野村喜和夫『稲妻狩』(思潮社、2007年06月10日発行)。
(06月24日に書いたことと関連する。24日の日記も読んでください。)
絵を見るとき、色や形、この線だけを見る。描かれている対象からは「意味」をくみ取らない。ただその色が好き、この形が好き、この線が好き……。
詩の場合も、私は、ほとんどの場合、そんなふうにして読んでいる。つまり、このことばが好き、この言い回し、このリズムが好き、と。
ことばの場合、絵よりも強く「意味」が浮かび上がってくる。そして、どうしても意味にひっぱられて(内容にひっぱられて)あれこれ感想を書いてしまうけれど、それはたぶん、私のなかで「意味論的」に解決していない問題が残っているからであり、その問題が解決してしまえば書かなくていいことなのだと思う。詩にとって書かなくていいことをついつい書いてしまっているのだと思う。
今回の野村の詩集(今回にかぎらないけれど)、これはどこから読んでもいい。辞書のようなものだ。そして辞書が「あいうえお」順にことばをならべているように、野村はこの詩集ではタイトルを「あいうえお」順にならべている。
50音順に、と書かず、「あいうえお」順にと書くのは、その方が私の好みにあっているからだ。--と余分なことを書くのは、実は、この詩集について書くことはほとんど余分なことだからである。そして、それがこの詩集を楽しむ最良の方法だと思うからだ。
野村は、この詩集では「ことば」をことばとして書いている。そのことばが、はっと目の前に出現する瞬間--その瞬間を再現しようとしている。
「0(木が雷を飲む恍惚)」がそのことを端的に表明している。(作品は、原文では文字のサイズを変更している部分があるが、以下の引用では無視して引用する。基本的にタイトル部分が本文のなかで大きな文字で書かれている。実際は詩集で確認してください。)
意識的にゆるくした文体。そのなかで「木が雷を/飲む恍惚」という文字を際立たせる。ちょっと手で触ってみたくなる感じで紙の上にその文字が存在する。これはなかなかセクシーなことである。「意味」を書きたいのだったら「もしも」はいらないし、「それを」というのは間延び以外の何ものでもないのだが、そのゆったりとした「地」があって、その「場」に大きな文字が直立してくるのはいい感じだ。草原の一本の木、その木の上に落ちてくる稲妻、それをそっくり飲み込んでしまう木、その興奮というと、ちょっと「詩」そのものに近づきすぎて感想にならないかもしれないが。まあ、セクシーである。
いくつも書いてもしようがないが……。おもしろかったのは、たとえば「6(あれこれ)」
7行すべてがおもしろいというのではない。7行のなかで、大文字で書かれた「あれこれ」だけがおもしろい。「あれこれ」だけが好き。あ、こんなふうに「あれこれ」をつかってみたい、と思う。そして、こんなふうに「あれこれ」をつかっても、だれも(たぶん)きっと、その「あれこれ」が野村の作品からの「盗作」だとは気がつかないだろうなあ、と思う。そういう「盗作」をあれこれと(この「あれこれ」は野村の「あれこれ」とは違うな)してみたいなあと刺激される。
詩は、「盗作」してみたいと思わせてこそ、「詩」なのだ。読んでしまえばこっちのもの、それをどんなふうにつかおうと作者の知ったことじゃない。詩は、それを必要とするひとのためのもの、なんて、たしか「イル・ポスティーノ」という映画のなかにあったせりふだなあ。
もうひとつ、不思議な手触りのある「11(入れ替わりに)」。
最初の4行の退屈さ。5行目でちょっと気取って、6行目で、突然「入れ替わりに」という思いもかけないことばの美しさ。そして、それをすぐに消してゆく7、8行目。いいなあ。「入れ替わりに」という動きだけが、しかも「に」がついたままの状態でぴかぴか光っている。
つまらなかった作品をひとつ。「19(おまんこ)」。
「あのね、野村さん、おまんこということばが書きたかったら谷川俊太郎さんにどう書けばいいですか? と尋ねてからにしてください」と言うしかない。谷川俊太郎なら同じことをもっと楽しく美しくセクシーに書けるだろうなあ。
「おまんこ」は野村にとっては、まだまだ「意味」なんだなあ、と思った。
(06月24日に書いたことと関連する。24日の日記も読んでください。)
絵を見るとき、色や形、この線だけを見る。描かれている対象からは「意味」をくみ取らない。ただその色が好き、この形が好き、この線が好き……。
詩の場合も、私は、ほとんどの場合、そんなふうにして読んでいる。つまり、このことばが好き、この言い回し、このリズムが好き、と。
