新川和江『記憶する水』(思潮社、2007年05月31日発行)。
「欠落」という詩がある。その最終連で、私ははじめて新川の作品がわかった気がした。新川が書こうとしている世界がくっきりと見えた気がした。
作品の全編。
最終連で繰り返される「こと」ということばに、私は胸を打たれた。いままで見過ごしてきたかもしれない新川を感じた。
「わたしは/蓋のない容ものもです」という書き出しを読むと、新川が棄てられた陶器(あるいは磁器)、それも蓋のない入れ物、不完全なものに、自己を託し、新川の気持ちをことばにしているのだと思う。そう思って読み進んでしまう。
新川の詩といえば「水」「火」「土」であるが、そうした作品群も、「わたし」という存在を、水、火、土に託して表現したものだと感じてきた。あるいは、新川自身が、「わたし」を水、火、土に託すことを通して、水や火、土になるのだと、そんなふうに読んできた。
ところがそうではない、と気がついた。
新川は水、火、土になるのではない。水の「こと」、火の「こと」、土の「こと」をするのである。
新川は俳句の一元論のように世界をめざしてはいない。世界とは一体にならない。
「わたし」は「わたし」、水は水、火は火、土は土、そして「あなた」は「あなた」。全体に融合しない存在である、絶対に別々の存在であるということを踏まえて(あるいは、そういう考えを絶対に踏み外さないように視点を据えて)、「わたし」にできる「こと」をする。
たとえば水のように、火のように、土のように。「あなた」のために。たとえば「わたし」が水ならば、「わたし」は「あなた」に何ができるか、水から学んだ「こと」のうちの、どんな「こと」をできるだろうか、と新川は考える。水と同じことはできない、水にはなれない、しかし、水から学んだ「こと」はできるはずだ……。
こうした姿勢に女性の肉体を感じると書くと、何か異様なことを書くことになるだろうか。--私は、「こと」と、そのことばが引き出す世界に、女性の肉体、それも出産、子育てをした肉体を感じたのである。そして、その瞬間、新川がわかったというか、新川をとおして「母親」というものがわかった気がしたのである。
こども。それは新川が生んだこどもであっても、新川自身ではない。血がつながっていても新川ではない。どんなときも、こどもになりかわることはできない。一元論のように一体にはなれない。これが、「愛」の出発点である。こどもには「なれない」。そういうことを深く認識して、できる「こと」を探す。「愛」ゆえに。その「愛」のかたちを、水や火や土に探し続けたのだ。
「こと」は「愛」と同じ意味である。
ここに書かれている「愛」はとても不思議だ。
月が陶器(あるいは磁器)を照らす。それに対して陶器は月の光を照らし返す。ただそれだけだ。そして、それが「うれしくてうれしくて」と「うれしい」を2回繰り返さなければならないほどの喜びなのである。
月をこどもと想像してみると、それが「愛」であることがよくわかる。こどもが新川の顔をぴかぴか輝く笑顔で覗き込む。そのとき新川は同じ輝きの笑顔を返す。それはどんなにうれしいことだろう。
あるいは「あなた」。「あなた」が(つまり、読者が、「私」が)、新川に会い、笑顔を投げかける。そのとき新川は笑顔を投げ返す。これは確かに「うれしくてうれしくて」たまらない瞬間だ。
純粋な「愛」の瞬間だ。
「照り返す」。受け止めたものを、そのまま相手に、何一つ損なわない形でお返しする。その、不思議なよろこび。何をしたわけでもない。いや、何もしなかった、としかいえない、純粋な瞬間。
ほかの誰かが気がつかなくてもいい。「わたし」と、その出会いのときの「相手」、その二人だけにわかればそれでいい「愛」。その純粋さがここにある。
*
この詩はまた、新川の描いてきた世界を凝縮してもいる。棄てられている陶器(磁器)--それは水、火、土からできている。土に水をまぜ、こねてやわらかくして形をつくる。それから火で焼いて完成させる。水、火、土が結びついた結晶が陶器(磁器)であり、その結晶に、新川自身の姿が結晶している。
「欠落」という詩がある。その最終連で、私ははじめて新川の作品がわかった気がした。新川が書こうとしている世界がくっきりと見えた気がした。
作品の全編。
わたしは
蓋のない容(い)ものもです
空地に棄てられた
半端ものの丼(どんぶり)か 深皿のような…
それでも ひと晩じゅう雨が降りつづいて
やんだ翌朝には
まっさらな青空を
溜まった水と共に所有することができます
蝶の死骸や 鳥の羽根や
無効になった契約書のたぐいが
投げこまれることも ありますが
風がつよく吹く日もあって
きれいに始末してくれます
誰もしみじみ覗いてはくれませんが
月の光が美しく差しこむ夜は
空っぽの底で
うれしくてうれしくて 照り返すこともできる
棄てられている瀬戸もののことですか?
