詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フォン・シャオガン監督「女帝」

2007-06-06 22:34:44 | 映画
監督 フォン・シャオガン 出演 チャン・ツィイー

 シェークスピア「ハムレット」を下敷きにしている。
 こういう映画を見ていると、愛と復讐の劇は全部「ハムレット」に見えてしまいそうな、不思議な気持ちになる。シェークスピアはやっぱり天才だ、と映画とは別な感想が顔を出してしまう。
 見どころは人間描写よりも、活劇部分。中国の戦いの場面は殺戮とダンスが溶け合っている。ほとんどセックスの世界といってもいい。セックスにも「死」があるように、戦争にはやはり「愛」がある。ただし、その「愛」は憎しみの裏返しの愛である。また、「愛」を奪い返すための復讐という戦争もある。
 愛と死のかたい結びつきが戦争とセックスを融合させる。
 そのことを強く感じさせるのがチャン・ツィイーと皇太子(ハムレット)が最初に演武するシーン。肉体は戦うためというよりは、愛の接触を楽しむように近づき、離れる。逃げながら誘い、追いながら反撃される瞬間を待っている。同じ場の空気を呼吸し、その空気が二人の体を駆け抜け、胸に秘めた思いを燃え上がらせる。二人のきているゆったりした服の、その布までもが、愛の戯れを美しく彩る。
 ああ、いいなあ、と思わずため息が漏れる。
 
 冒頭も非常に刺激的だ。
 皇太子が潜んでいた竹林の館。そこで繰り広げられるダンス。歌。ほとんど前衛舞踏といっていい仮面のダンスなのだが、そこには偽りの「死」(仮面--表情を隠したいのち)と、顔をみせないことによって苦悩する肉体を動かしているのがこころであることを浮き彫りにする。コーラス(歌)と肉体を複数の人間で共有する--それこそ「劇」であるという、演劇へのオマージュ。そこへ乱入してくる軍隊。血の惨劇。それがそのまま、この芝居全体の凝縮された世界である。
 この凝縮された世界を、この映画では、最後のクライマックスでもう一度繰り返している。ダンスと、それを破壊する武力。復讐。地の惨劇。血といっしょに奪われていく「愛」、そして、もたらされる「死」。愛と死の結合。

 色彩もきれいだ。竹林の緑。それとは対照的な茜色。補色。どちらが「愛」であり、どちらが「死」なのか。時によって入れ代わる。入れ代わることによって、さらに緊密になる。

 チャン・ツィイーの演じた役は、昔ならコン・リーが演じたのだろうか。コン・リーが演じたなら、もっともっと人間の部分が強調されたかもしれない。コン・リーを主役にして、年齢を超えた愛と憎しみの世界を展開すれば、さらにおもしろかったかもしれない、とちょっと残念な気もする映画であった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中清光『風景は絶頂をむかえ』

2007-06-06 21:37:06 | 詩集
 田中清光『風景は絶頂をむかえ』(思潮社、2007年05月25日発行)。
 「雪のフーガ」の2連目で私は立ち止まってしまう。

この世は雪に蔽われると
清らかな別世界に一変してしまうけれど
地上の白い目 白い耳 白い鼻 白い舌たちが
いくらそこに近づこうとしても
その中心--心臓には
けして届くことができない

 「いくらそこに近づこうとしても」の「そこ」。「そこ」って、どこ? 普通の文章ならば「そこ」が指し示す場所は、「そこ」の前に書かれている。ある場所が明示されて、そのあとで「そこ」と指示される。そうしないと、「そこ」がどこであるかわからない。田中は、そういう日本語の基本的な「文法」を破っている。その「文法」の破れ目に、私はつまずく。(「この世」の「この」は私たちが生きている世界を指すときの「この」であることと対比すると、「そこ」の不自然さがわかると思う。)
 「文法」を破ったあとは、破れ目を取り繕う。破れ目が残ったままではことばはつづかないからである。
 田中は「そこ」を、「その中心--心臓には」と言い直す。「その中心--心臓には」とは、「その心臓には」という意味になるだろう。「そこ」とは「その心臓」ということになる。
 だが、ここにも「文法」の破れ目がある。「その中心--心臓には」の「その」は何? 「雪に蔽われる」前の「この世」? それとも「雪に蔽われ」たあとの「別世界」? 「その」が指し示す「存在」が何かよくわからない。「この世」の「この」との対比から言えば、「その」は雪によって一変した「別世界」を指しているのかもしれない。
 もしそうであるなら。
 「一変してしまうけれど」の「けれど」は、どういう意味だろうか。
 雪で覆われてしまえば、「その中心」はほんとうなら近づきやすいはずなのに、なぜだかわからないが「その中心」に届かない、ということなのだろうか。
 そこには何か論理的にも「別」なものが働いているというのだろうか。
 (「その」が「雪に蔽われる」前の「この世」を指し、そこへ雪の「白い目」「耳」などが近づこうとしても届かないというのであれば、「けれど」は「文法的」におかしい。雪に蔽われた世界の中心は、まず雪を払いのければ届かないのは常識であり、そこに「けれど」という「逆説」が入り込む場所はない。)

 たぶん田中は「別」世界を描こうとしているのである。
 そして、その「別」世界の「別」である理由は田中にはわかっている。わかっているけれど、説明することばがない。「別」世界が田中特有の問題であり、それを読者と共有するためのことばを簡単には見つけられない。「そこ」ということばで仮に指し示しておいて、それから、まだ言語化されていない「別」世界へと静かに静かに接近していこうとしているようでもある。

 田中は何ごとかを知っている。納得している。そして、それを具体的に説明することばを今はもっていない。しかし、語りたい。そういう欲求が田中のことばを動かしている。書き出しの3行が象徴的だ。

しんしんと凍み亙(わた)る冬の寒気の底のほうでは
劫初からの風の音が
ひくく唸りつづけている

 「劫初」。この世の初め。仏教用語。
 最初から、田中自身の哲学にもとづいてことばが出てきている。雪を見て、そこからことばが動きはじめ、思いを作り上げていくのではない。雪を見て、その雪を田中の知っている哲学(宗教、精神)のことばと向き合わせ、ことばを動かしている。
 「別」世界は、田中のなかにすでにある。その「別」世界のなかで、「別」世界のことばではとらえられていないもの、たとえば「白い目」「白い耳」「白い鼻」「白い舌」という「風景の肉体」、その中心の「心臓」--そういうものへ向かってことばを動かしていく。
 「その」はしたがって「劫初」であり、また「そこ」も「劫初」である。

 田中は「劫初」というものがあることを知っている。ただし、その知っているは「頭」で知っている、知識として知っているという意味だ。田中自身が体験の中から体得したものではなく、どこかからか学んだものだ。
 そして、いま田中は、その知っているものを「頭」のことばではなく、田中自身の「肉体」のことばとしてとらえ直すために詩を書いている。そういうこころの動きが、たとえば「白い目」「耳」「鼻」「舌」「心臓」に託されている。
 田中自身の肉体と、世界の肉体(自然)を向き合わせることで、「頭」で学んできた知識、知識としての「劫初」を洗い直し、田中自身の「この世の初め」をつかみとろうとしている。
 そうした緊迫したリズムを、田中の詩に感じる。

 「この世の初め」というものがどういうものか私は知らないが、たとえば次の行は「この世の初め」として、とても美しいと思う。

地上の緑の氾濫は
誰をも救助しないが
野の道で
一輪のヤマユリが待っていた

 「出会い」。それが「初め」なのだと思う。田中のことばから、「出会い」が「この世」の初めであると、私は教えられた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする