詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『稲妻狩』

2007-06-27 14:45:46 | 詩集
 野村喜和夫『稲妻狩』(思潮社、2007年06月10日発行)。
 (06月24日に書いたことと関連する。24日の日記も読んでください。)
 絵を見るとき、色や形、この線だけを見る。描かれている対象からは「意味」をくみ取らない。ただその色が好き、この形が好き、この線が好き……。
 詩の場合も、私は、ほとんどの場合、そんなふうにして読んでいる。つまり、このことばが好き、この言い回し、このリズムが好き、と。
 ことばの場合、絵よりも強く「意味」が浮かび上がってくる。そして、どうしても意味にひっぱられて(内容にひっぱられて)あれこれ感想を書いてしまうけれど、それはたぶん、私のなかで「意味論的」に解決していない問題が残っているからであり、その問題が解決してしまえば書かなくていいことなのだと思う。詩にとって書かなくていいことをついつい書いてしまっているのだと思う。
 今回の野村の詩集(今回にかぎらないけれど)、これはどこから読んでもいい。辞書のようなものだ。そして辞書が「あいうえお」順にことばをならべているように、野村はこの詩集ではタイトルを「あいうえお」順にならべている。
 50音順に、と書かず、「あいうえお」順にと書くのは、その方が私の好みにあっているからだ。--と余分なことを書くのは、実は、この詩集について書くことはほとんど余分なことだからである。そして、それがこの詩集を楽しむ最良の方法だと思うからだ。

 野村は、この詩集では「ことば」をことばとして書いている。そのことばが、はっと目の前に出現する瞬間--その瞬間を再現しようとしている。
 「0(木が雷を飲む恍惚)」がそのことを端的に表明している。(作品は、原文では文字のサイズを変更している部分があるが、以下の引用では無視して引用する。基本的にタイトル部分が本文のなかで大きな文字で書かれている。実際は詩集で確認してください。)

夏の終わりの
朝の稲妻
のような始まりを狩りながら
もしも木が雷を
飲む恍惚
それをことばにできたらと思う

 意識的にゆるくした文体。そのなかで「木が雷を/飲む恍惚」という文字を際立たせる。ちょっと手で触ってみたくなる感じで紙の上にその文字が存在する。これはなかなかセクシーなことである。「意味」を書きたいのだったら「もしも」はいらないし、「それを」というのは間延び以外の何ものでもないのだが、そのゆったりとした「地」があって、その「場」に大きな文字が直立してくるのはいい感じだ。草原の一本の木、その木の上に落ちてくる稲妻、それをそっくり飲み込んでしまう木、その興奮というと、ちょっと「詩」そのものに近づきすぎて感想にならないかもしれないが。まあ、セクシーである。
 
 いくつも書いてもしようがないが……。おもしろかったのは、たとえば「6(あれこれ)」

男の苦悩の大半は
脳髄からみえないペニスが突き出て
あれこれ指示することによる
眼前の
桜よ散れ
骨灰のように
いやギャグのように

 7行すべてがおもしろいというのではない。7行のなかで、大文字で書かれた「あれこれ」だけがおもしろい。「あれこれ」だけが好き。あ、こんなふうに「あれこれ」をつかってみたい、と思う。そして、こんなふうに「あれこれ」をつかっても、だれも(たぶん)きっと、その「あれこれ」が野村の作品からの「盗作」だとは気がつかないだろうなあ、と思う。そういう「盗作」をあれこれと(この「あれこれ」は野村の「あれこれ」とは違うな)してみたいなあと刺激される。
 詩は、「盗作」してみたいと思わせてこそ、「詩」なのだ。読んでしまえばこっちのもの、それをどんなふうにつかおうと作者の知ったことじゃない。詩は、それを必要とするひとのためのもの、なんて、たしか「イル・ポスティーノ」という映画のなかにあったせりふだなあ。
 もうひとつ、不思議な手触りのある「11(入れ替わりに)」。

そしていつか
別れの日が来るだろう
私は戸口で
とどまる者と抱擁を交わし
それから外の光のなかへ溶けてゆくだろう
入れ替わりに
闇の塊のような子供が
入ってくる

 最初の4行の退屈さ。5行目でちょっと気取って、6行目で、突然「入れ替わりに」という思いもかけないことばの美しさ。そして、それをすぐに消してゆく7、8行目。いいなあ。「入れ替わりに」という動きだけが、しかも「に」がついたままの状態でぴかぴか光っている。

 つまらなかった作品をひとつ。「19(おまんこ)」。

おまんこ
という言葉ほど美しい日本語もそうざらにはない
響きが柔らかく
ひらがなの魅力にも満ちて
こんなすてきな言葉をどうして伏せ字にしたりするのか
私は不当な差別のようにみえる
いやもしかしたら
伏せ字にするほんとうの理由は
ほかのことばにまじってその美が損なわれてしまうのを
恐れてのことかもしれない
世間は私よりも
はるかに巧緻で思慮深いことが多いものだ

 「あのね、野村さん、おまんこということばが書きたかったら谷川俊太郎さんにどう書けばいいですか? と尋ねてからにしてください」と言うしかない。谷川俊太郎なら同じことをもっと楽しく美しくセクシーに書けるだろうなあ。
 「おまんこ」は野村にとっては、まだまだ「意味」なんだなあ、と思った。


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入沢康夫と「誤読」(メモ45)

2007-06-27 11:23:51 | 詩集
 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 「梯子」。この詩集の隠れたテーマは「梯子」である。

              働き蟻のごとき小活字に
よつて ほぼ完全に埋め尽くされた 一八〇ページたら
ずの雑誌 これをもつて俺の梯子とすることも けだし
可能なのである やつてみよう

「お食事にどうぞ」「ガリアの塩をどうぞ」
空飛ぶ蛙に曳かれた乗物のなかで開かれる異端審問
「お食事にどうぞ」
しつこいぞ おまえ
けれども
赤狩りは割にあはない

 「梯子」とはことばである。入沢自身のことばではなく、誰かが書いたことば。そのことばを書いた人の意図を分離し(ことばを、ことば自身として解放させ)、つなぎあわせてゆく。ことばを「誤読」し、動かしていく。そうすることで、今、ここにいる入沢を別の次元(梯子で結ぶ「上」か「下」か)へと連れ出す。今、こことは違う次元へ行くということが重要なのだ。そのために、ことばが必要なのだ。
 ことばは「物語」と言い換えられるときもある。

 そしてまた ここには 今ひとつの 耐えて忍ぶべき
梯子の物語……

 虚空に かつて(遠い昔)愛した 頸の長い娘の幻が
浮かび あるかなしかの薄荷の香りが あたりいちめん
に漂ひ 彼女の やさしく澄んだ音声が とぎれとぎれ
に聞えてくる 彼女のお気に入りの あの古ぼけた寓意
の織物 昏睡と彷徨の説話の かぎりない断片

--なぜ泣くのと尋ねる 人はだれもおらず……

--喉が銀色に輝く鷹を探し当てようとして……

 「物語」「寓意の織物」「説話」。それらは全て「誤読」を待っている。「誤読」されることで引き継がれ、生き延びる。
 繰り返しというか、ひとつのことば、ひとつのまとまった断片が少しずつ姿を変えて(いまの時代ならバージョンを新しくしてといいった方がわかりやすいだろうか)、次々に登場するのは入沢の作品の特徴だが、ここでも同じことが起きている。
 「梯子の物語」。

 そしてここには さらにひとつの やはり等しく耐え
て忍ぶべき梯子の物語……

 中空に一点の汚点が現れ みるみるうちにそれが広が
つて すべては闇に包まれる
 その闇の中から 今度は 声変りしてまもない十四 
五の少年の声が聞える これもまた 昏睡と彷徨の説話
の断片か?

「風は今夜も僕を追ひ越して
くるりと振りかへると
その細い躯をくの字に曲げて
けたたましく笑ふのだ
  (谷内注・原文は「汚点」に「しみ」のルビ、「躯」は旧字体、「からだ」のルビ)

 「梯子の物語」とは、「梯子」自身の登場する「物語」、「梯子」が内包する「物語」という意味ではない。「梯子」となるべき「物語」という意味である。そして、この「の」のなかに省略された形で存在する「なるべき」が重要なのである。
 ことばは、そこにあるだけでもことばである。しかし、ことばはそこにあるだけではなく、そこにあることをやめて別の形で(といっても形を変えず、ことば自身はそっくりそのままで)存在することができる。「誤読」を受け入れ、それまでと違った意味を担うことができる。
 そして、

 さうだ あれだ ギャングウェイ・ラッダー(まさし
くこれは梯子そのもの)の日暮だ 横浜大桟橋のどしや
ぶりの雨だ 沖に船がかりしてゐた軍用輸送船団だ と
思ふ間もあらばこそ 場面が変る

 「場面が変る」。そのための「梯子」。「梯子」は場面を変えるための手段である。「場面」が「かわる」ことを、かえることを入沢は望んでいる。そういう力をことばに求めている。ことばは、何かを伝えるためのものではない。むしろ、祈り、何かを引き寄せるためのものなのだ。

 この詩集は「わが地獄くだり」というサブタイトルを持っている。この詩集は入沢の体験した「地獄」を伝えるというよりは、「地獄」を引き寄せる詩集なのである。体験とは入沢にとって、ことばをつかってある事実を引き寄せることなのである。

 来た! それは思ひもまうけぬ 西南の方角からやつ
て来た

 と入沢は「到来」で書いていたが、それは「やつて来た!」のではない。呼びよせたのだ。ことばが「事実」を引き寄せる。これは詩人にとって至福である。ことばが、夢想が現実になるからだ。一方、苦悩でもある。夢想は楽しい夢想ばかりではない。人間は苦しく悲しいことも夢想してしまう。そういうものも、ことばは引き寄せてしまう。
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