谷川俊太郎の詩の前で私はいつでもつまずく。たとえば「六十二のソネット」の「37」。
「私の生まれは限りない」。
あ、すごい、と驚く。
私はたとえば一本の木から生まれたと思うことがある。故郷の家の近くにあるケヤキの木。神社の境内の、一番大きな木。その太い幹に背中を預け、樹液が流れる音を感じながら、こんな木のように枝を広げられたら、大きくなれたら、と思う。こんな木になりたいというのが私の幼いころからの夢だった。幹に背中を預け、空を見あげると、枝から枝へ、枝が分かれてゆく。その形をたとえばことばにすれば小説ができるだろうか、詩ができるだろうか、などと考える。そうすると私自身が木になって生まれ変わっていく感じがする。そういう「生まれ変わり」を感じさせてくれるものが私にはいくつかある。しかしそのいくつかは「限定」されている。「限りない」とはいえない。
ところが谷川は「限りない」という。そうか、谷川俊太郎は「限りない」のか。どこからでも生まれてくるのか。生まれることができる、何を見ても、それをことばにすればそこから谷川は生まれうる。生まれ続ける存在として谷川という人間がいるのか。
このことに対して、谷川は不満のようだ。そうしたふうにどこからか「生まれる」ということでは満足できないようである。生まれ続けることが不満のようである。どこからでも、なにからでも生まれうるということは、それはそれで魅力的なことではあるけれど、それは一方で生まれない限りは存在しないことになる。「生まれる」のではなく、生まれなくても、生まれるという過程を経なくても存在していたいのだ。太陽のように。
この願いにはびっくりさせられる。それは確かに「不遜なねがい」かもしれない。しかし、谷川のすごいところは、それが「不遜」であると意識していることである。
そして、「生まれる」とはどういうことか考える。「生まれる」とは何かを愛し、何かに「なる」ことだ。「小さな風になることさえかなわずに」の行の「なる」ということばを見落とすと谷川がこの詩で書いていることがわからなくななる。
「生まれる」とは、たとえば風を愛し、風に「なる」ことだ。(谷川はことばを媒介にして、様々なもの「限りない」ものに「なる」ことができる。限りなく生まれることができる。)
谷川にとって「生まれる」ということは、たとえば風を感じ、風そのものに「なる」。そして、風のことばを語ることだ。でも、そんなふうに風になってみても、風という詩は読み捨てられる。
詩を書き続ける。何かを愛し、何かになりつづけ、ことばを書き続ける。そのことばは誰に届くだろうか。郷愁のように、誰かにではなく、谷川に、生まれる前の谷川に届くだけかもしれない。それでも谷川は、彼のことばを使いきってしまわなければならない。モーツァルトがあらゆる音楽を聞いて休むことができなかったように、谷川は、あらゆることばになることを「神」に要求され、休むことができない。様々なものに「なる」。様々なものになり、なったもののことばを代弁する。そのとき谷川は「愛」そのものになる。
「愛」のことば。そのことばをくぐりぬけて、読者は「生まれる」。私の「生まれは谷川俊太郎のことばである」と読者がいうまで、谷川は谷川のことばを使いきろうとしている。
谷川の詩を読む。そして感想を書く。そのとき確かに私は、私は「谷川のことばから生まれる」という感じがする。私がきょうここに書いた感想--それは谷川の詩、谷川のことばがなければ生まれて来なかったことばである。感想を書いたからといってわたしが谷川になれるわけではない。しかし、感想を書いているその瞬間瞬間、私は私ではなくなっている。この私が私でなくなる感じが好きで、私は、詩の感想を書く。
今の私、これまでの私をひっくりかえしてくれることば、詩、そういうものが私は好きだ。谷川の詩は、私を否定する。私が私のままでいられなくする。だから、私は谷川の詩が好きだ。
谷川がことばをとおして生まれ変わる、生まれ続ける、その限りない運動に、ずーっとつきあっていきたい。私はそう思っている。
私は私の中へ帰つてゆく
誰もいない
何処から来たのか?
