詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

 柴田千晶「横須賀」

2007-06-25 13:26:00 | その他(音楽、小説etc)
 柴田千晶「横須賀」(「hotel 」17、2007年05月20日発行)
 たぶん「俳句」なのだと思う。

朧夜の遠隔操作人堕ちぬ

 冒頭の、この作品が一番おもしろい。と、感じたのは、最初に読んだためなのか、それともほんとうに一番おもしろいのか。実は、よくわからない。
 朧夜。遠くマンションか何か。ひとが動いている。それを見ている。ひそかに、こころの奥に「あの人が落ちれば」と動く意識がある--と読んではいけないだろうか。「詩」ならば、私は確実にそう読む。そして、「遠隔操作」ということばに震える。
 「俳句」の場合、どう読むのだろうか。

機関車の突き刺さりたる春障子

 「機関車」というものを柴田はどこで見るのだろうか。「障子」はどこで見るのだろうか。私は、もう10年以上も、機関車も障子も見ていない。俳句が現実を描かなければならない理由はないのだが、どこから「機関車」や「障子」が出てくるのか私にはわからなかった。
 「新感覚派」のようなことばの出会い。そこに柴田は短い詩=俳句を感じているのだろうか。
 俳句と短い詩は別のものだと私は思うのだけれど。

魚眼レンズに血族結集花筵

 「に」が俳句ではないという感じがする。この粘着質(ここに柴田の「詩」があるのだけれど--「朧夜の」の「の」、「機関車の」の「の」も同じ)が俳句の世界とはちょっと違う。俳句は粘着質で、己から出発して世界を構築していくというものではないと思う。己と世界が一瞬の内に交流し、融合し、一体になるものだと思う。そういう一瞬の運動、一点でしか表現できない運動と「に」が矛盾する。接続を印象づける「に」ではなく、ここではむしろ切断、「切れ」がほしいと思う。
 「結集」も苦しい。「血族」がすでにかたいことばなのだから、ここは緩急をつけて、世界の幅を大きく取るべきだろう。


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コリーヌ・セロー監督「サン・ジャックへの道」

2007-06-25 02:54:07 | 映画
監督 コリーヌ・セロー 出演 ミュリエル・ロバン、アルチュス・バンゲルン

 1500キロを歩く巡礼の旅。その過程で仲の悪い兄弟が仲違いをやめ、いっしょに歩いた仲間たちの団結も強くなる、という単純な話である。
 とてもおもしろそうな予告編だったが、予告編に欠けていたものが本編でも欠けていた。
 風景である。
 自然の野山の、人間を拒絶するような美しさ。あるいは様々な教会の人間を超越する建物の美しさ。そういうものが「断片」でしか出てこない。「断片」であっても、そこを歩いている人間を圧倒する存在感で登場するならおもしろいだろうが、単なる背景になりさがっている。
 自然や偉大な建築物には生身の人間には太刀打ちできない何かがある。そういうものの影響が「巡礼」には反映するはずである。15キロ歩くのではない。1500キロも歩くのである。肉体だけで自然に向き合うのである。そのときの自然との対話というものが肉体に反映されて当然なのに、この映画ではそういうものは描かれない。
 街中では自然におこなわれていることがいかに滑稽なことであるかを自然のなかで展開してみせるだけである。1本の木の下で全員が携帯電話をつかって話しはじめるシーンはその象徴的なものである。自然は、この映画では人間を戯画化するためにのみつかわれている。これではつまらない。
 ヴェルナー・ヘルツォーク監督の「フィッツカラルド」は巨大な船で山越えをするというとんでもない映画であったが、そこでは自然が、緑が氾濫し、その氾濫が反乱そのもののように人間を圧倒する。そういう壮絶さがあった。自然と人間は相いれない。自然に敗北しながら人間は人間であることを確かめる。
 そういうシーン。敗北をとおしての人間同士のいたわりあいがない。せいぜいが、重い荷物をこっそり捨てるくらいである。まるでマンガである。
 こうした安直さは、たとえばキリスト教のイスラム教徒への許容力のなさに対して、主人公のひとりが差別だと怒るシーンに反映されている。教会は宗教の違いを受け入れない。けれどもいっしょに歩いた仲間たちは宗教の違いを超えて団結する……。こういうシーンが力を持つとしたら、歩いてくる過程で、仲間たちが宗教についてあれこれ対話するということが必要なのに、そういうものがない。何の議論も無しに、突然、そういう絵空事を主張しても、それはキリスト教を批判するための批判にすぎない。
 この映画の唯一の救いは難読症の少年である。バカと思われている。自分でもバカであると感じているらしい。この少年が唯一人間らしい反応を一貫して持続し続ける。母が死ぬなんてどんなに寂しいことだろう。人間が死ぬなんてどんなに悲しいことだろう。そういう視点で人間と絶えず接している。彼だけが一貫して愛を生きている。その愛を、やがて全員が共有するようになるのだが、これもまたちょっと安直な感じで描かれている。
 ほんとうに映画でしか描けないものがあるはずなのに、それを省略して、ストーリーにしてしまっている。映像が欠落して、ことばだけが一人歩きしている。