ことばの場合、絵よりも強く「意味」が浮かび上がってくる。そして、どうしても意味にひっぱられて(内容にひっぱられて)あれこれ感想を書いてしまうけれど、それはたぶん、私のなかで「意味論的」に解決していない問題が残っているからであり、その問題が解決してしまえば書かなくていいことなのだと思う。詩にとって書かなくていいことをついつい書いてしまっているのだと思う。
今回の野村の詩集(今回にかぎらないけれど)、これはどこから読んでもいい。辞書のようなものだ。そして辞書が「あいうえお」順にことばをならべているように、野村はこの詩集ではタイトルを「あいうえお」順にならべている。
50音順に、と書かず、「あいうえお」順にと書くのは、その方が私の好みにあっているからだ。--と余分なことを書くのは、実は、この詩集について書くことはほとんど余分なことだからである。そして、それがこの詩集を楽しむ最良の方法だと思うからだ。
野村は、この詩集では「ことば」をことばとして書いている。そのことばが、はっと目の前に出現する瞬間--その瞬間を再現しようとしている。
「0(木が雷を飲む恍惚)」がそのことを端的に表明している。(作品は、原文では文字のサイズを変更している部分があるが、以下の引用では無視して引用する。基本的にタイトル部分が本文のなかで大きな文字で書かれている。実際は詩集で確認してください。)
夏の終わりの
朝の稲妻
のような始まりを狩りながら
もしも木が雷を
飲む恍惚
それをことばにできたらと思う
意識的にゆるくした文体。そのなかで「木が雷を/飲む恍惚」という文字を際立たせる。ちょっと手で触ってみたくなる感じで紙の上にその文字が存在する。これはなかなかセクシーなことである。「意味」を書きたいのだったら「もしも」はいらないし、「それを」というのは間延び以外の何ものでもないのだが、そのゆったりとした「地」があって、その「場」に大きな文字が直立してくるのはいい感じだ。草原の一本の木、その木の上に落ちてくる稲妻、それをそっくり飲み込んでしまう木、その興奮というと、ちょっと「詩」そのものに近づきすぎて感想にならないかもしれないが。まあ、セクシーである。
いくつも書いてもしようがないが……。おもしろかったのは、たとえば「6(あれこれ)」
男の苦悩の大半は
脳髄からみえないペニスが突き出て
あれこれ指示することによる
眼前の
桜よ散れ
骨灰のように
いやギャグのように
7行すべてがおもしろいというのではない。7行のなかで、大文字で書かれた「あれこれ」だけがおもしろい。「あれこれ」だけが好き。あ、こんなふうに「あれこれ」をつかってみたい、と思う。そして、こんなふうに「あれこれ」をつかっても、だれも(たぶん)きっと、その「あれこれ」が野村の作品からの「盗作」だとは気がつかないだろうなあ、と思う。そういう「盗作」をあれこれと(この「あれこれ」は野村の「あれこれ」とは違うな)してみたいなあと刺激される。
詩は、「盗作」してみたいと思わせてこそ、「詩」なのだ。読んでしまえばこっちのもの、それをどんなふうにつかおうと作者の知ったことじゃない。詩は、それを必要とするひとのためのもの、なんて、たしか「イル・ポスティーノ」という映画のなかにあったせりふだなあ。
もうひとつ、不思議な手触りのある「11(入れ替わりに)」。
そしていつか
別れの日が来るだろう
私は戸口で
とどまる者と抱擁を交わし
それから外の光のなかへ溶けてゆくだろう
入れ替わりに
闇の塊のような子供が
入ってくる
最初の4行の退屈さ。5行目でちょっと気取って、6行目で、突然「入れ替わりに」という思いもかけないことばの美しさ。そして、それをすぐに消してゆく7、8行目。いいなあ。「入れ替わりに」という動きだけが、しかも「に」がついたままの状態でぴかぴか光っている。
つまらなかった作品をひとつ。「19(おまんこ)」。
おまんこ
という言葉ほど美しい日本語もそうざらにはない
響きが柔らかく
ひらがなの魅力にも満ちて
こんなすてきな言葉をどうして伏せ字にしたりするのか
私は不当な差別のようにみえる
いやもしかしたら
伏せ字にするほんとうの理由は
ほかのことばにまじってその美が損なわれてしまうのを
恐れてのことかもしれない
世間は私よりも
はるかに巧緻で思慮深いことが多いものだ
「あのね、野村さん、おまんこということばが書きたかったら谷川俊太郎さんにどう書けばいいですか? と尋ねてからにしてください」と言うしかない。谷川俊太郎なら同じことをもっと楽しく美しくセクシーに書けるだろうなあ。
「おまんこ」は野村にとっては、まだまだ「意味」なんだなあ、と思った。