詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

新川和江『記憶する水』(1)

2007-06-09 23:14:25 | 詩集
 新川和江『記憶する水』(思潮社、2007年05月31日発行)。
 「欠落」という詩がある。その最終連で、私ははじめて新川の作品がわかった気がした。新川が書こうとしている世界がくっきりと見えた気がした。
 作品の全編。

わたしは
蓋のない容(い)ものもです
空地に棄てられた
半端ものの丼(どんぶり)か 深皿のような…

それでも ひと晩じゅう雨が降りつづいて
やんだ翌朝には
まっさらな青空を
溜まった水と共に所有することができます

蝶の死骸や 鳥の羽根や
無効になった契約書のたぐいが
投げこまれることも ありますが
風がつよく吹く日もあって
きれいに始末してくれます

誰もしみじみ覗いてはくれませんが
月の光が美しく差しこむ夜は
空っぽの底で
うれしくてうれしくて 照り返すこともできる

棄てられている瀬戸もののことですか?
いいえ わたしのことです

 最終連で繰り返される「こと」ということばに、私は胸を打たれた。いままで見過ごしてきたかもしれない新川を感じた。
 「わたしは/蓋のない容ものもです」という書き出しを読むと、新川が棄てられた陶器(あるいは磁器)、それも蓋のない入れ物、不完全なものに、自己を託し、新川の気持ちをことばにしているのだと思う。そう思って読み進んでしまう。
 新川の詩といえば「水」「火」「土」であるが、そうした作品群も、「わたし」という存在を、水、火、土に託して表現したものだと感じてきた。あるいは、新川自身が、「わたし」を水、火、土に託すことを通して、水や火、土になるのだと、そんなふうに読んできた。
 ところがそうではない、と気がついた。
 新川は水、火、土になるのではない。水の「こと」、火の「こと」、土の「こと」をするのである。
 新川は俳句の一元論のように世界をめざしてはいない。世界とは一体にならない。
 「わたし」は「わたし」、水は水、火は火、土は土、そして「あなた」は「あなた」。全体に融合しない存在である、絶対に別々の存在であるということを踏まえて(あるいは、そういう考えを絶対に踏み外さないように視点を据えて)、「わたし」にできる「こと」をする。
 たとえば水のように、火のように、土のように。「あなた」のために。たとえば「わたし」が水ならば、「わたし」は「あなた」に何ができるか、水から学んだ「こと」のうちの、どんな「こと」をできるだろうか、と新川は考える。水と同じことはできない、水にはなれない、しかし、水から学んだ「こと」はできるはずだ……。

 こうした姿勢に女性の肉体を感じると書くと、何か異様なことを書くことになるだろうか。--私は、「こと」と、そのことばが引き出す世界に、女性の肉体、それも出産、子育てをした肉体を感じたのである。そして、その瞬間、新川がわかったというか、新川をとおして「母親」というものがわかった気がしたのである。

 こども。それは新川が生んだこどもであっても、新川自身ではない。血がつながっていても新川ではない。どんなときも、こどもになりかわることはできない。一元論のように一体にはなれない。これが、「愛」の出発点である。こどもには「なれない」。そういうことを深く認識して、できる「こと」を探す。「愛」ゆえに。その「愛」のかたちを、水や火や土に探し続けたのだ。
 「こと」は「愛」と同じ意味である。

 ここに書かれている「愛」はとても不思議だ。
 月が陶器(あるいは磁器)を照らす。それに対して陶器は月の光を照らし返す。ただそれだけだ。そして、それが「うれしくてうれしくて」と「うれしい」を2回繰り返さなければならないほどの喜びなのである。
 月をこどもと想像してみると、それが「愛」であることがよくわかる。こどもが新川の顔をぴかぴか輝く笑顔で覗き込む。そのとき新川は同じ輝きの笑顔を返す。それはどんなにうれしいことだろう。
 あるいは「あなた」。「あなた」が(つまり、読者が、「私」が)、新川に会い、笑顔を投げかける。そのとき新川は笑顔を投げ返す。これは確かに「うれしくてうれしくて」たまらない瞬間だ。
 純粋な「愛」の瞬間だ。
 
 「照り返す」。受け止めたものを、そのまま相手に、何一つ損なわない形でお返しする。その、不思議なよろこび。何をしたわけでもない。いや、何もしなかった、としかいえない、純粋な瞬間。
 ほかの誰かが気がつかなくてもいい。「わたし」と、その出会いのときの「相手」、その二人だけにわかればそれでいい「愛」。その純粋さがここにある。



 この詩はまた、新川の描いてきた世界を凝縮してもいる。棄てられている陶器(磁器)--それは水、火、土からできている。土に水をまぜ、こねてやわらかくして形をつくる。それから火で焼いて完成させる。水、火、土が結びついた結晶が陶器(磁器)であり、その結晶に、新川自身の姿が結晶している。


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入沢康夫と「誤読」(メモ38)

2007-06-09 08:18:52 | 詩集
 入沢康夫『死者たちの群がる風景』(1982年)。
 昨日書いたメモと矛盾するかもしれない。だが、「洞察力」とはまた別の「誤読」もある。「Ⅵ 《鳥籠に春が・春が鳥のゐない鳥籠に》--死者たちの群がる風景3」の次の部分。

「今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣(わか)れよう。」
その一行が好きで好きで、
そのくせ「記憶の旗」とは、それが「落ちる」とは
どういふことか、少しも判らずに……。
今だって判つてやしないけれども。

 この連に出てくる「好きで好きで」という感覚。
 私たちは何もわからなくても「好き」という感覚で、何かを信じてしまう。「誤読」する。精神は何一つ理解していない、という意味で、それが「好き」と感じること自体が「誤読」なのである。しかし、こういうとき、私たちの感情、「好き」という感覚自体は何一つまちがえてはいない。嫌いなものを「好き」と勘違いしているわけではない。嫌いであるかどうかの判断を超越して「好き」と信じている。
 この理不尽な、理由のない「好き」という超越的な感覚--そこには、何か全体的な真実がある。
 「誤読」には超越的な何かが存在する。

 いま引用した連に先立つ2連。

濠の水面には藻の花が星のやうに連なり、はじけ、笑ひ、
私には何一つ思い出すべきこととてなかつた。
何度か(何度だつたらう)高く飛ばうとして、その都度鞭打たれた。
あの高い鳥影。
あの翼ある蛇。

だから、少年の日、私は何度も死んだ。
その度に女神たちは私を生返らせた。
ドクダミの白い花で飾つた山車の上で彼女らは、
母乳で溶いた蛤の殻の粉を、
私のただれた全身に塗りたくつて踊つた。

 「だから」。
 「だから」で結ばれることばには論理的な脈絡が必要である。しかし、ここには脈絡はない。強引な結びつきがあるだけである。その結合は、超越的である。論理は「頭」では追うことができない。ここに書かれてある「だから」を追うことができるのは「こころ」だけである。「好き」かどうかを判断する感覚だけである。

 「洞察」と感情の超越。それが結びついたとき「誤読」は完璧になる。他人にとって、という意味ではない。そういう「誤読」を生きる人間にとって、という意味である。
 あることばを「洞察」し、その先がどうなるかを判断し、それを「好き」と思った瞬間から、それは全体的な価値になる。だれもその価値を否定できない。「誤読」は、そうやって確立されるのである。
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