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入沢康夫と「誤読」(メモ44)

2007-06-25 00:10:50 | 詩集

 入沢康夫『夢の佐比』(1989年)。
 「「夢の錆」異稿群」。これは散文形で書かれた「夢の錆」に対して「異稿」という意味だろう。しかし、「異稿」という限りは、そこに「同稿」というものが含まれていなければならないのではないだろうか。あるのかもしれないが、一目でわかる、というものではない。「かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩」の詩のように、「校異」が存在するような形では、そこには違いが存在しない。
 なぜ「異稿群」なのかわからないのだが、同時に、これがほんとうに入沢のことばなのか、と思う行も出てくる。
 「Ⅲ(屋根の棟に)」の後半。

もう動けなくなつてしまつたのは
何か どこかで まちがつたのかもしれないと
私の心でない もう一つの心が
どこかで考えてゐるやうであつたが
あれも やはり私の心かもしれないし
それとも
どこにもないのかもしれない
いまの私に 心などは

 「あれも やはり私の心かもしれないし」の「あれも やはり」という語調にのみ入沢を感じる。ただし「あれも やはり」の1字あきを存在しないものと考えたら、のことではあるのだが。
 どうして入沢はこの詩群を書いたのか。

 私にとってなじみ深い入沢も、随所にはあるのだが……。たとえば、「Ⅴ(漂白)」のなかほど。

天の軌道から垂れ下がる大蛇の尾
鳥どもは右に大きく傾いた帆げたにひしめき合ひ
真上に輝く《青みを帯びた環に囲まれた赤い星》を崇める
遥かな島の湖の中の岩の上の卵の殻
その中にあるといふ宝玉は 実は蜥蜴の糞にすぎない
死者たち全ての願望が凝つて成つた(と思はれてゐる)
どすぐろい翼を持つた太古の爬虫の……

 「宝玉」と「糞」というような激烈な対比、対比によって輝くことば。「成つた(と思はれてゐる)」というような先行することばをすぐに否定する(疑問視する)ことば、その接近感。そこには一種の「ゲシュタルト」の裂け目がある。そして、その「裂け目」はまたある意味では「ゲシュタルト」そのものをつくりだしているのだが。

 入沢のことばはいつでもある運動を含んでいる。その運動がある世界を描き出す。と同時に、その描き出したもの、というより、運動が描き出す世界の、その描くスピードが速すぎるので、ことばから「別の意味」が浮かんできてしまうような、「誤読」を誘う何かがある。
 正確に読まれない--そうすることが唯一正しい読み方だというような、不思議なことばのスピード。スピードが描き出す幻影。幻影であるがゆえに、人はそこに自分自身の見たいものを反映させる。
 --これは、私自身への批判を含めてのメモなのだが。

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