詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デビッド・フィンチャー監督「ゾディアック」

2007-06-22 14:35:46 | 映画
監督 デビッド・フィンチャー 出演 ジェイク・ギレンホーク、ロバート・ダウニーjr

 殺人犯から暗号文が送られてくる。コピー機がまだない時代(?)、あるいは普及していない時代。回し読みしている途中で主人公(新聞社のカット係、ジェイク・ギレンホーク)が、その暗号をせっせと手で写し書きする。なんでもないようなシーンだけれど、このシーンが私は一番好き。ここに主人公の「視点」が一番濃厚にでている。
 同僚の新聞記者(ロバート・ダウニーjr)も警官も犯人を追いかける。しかし、彼らは外から追いかける。これに対してジェイク・ギレンホークは犯人の「内部」から犯人を追いかける。
 暗号文にもどれば、ロバート・ダウニーjrも警官も、そこに何が書いてあるか、ということを追いかける。ジェイク・ギレンホークももちろん内容を追いかけるけれど、同時にどうやって書いたか、ということに焦点をあてて追跡する。図書館で暗号本をあさるように読む。その本を借りた人は誰か、を追及する。図書館からその本がなくなっているのは犯人が「貸し出し人」欄に記録が残ると困るからだ……というふうに追跡する。
 この出発点が暗号文を手で写す、という彼自身の肉体をつかった試み、犯人の内面に迫るには、まずその外形をなぞる--というようなことからはじめる。
 この映画では、「犯人」の断定の決め手の「証拠」として「筆跡」が執拗に強調されている。(この時代の「犯人」捜査は「筆跡鑑定」が重要だったらしい--これは、現代とは違ってパソコンがなかったからであろう。)「K」の文字が2画から3画に変化しているというようなことも語られたりする。こうしたことも「犯人」の精神的変化、内面から「犯人」を特定していくという姿勢に通じる。ジェイク・ギレンホークは、当然ながら、そういう「犯人」の変化、精神の軌跡をたどることに夢中になる。
 「なんとか島」(映画、小説のタイトル)の主人公の「せりふ」と「犯人」のつながり、接点を追い求め、映画技師の家を訪問したりするのも、彼から「犯人」と映画の接点を確認するためである。物的証拠(たとえば足跡、たとえば指紋、あるいは凶器)というものにはジェイク・ギレンホークは関心を示さない。そうしたものから「犯人」に迫ろうとはしない。
 そんなふうに「内面」(精神的な軌跡)を追及して「犯人」は一応浮かび上がる。しかし、その「犯人」には、ロバート・ダウニーjrらがいうように「状況証拠」しかない。「内面」の「軌跡」は「状況証拠」にしかならない。
 ジェイク・ギレンホークが「犯人」は彼だ、と確信を強めれば強めるほど、彼の確信は警察の捜査、真実の報道というものから乖離していく。ジェイク・ギレンホークにその意図はなくても、「独断」という要素が強くなる。観客も、ジェイク・ギレンホークの熱意に突き動かされて、「犯人」はあの男だと思うようになるが、最終的には、その男は「犯人」とは特定はされない。断定はされない。
 ジェイク・ギレンホークの「犯人」追及の過程は、この「乖離」を浮き彫りにする。
 このとき、ジェイク・ギレンホークの熱意が、一瞬だけれど、「犯人」の「狂気」と重なり合ったようにも見える。ジェイク・ギレンホークが「犯人」と対面するシーン、互いに見つめ合うシーンは、その重なりあいをくっきりととらえていて、ぞくっとする。「犯人」は彼が「犯人」であることを見破られたと気がつく。「この男は、おれの内面を知っている」と一瞬にして確信して、凍った目でジェイク・ギレンホークを見つめ、ジェイク・ギレンホークはジェイク・ギレンホークで、男が「犯人」であると確信する。
 いやあ、おもしろいですねえ。

 真実は二人だけが知っている。
 この結末は、なかなか手ごわい。濃密だ。ひさびさに映画を見た、という気持ちにさせられる。


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水嶋きょうこ「砂猫」

2007-06-22 10:04:03 | 詩(雑誌・同人誌)
 水嶋きょうこ「砂猫」(「ひょうたん」32、2007年05月20日発行。)

 実はね。見えるんですよ。何がって。猫が。いや、ふつうの猫じゃない。砂猫です。

 読み進んでも「砂猫」が何であるかはわからない。というか、水嶋が「砂猫」と呼んでいるものでしかない。そして、この「しかないもの」でありつづけるところが、この作品の一番いいところだ。
 天沢退二郎の感想で書いた「Xレベルの尺度」という表現をここでもつかえば、「Xレベルの尺度」がかわらない。テレビを見ている。コンビニへ行く。電車に乗る。水嶋は(というべきか、作品のなかの主人公はというべきか……)動いていくのだが、どこへ動いていっても「Xレベルの尺度」がかわらない。
 水嶋の「Xレベルの尺度」は、別のことばで言えば、「見覚えのある」ということかもしれない。電車のなかでの描写。

 やつだ。やつは、目の前に座っている。自分をすくっと睨みつけている。形かえ、女みたいに科作ってこっち見ている。それが、見覚えのある顔で。かかわった女たちをいろいろと思いだすけど、でもどの女かわかんない。砂猫は、急に立ち上がり、こっちを艶かしい目つきで見ながら、ついてこいって言うようにどんどん車両を歩いていく。

 「見覚えがある」、しかし、明確にはそれが誰かわからない。この距離感が最初から最後までつづいている。「見覚えのある」ものが動くと、その移動にあわせて水嶋も動く。砂猫の目に誘われるようについていってしまう。
 「見覚えがある」というのは、それが何かはっきりわからないがゆえに、それを知りたいという気持ちにさせられる。この不思議な気持ちを、水嶋は

なんだか切なくなってきてね。人恋しくなってきてね。

いとおしくて、いとおしくて、

 ということばで言い直している。
 「砂猫」は最初は唐突にあらわれ、水嶋をびっくりさせる。びっくりして追い払ってしまうが、またあらわれる。そういうことをくりかえしているうちに、だんだん気持ちがかわってくる。自分の気持ちがわかってくる。
 「砂猫」はどこからか唐突にやってきたのではない。水嶋自身が呼びよせたのだ、と。なんだか切なくて、人恋しくて、何かがいとおしくて、いとおしくてたまらない気持ち--その不安定な気持ちが「砂猫」を呼びよせたのだ。水嶋は、いま、切なくて、人恋しくて、何かがいとおしいのに、その何かが目の前に明確な形で存在しないという状態なのだと、水嶋自身を発見する。
 そして、その「発見した気持ち」そのものも、実は、切なくて、人恋しくて、いとおしいようなものなのだ。だからこそ、

 実はね。見えるんですよ。何がって。猫が。いや、ふつうの猫じゃない。砂猫です。

と、少しずつ、反応を確かめるようにして接近し、語りかける。「気持ち」の反応次第では、いつでも話を中断できるように、ことばを区切る。倒置法もつかう。--語法というべきか、語り口というべきか、そういう文体と内容が緊密に結びついた美しい作品だ。

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