坂多瑩子「再会」(「ぶらんこのり」3、2007年04月30日発行)。
坂多の作品は、最近、どれもこれもおもしろい。どこがおもしろいのか、説明するのがなかなかむずかしい。「再会」の全行。
とある日
犬と犬が出会った
吠えなかったけれど
しっぽも
ふらなかった
昔
同じ母親の乳ぶさに
ぶらさがっていたことなど
とうに忘れて
犬になりさがって
と
一匹は思い
やはり犬になっていたか
と
もう一匹の犬は思い
お互い
はじめから存在していなかったように
横を向いた
今日
わたしは犬である
わたしにえさをくれた
子どもたちが
赤や青のクレヨンで
わたしの
目や耳の傷ぐちを
ひろげていく
ゆがんだ顔にしあげていく
ごらんよ
この犬
だれかが叫ぶ
茶色の巻き毛に
日が
とっぷりと暮れた
私が一番魅力を感じるのは次の6行。
子どもたちが
赤や青のクレヨンで
わたしの
目や耳の傷ぐちを
ひろげていく
ゆがんだ顔にしあげていく
ここに何がある。「過去」がある。「子どもたちが」と坂多は書いているが、この「子どもたち」に私は坂多自身、彼女の「過去」を感じるのだ。子どものとき、たとえば小学校の図画の時間、犬の絵を描く。へたくそである。(ごめんなさい。)子どもの描く犬は一生懸命描けば描くほどゆがんでゆく。そんな絵を描いてしまった……。
そうした記憶が、ふっと、今、ここによみがえってくる。--そういう瞬間は、誰にでもあるものだと思う。いつ、そういう瞬間がよみがえってくるか、はもちろん人によって違うが……。
坂多の詩がおもしろいのは、そういう「瞬間」をあれこれ説明しない。ただ、よみがえった「過去」だけをほうりだすようにして描く。
それに先立つ「犬になりさがって」「やはり犬になっていたか」ということばをじーっとみつめていると、「いま」が見えてくる。なつかしい(?)人に出会って、あるいは快く思っていなかった(?)人に出会って、憎まれ口のように、ふっと、そんな「常套句」がこころを犬のように走っていく瞬間というものがある。そのとき、そう思う「わたし」もやっぱり相手からみれば「犬」なんだろう……。
そういう「いま」の瞬間に、子ども時代に犬を描いたことを思いだす。へたくそに。しかし、そのへたくそさのなかには、へたなりの真実があった。何かを「ゆがんだ」ものに描いてしまうというのが人間のどうしようもない「能力」であるという真実が。
そうした真実、「過去」が「いま」の瞬間にふっとあらわれて、現実を洗ってゆく。現実を洗い流して、ここから「未来」が始まる。そういう感じがするのだ。「犬になりさがって」「やはり犬になっていたか」というようなことばが、なんといえばいいのだろうか、中和していく。おだやかになってゆく。そのふいに噴出してくる「過去」によって「いま」のとげとげしい感じが消え、ゆったりと肉体のなかに吸収されてゆく。そういう感情の吸収の仕方が人間にはある。そのことを坂多のことばは、ゆったりと感じさせてくれる。
この感覚が、たぶん私は好きなのだ。
*
写真は、我が家の犬と(赤い首輪)、かつての遊び友だちの犬。長い間、沖縄に行っていたが、また帰ってきた。「再会」である。向こうの犬は我が家の犬がもっているおもちゃに関心がある。関心かあるのを知っていて、我が家の犬は「かしてあげないよ」と無言で語っている。犬にも過去があり、現在があり、未来がある。坂多瑩子の詩とは関係ないのだが……。