私の生まれは限りない
私は光のように偏在したい
だがそれは不遜なねがいなのだ
私の愛はいつも歌のように捨てられる
小さな風になることさえかなわずに
生き続けていると
やがて愛に気づく
郷愁のように送り所のない愛に……
人はそれを費つてしまわねばならない
歌にして 汗にして
あるいはもつと違つた形の愛にして
「私の生まれは限りない」。
あ、すごい、と驚く。
私はたとえば一本の木から生まれたと思うことがある。故郷の家の近くにあるケヤキの木。神社の境内の、一番大きな木。その太い幹に背中を預け、樹液が流れる音を感じながら、こんな木のように枝を広げられたら、大きくなれたら、と思う。こんな木になりたいというのが私の幼いころからの夢だった。幹に背中を預け、空を見あげると、枝から枝へ、枝が分かれてゆく。その形をたとえばことばにすれば小説ができるだろうか、詩ができるだろうか、などと考える。そうすると私自身が木になって生まれ変わっていく感じがする。そういう「生まれ変わり」を感じさせてくれるものが私にはいくつかある。しかしそのいくつかは「限定」されている。「限りない」とはいえない。
ところが谷川は「限りない」という。そうか、谷川俊太郎は「限りない」のか。どこからでも生まれてくるのか。生まれることができる、何を見ても、それをことばにすればそこから谷川は生まれうる。生まれ続ける存在として谷川という人間がいるのか。
このことに対して、谷川は不満のようだ。そうしたふうにどこからか「生まれる」ということでは満足できないようである。生まれ続けることが不満のようである。どこからでも、なにからでも生まれうるということは、それはそれで魅力的なことではあるけれど、それは一方で生まれない限りは存在しないことになる。「生まれる」のではなく、生まれなくても、生まれるという過程を経なくても存在していたいのだ。太陽のように。
この願いにはびっくりさせられる。それは確かに「不遜なねがい」かもしれない。しかし、谷川のすごいところは、それが「不遜」であると意識していることである。
そして、「生まれる」とはどういうことか考える。「生まれる」とは何かを愛し、何かに「なる」ことだ。「小さな風になることさえかなわずに」の行の「なる」ということばを見落とすと谷川がこの詩で書いていることがわからなくななる。
「生まれる」とは、たとえば風を愛し、風に「なる」ことだ。(谷川はことばを媒介にして、様々なもの「限りない」ものに「なる」ことができる。限りなく生まれることができる。)
谷川にとって「生まれる」ということは、たとえば風を感じ、風そのものに「なる」。そして、風のことばを語ることだ。でも、そんなふうに風になってみても、風という詩は読み捨てられる。
詩を書き続ける。何かを愛し、何かになりつづけ、ことばを書き続ける。そのことばは誰に届くだろうか。郷愁のように、誰かにではなく、谷川に、生まれる前の谷川に届くだけかもしれない。それでも谷川は、彼のことばを使いきってしまわなければならない。モーツァルトがあらゆる音楽を聞いて休むことができなかったように、谷川は、あらゆることばになることを「神」に要求され、休むことができない。様々なものに「なる」。様々なものになり、なったもののことばを代弁する。そのとき谷川は「愛」そのものになる。
「愛」のことば。そのことばをくぐりぬけて、読者は「生まれる」。私の「生まれは谷川俊太郎のことばである」と読者がいうまで、谷川は谷川のことばを使いきろうとしている。
谷川の詩を読む。そして感想を書く。そのとき確かに私は、私は「谷川のことばから生まれる」という感じがする。私がきょうここに書いた感想--それは谷川の詩、谷川のことばがなければ生まれて来なかったことばである。感想を書いたからといってわたしが谷川になれるわけではない。しかし、感想を書いているその瞬間瞬間、私は私ではなくなっている。この私が私でなくなる感じが好きで、私は、詩の感想を書く。
今の私、これまでの私をひっくりかえしてくれることば、詩、そういうものが私は好きだ。谷川の詩は、私を否定する。私が私のままでいられなくする。だから、私は谷川の詩が好きだ。
谷川がことばをとおして生まれ変わる、生まれ続ける、その限りない運動に、ずーっとつきあっていきたい。私はそう思っている。