。そこに「自己解体」を見ている。「劇化」はかならずしも散文を通過しなくてもいい、ということかもしれない。「散文」(フィクション)と「解体」とは、別のことばで言えば、真実を明確にするためにフィクション(虚構)を利用する、ということかもしれない。隠れているものを見えるようにするために虚構を導入する。
そういうことを岡井は試みてている、と吉本は指摘しているのだろう。
劇化は、ある一部を拡大することによっても可能である。全体を把握する必要はないかもしれない。しかし、解体は全体を把握しないことには単なる破壊になる。破壊ではなく、解体する。解体することで、その内部にかくれているものを明確にする。かくれているもの、というのは、それは存在というより、「構造」そのものであることもある。
自分と母との関係(構造)。母を通して自己をもう一度とらえなおす。そのとき、たとえば「便座」という「日常」の暮らしを持ち込む。それはたしかにフィクションの導入かもしれない。明確な散文意識がそこに働いているかもしれない。
一首の歌から、そういう結論を引き出してくる吉本の眼力に、目が眩んでしまう。
「詩」は、たしかにそうした散文意識の向こうに、散文意識が自己を解体した向こう側に立ち上がってくるものだろうと思う。
*
吉本の批評とは別に、私自身の感想。
「あたたかさうな」の「さうな」に私はどぎまぎしてしまう。便座の覆い。そのありふれた日常。その日常の前で、岡井はたたずんでいる。触っていない。便座に座っているなら、「さうな」はありえない。
「さうな」のなかに、岡井と母の家との微妙な関係を感じてどきまぎしてしまうのは私だけだろうか。
母の家には便座の温かい覆いをそのまま利用する人がいる。一方、岡井は、その便座の「あたたかさ」を直接的には知ることはなかった。「あたたかさ」を知る人と知らない人。その差異が「去る」を強烈に浮かび上がらせる。「さうな」が浮き彫りにするのは、「あたたかさ」とは反対にあるものであり、「あたたか」ということばがとても強烈に響いてくる。「最後の記憶」の「最後」をも強烈に浮かび上がらせる。
「吉本の批評とは別に」と書いたけれど、この私の感想は、もしかすると吉本のことばにひきずられ、拡大されたものかもしれない。
現今の岡井隆は自己劇化よりも自己解体のわざで短歌(古典詩形)の延命を試みているようにおもえる。
「自己劇化」と「自己解体」。この違いは微妙だ。自己劇化のためには自己分析が必要だ。分析はときとして解体をともなう。どこが、どう違うのか。
吉本は次の歌から引き出している。
あたたかさうな便座の覆ひ 去る前のたらちねの家の最後の記憶
この作品を引いて、先に引用した「自己解体」に先立って、次のように書いている。
連想を呼び起こされたが、茂吉の「死にたまふ母」の連作は、上句または下句の強烈な自己劇化によって万葉和歌の水準にまで現代(近代)短歌の水準をもっていった。との離れ業に最初に気づいたのは、たぶん芥川龍之介だった。賞讃を強く内面に感じたとおもわれる。しかしそれよりもこの連作に小説を、つまりフィクション自在の散文作品とおもじものを感じるのだと言った方がいいような気がする。
現今の岡井隆は自己劇化よりも自己解体のわざで短歌(古典詩形)の延命を試みているようにおもえる。
「散文」によって自己分析をする。そこに「自己解体」を見ている。「劇化」はかならずしも散文を通過しなくてもいい、ということかもしれない。「散文」(フィクション)と「解体」とは、別のことばで言えば、真実を明確にするためにフィクション(虚構)を利用する、ということかもしれない。隠れているものを見えるようにするために虚構を導入する。
そういうことを岡井は試みてている、と吉本は指摘しているのだろう。
劇化は、ある一部を拡大することによっても可能である。全体を把握する必要はないかもしれない。しかし、解体は全体を把握しないことには単なる破壊になる。破壊ではなく、解体する。解体することで、その内部にかくれているものを明確にする。かくれているもの、というのは、それは存在というより、「構造」そのものであることもある。
自分と母との関係(構造)。母を通して自己をもう一度とらえなおす。そのとき、たとえば「便座」という「日常」の暮らしを持ち込む。それはたしかにフィクションの導入かもしれない。明確な散文意識がそこに働いているかもしれない。
一首の歌から、そういう結論を引き出してくる吉本の眼力に、目が眩んでしまう。
「詩」は、たしかにそうした散文意識の向こうに、散文意識が自己を解体した向こう側に立ち上がってくるものだろうと思う。
*
吉本の批評とは別に、私自身の感想。
あたたかさうな便座の覆ひ 去る前のたらちねの家の最後の記憶
「あたたかさうな」の「さうな」に私はどぎまぎしてしまう。便座の覆い。そのありふれた日常。その日常の前で、岡井はたたずんでいる。触っていない。便座に座っているなら、「さうな」はありえない。
「さうな」のなかに、岡井と母の家との微妙な関係を感じてどきまぎしてしまうのは私だけだろうか。
母の家には便座の温かい覆いをそのまま利用する人がいる。一方、岡井は、その便座の「あたたかさ」を直接的には知ることはなかった。「あたたかさ」を知る人と知らない人。その差異が「去る」を強烈に浮かび上がらせる。「さうな」が浮き彫りにするのは、「あたたかさ」とは反対にあるものであり、「あたたか」ということばがとても強烈に響いてくる。「最後の記憶」の「最後」をも強烈に浮かび上がらせる。
「吉本の批評とは別に」と書いたけれど、この私の感想は、もしかすると吉本のことばにひきずられ、拡大されたものかもしれない。