いいえ わたしのことです
最終連で繰り返される「こと」ということばに、私は胸を打たれた。いままで見過ごしてきたかもしれない新川を感じた。
「わたしは/蓋のない容ものもです」という書き出しを読むと、新川が棄てられた陶器(あるいは磁器)、それも蓋のない入れ物、不完全なものに、自己を託し、新川の気持ちをことばにしているのだと思う。そう思って読み進んでしまう。
新川の詩といえば「水」「火」「土」であるが、そうした作品群も、「わたし」という存在を、水、火、土に託して表現したものだと感じてきた。あるいは、新川自身が、「わたし」を水、火、土に託すことを通して、水や火、土になるのだと、そんなふうに読んできた。
ところがそうではない、と気がついた。
新川は水、火、土になるのではない。水の「こと」、火の「こと」、土の「こと」をするのである。
新川は俳句の一元論のように世界をめざしてはいない。世界とは一体にならない。
「わたし」は「わたし」、水は水、火は火、土は土、そして「あなた」は「あなた」。全体に融合しない存在である、絶対に別々の存在であるということを踏まえて(あるいは、そういう考えを絶対に踏み外さないように視点を据えて)、「わたし」にできる「こと」をする。
たとえば水のように、火のように、土のように。「あなた」のために。たとえば「わたし」が水ならば、「わたし」は「あなた」に何ができるか、水から学んだ「こと」のうちの、どんな「こと」をできるだろうか、と新川は考える。水と同じことはできない、水にはなれない、しかし、水から学んだ「こと」はできるはずだ……。
こうした姿勢に女性の肉体を感じると書くと、何か異様なことを書くことになるだろうか。--私は、「こと」と、そのことばが引き出す世界に、女性の肉体、それも出産、子育てをした肉体を感じたのである。そして、その瞬間、新川がわかったというか、新川をとおして「母親」というものがわかった気がしたのである。
こども。それは新川が生んだこどもであっても、新川自身ではない。血がつながっていても新川ではない。どんなときも、こどもになりかわることはできない。一元論のように一体にはなれない。これが、「愛」の出発点である。こどもには「なれない」。そういうことを深く認識して、できる「こと」を探す。「愛」ゆえに。その「愛」のかたちを、水や火や土に探し続けたのだ。
「こと」は「愛」と同じ意味である。
ここに書かれている「愛」はとても不思議だ。
月が陶器(あるいは磁器)を照らす。それに対して陶器は月の光を照らし返す。ただそれだけだ。そして、それが「うれしくてうれしくて」と「うれしい」を2回繰り返さなければならないほどの喜びなのである。
月をこどもと想像してみると、それが「愛」であることがよくわかる。こどもが新川の顔をぴかぴか輝く笑顔で覗き込む。そのとき新川は同じ輝きの笑顔を返す。それはどんなにうれしいことだろう。
あるいは「あなた」。「あなた」が(つまり、読者が、「私」が)、新川に会い、笑顔を投げかける。そのとき新川は笑顔を投げ返す。これは確かに「うれしくてうれしくて」たまらない瞬間だ。
純粋な「愛」の瞬間だ。
「照り返す」。受け止めたものを、そのまま相手に、何一つ損なわない形でお返しする。その、不思議なよろこび。何をしたわけでもない。いや、何もしなかった、としかいえない、純粋な瞬間。
ほかの誰かが気がつかなくてもいい。「わたし」と、その出会いのときの「相手」、その二人だけにわかればそれでいい「愛」。その純粋さがここにある。
*
この詩はまた、新川の描いてきた世界を凝縮してもいる。棄てられている陶器(磁器)--それは水、火、土からできている。土に水をまぜ、こねてやわらかくして形をつくる。それから火で焼いて完成させる。水、火、土が結びついた結晶が陶器(磁器)であり、その結晶に、新川自身の姿が結晶している。