詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉本隆明「岡井隆の近業について 『家常茶飯』を読む」

2007-06-03 15:43:05 | その他(音楽、小説etc)
 吉本隆明「岡井隆の近業について 『家常茶飯』を読む」(「現代詩手帖」6月号、2007年06月01年発行)。

 現今の岡井隆は自己劇化よりも自己解体のわざで短歌(古典詩形)の延命を試みているようにおもえる。

 「自己劇化」と「自己解体」。この違いは微妙だ。自己劇化のためには自己分析が必要だ。分析はときとして解体をともなう。どこが、どう違うのか。
 吉本は次の歌から引き出している。

あたたかさうな便座の覆ひ 去る前のたらちねの家の最後の記憶

 この作品を引いて、先に引用した「自己解体」に先立って、次のように書いている。

 連想を呼び起こされたが、茂吉の「死にたまふ母」の連作は、上句または下句の強烈な自己劇化によって万葉和歌の水準にまで現代(近代)短歌の水準をもっていった。との離れ業に最初に気づいたのは、たぶん芥川龍之介だった。賞讃を強く内面に感じたとおもわれる。しかしそれよりもこの連作に小説を、つまりフィクション自在の散文作品とおもじものを感じるのだと言った方がいいような気がする。
 現今の岡井隆は自己劇化よりも自己解体のわざで短歌(古典詩形)の延命を試みているようにおもえる。

 「散文」によって自己分析をする。そこに「自己解体」を見ている。「劇化」はかならずしも散文を通過しなくてもいい、ということかもしれない。「散文」(フィクション)と「解体」とは、別のことばで言えば、真実を明確にするためにフィクション(虚構)を利用する、ということかもしれない。隠れているものを見えるようにするために虚構を導入する。
 そういうことを岡井は試みてている、と吉本は指摘しているのだろう。
 劇化は、ある一部を拡大することによっても可能である。全体を把握する必要はないかもしれない。しかし、解体は全体を把握しないことには単なる破壊になる。破壊ではなく、解体する。解体することで、その内部にかくれているものを明確にする。かくれているもの、というのは、それは存在というより、「構造」そのものであることもある。
 自分と母との関係(構造)。母を通して自己をもう一度とらえなおす。そのとき、たとえば「便座」という「日常」の暮らしを持ち込む。それはたしかにフィクションの導入かもしれない。明確な散文意識がそこに働いているかもしれない。
 一首の歌から、そういう結論を引き出してくる吉本の眼力に、目が眩んでしまう。
 「詩」は、たしかにそうした散文意識の向こうに、散文意識が自己を解体した向こう側に立ち上がってくるものだろうと思う。



 吉本の批評とは別に、私自身の感想。

あたたかさうな便座の覆ひ 去る前のたらちねの家の最後の記憶

 「あたたかさうな」の「さうな」に私はどぎまぎしてしまう。便座の覆い。そのありふれた日常。その日常の前で、岡井はたたずんでいる。触っていない。便座に座っているなら、「さうな」はありえない。
 「さうな」のなかに、岡井と母の家との微妙な関係を感じてどきまぎしてしまうのは私だけだろうか。
 母の家には便座の温かい覆いをそのまま利用する人がいる。一方、岡井は、その便座の「あたたかさ」を直接的には知ることはなかった。「あたたかさ」を知る人と知らない人。その差異が「去る」を強烈に浮かび上がらせる。「さうな」が浮き彫りにするのは、「あたたかさ」とは反対にあるものであり、「あたたか」ということばがとても強烈に響いてくる。「最後の記憶」の「最後」をも強烈に浮かび上がらせる。

 「吉本の批評とは別に」と書いたけれど、この私の感想は、もしかすると吉本のことばにひきずられ、拡大されたものかもしれない。


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入沢康夫と「誤読」(メモ35)

2007-06-03 13:28:32 | 詩集
 入沢康夫『春の散歩』(1982年)。
 「《春が鳥のゐない鳥籠に》--『死者たちが群がる風景』終章の別稿」。「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」をはじめとして、入沢の作品には「別稿」が存在する。それも「草稿」の形で存在するのではなく、完成形として存在する。
 これは何を意味するのだろうか。AとBの作品があったとき、どちらを完成形と見るべきなのだろうか。入沢はどちらも完成形というだろう。たしかにどちらも完成形であり、その二つの作品がつくりだしている「差異」の方がさらに完成形だというだろうと思う。完成形は書かれたことばのなかにではなく、読まれたことばのなかにある。読まれ、変形するとき、その変形のなかに、ほんとうの完成形がある。「誤読」として存在する。

ババイケといふ名を誤解して、老婆の投身した池と信じてゐた。
私も、私の小さな仲間たちも。

 あることばを誤解して、まったく別な意味と信じる、「誤読」する--ということは誰にでもあることだろう。また、その誤解が個人的な体験ではなく、仲間うちで共有されるということもあるだろう。
 誰にでも共通する体験だけれど、それを共通する体験だと自覚するかどうかは、また別の問題である。入沢は、そのことを強く自覚している。ひとはことばを「誤読」する。そしてその「誤読」は共有される。共有されることで「誤読」は「誤読」ではなく、真実になる。信じる--というこころの、その心情の真実となる。ひとはことばに出会って、そのことばが指し示すものを発見するのではなく、そのことばが照らしだしてくれるこころを再発見するのである。ことばにならなかったこころ、いってはいけないこころ、それが「誤読」のなかでいきいきと動きだすのである。

ババイケといふ名を誤解して、老婆の投身した池と信じてゐた。

 これは、その池を、一種の「こわいもの」としとらえたいこころが見た風景である。こわいから、どうするのか。近づかないのか。さらに近づいてこわいことを体験したいのか。それがどういう形をとるにしろ、共有されて、真実になる。
 ただし、「誤読」はいつまでも「誤読」のままではない、ということも入沢は理解している。

ババイケといふ名を誤解して、老婆の投身した池と信じてゐた。
私も、私の小さな仲間たちも。

 「信じてゐた。」という「過去形」。そして「私も、私の小さな仲間たちも。」という「限定」。子供たちだけが共有するひとつの「時間」。過ぎ去った時間がかかえこんでいる「誤読」--そこには過ぎ去った時間だけがもっている「純粋さ」のようなものが潜んでいる。それは「誤読」が「誤読」でなくなるとき、どこかへ消えてしまう。「ババイケ」を老婆が投身自殺した池という意味ではないと知ったとき、消えてしまう。
 消えてしまう、死者になるのは「老婆」ではなく、「老婆の投身自殺」を信じていた子供の方である。幼年期の入沢の方である。
 作品の冒頭。

死者たちが、私の目を通して
湖の夕映えを眺めてゐる。
涙してゐる。
あの猿の尻のやうにまつ赤なまつ赤な雲を見て、
たまには笑へ、死者よ、死者よ。

羊歯の葉かげで錆び朽ちていく犬釘、
排水溝のなかの、槍に貫かれた頭蓋骨。
走り去る蜥蜴、石の下のハサミムシ。
それらのことごとくが私に告げる。
何しに来た、二度と来るな。

 「誤読」とともにあった世界。その世界は「誤読」が消えた今、入沢を受け入れようとはしない。「誤読」した世界への再訪を描くこの詩は、ある意味では、もうひとつの『わが出雲・わが鎮魂』かもしれない。
 「誤読」探しの旅--そういうテーマが入沢にあるのではないだろうか。



 「誤読」。「誤読」というときに問題となるのは「意味」である。その「意味」ということばが、この詩にも書かれている。とても印象的だ。

その「Enfance finie 」といふ詩を、
横文字の題名の意味もまだ知らずに、
何度も何度も読んだのは、私の、
まさしく少年時が終らうとしてゐた頃。

 私たちは「意味」を知らずに「読む」ことができる。そのとき「意味」を知らないけれど、「意味」を感じている。「頭」で「意味」を理解するのではなく、「こころ」で「意味」をつかみとっている。こころで「意味」をつくりだしている。

 なぜ、こころは意味をつくりだしてしまうのか。入沢は、そのことを詩の形で問いかけているような気がする。
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