詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

カルロス・ソリン監督「ボンボン」

2007-06-15 15:12:25 | 映画
監督 カルロス・ソリン 出演 フアン・ビジェガス 犬(ボンボン)

 失業中のおじさん。手作りナイフを売っているが、売れない。このおじさんの、現実を受け入れ、しようがないなあ、どうしようかな、というちょっとさびしい顔、ほんの少し遠くを見るような目が、なんとういうか、おもしろい。引きつけられてしまう。
 このおじさんが、ふとしたことで犬(ボンボン、猟犬らしい)を手に入れる。血統書付きの立派な犬だが飼い主が死に、ぼんやりと生きている。この犬をめぐって物語は進むのだが、その物語の出発点、古ぼけた車の助手席にきちんとお座りしてのっているボンボンが傑作である。おじさんよりほんの少し大きい。それがまっすぐに前を向いている。思わず笑ってしまう。顔が似ている。目が似ている。まっすぐ前を向いてはいるが明確な目的があるわけではない。生きていくんだという強い決意があるわけでもない。どうなるんだろう。どうにかなるだろう、なるようになるさ、と思わずにはいられないさびしさのようなものが漂っている。おじさんは、そうした雰囲気を感じ取り、ちょっと横目でボンボンを見る。そうするとふたり(?)はますます似てくるのである。劇場で、私はほんとうに大声をあげて笑ってしまった。(ほかのお客さんは笑わなかったが。)
 ボンボンは血統書付きの立派な犬である。おじさんはその立派さに気がつかないが、犬好きの人がそれに気づく。銀行の支配人(?)がまず気がつく。手厚くもてなし、いろいろな人を紹介する。そのひとづてで、ボンボンはドッグショーに出場する。部門別で優勝し、全体でも3位に入ってしまう。犬といっしょに、おじさんの人生はどんどん登り調子。浮かれ、同時に、こんなことでいいのかな? というためらいもみせる。
 この入賞を境に、おじさんの人生はちょっと分裂する。そこがなかなかおもしろい。ボンボンの方も人生がちょっと狂ってくる。そこがなかなかおもしろい。
 名犬は種付けをして金を稼ぐ……はずであった。ところがボンボンにはその気がない。ヒート中の相手に会っても興味がわかない。で、お金を稼げない。仕方なしにおじさんはいったんはボンボンと別れて暮らすことになる。ところが別れてみると、ボンボンといたときの楽しさを思い出し、さびしくなる。
 「恋人と同じように、別れたあとで大切さがわかる」
 などと、ちょっと気を寄せる歌手に言われて、いてもたってもいられなくなる。あずけた先へ行ってみるとボンボンは逃げたという。
 おいおい、大事な大事な犬なんだよ。どうしてくれる。とは言わず、おじさんはひとりでボンボンを探しまわる。
 そして。
 煉瓦工場の積まれた煉瓦の背後。犬の声がする。行ってみると、ボンボンが交尾している。後尾されながら雌イヌが甘い声を出している。おじさんはそっと背を向け、後尾がおわるのを待っている。
 そして。
 再びボンボンがおじさんのとなり、助手席に座っている。前を向いている。じっとしている。その顔が、なんというんだろう、やったぞ、というように誇らしげである。おじさんも、よかった、よかった、とよろこびにあふれた顔をしている。これがまたまた傑作なのである。
 人生の大成功の転機、というほどではない。しかし、ここから人生が変っていく。そんな、ほんわかした感じのよろこびが車を走らせる前にひろがっている。道はまっすぐ。いいなあ、この解放感。充実というのではなく、解放感としかいいようがない明るさ。

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古賀忠昭「ちのはは」

2007-06-15 14:40:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 古賀忠昭「ちのはは」(「るしおる」64、2007年05月25日発行)。
 古賀の「ちのはは」は『血ん穴』につながる詩である。死を前にして母が広告の裏に鉛筆をなめながら、いわば「遺言」を書いている。生きていくために胎児を食べた、これから地獄へゆくのだ、と書き綴る。

しんでゆくときめられとるこは しんでゆくと きめられとるのやから はらから でて
おぎゃあ とこえをあげるまえに くちをおさえて だまらさんと
まちごうて
いきてよか と おもうてしもうて これは
おそろしことで
まちごうても おぎゃあ と とえをあげるまえに くちをふさいで ほしかと です
(略)
おぎゃあ と ゆうこえは それほど おそろしこえで みみをふさいでも みみをつぶしても
きこえて きて じごくにゆくことも わすれてしまうごつ おそろし こえで いきとるもんば
けっして きいてはいかんこえやから おぎゃあ と こえをだすまえに くちをふさいで
おぎゃあ と ゆうこえを つけもんいしで ひゃっぺんもにひゃっぺんも たたいて
たたいて だまって もらわんと いけんのです

 どの部分も壮絶だが、私にはこの部分が一番印象に残る。生きていること、生きようとする力を感じること。「おぎゃあ」という最初の呼吸。そのことに対する恐怖。それは「はは」自身が生まれてきたことへの恐怖、生きていることへの恐怖を語っている。生まれたからには生きなければならない。「おぎゃあ」は「はは」の、それまでの生のあり方を全部、一瞬にして照らしだす。「生きたい」という欲望を全部明るみに出す。それは隠してきたものを全部暴き出す強烈な光なのだ。
 「だまって もらわんと いけんのです」。この「もらわんと」ということばのなかに潜む願い、祈り。
 胎児を食べるという非人間的な行為のなかに、ふいにやってくる人間のあたたかみ。そのふいのあたたかさ、血のぬるいあたたかさが、「非人道的な行為」というような法的なことばを洗い流し、一気に人間そのものの、いのちのつながりを浮かび上がらせる。

 「はは」の遺言は矛盾だらけである。そして、その矛盾こそが、人間が生きているということの証明でもある。

いきとるとき なき わめく ごたるこつの あったときも じっと こらえて ちの なみだば
ながしたこつも じごくに いったときのためとおもわれて じごくにゆくと きめられとるもんにとって
ありがたいこつだと みぎのてと ひだりのてを あわせて
おがんで おります

 「ありがたいこつ」。「もらわんと」に通じるものがある。
 「ありがたい」のなかに、生きていることへの感謝が満ち溢れている。心臓のように、そこから血が押し出され、ことばのすみずみにまで温かさがゆきわたる。生きることは苦しい。しかし生きることは感謝しても感謝しても感謝しきれない何かなのである。感謝しなければならない何ごとかなのである。
 「じごくにゆく」ことは生きてきたからなので、生きて来なかったら「じごく」へはいけない。そこには生きていたことへの深い深い感謝と祈りがある。苦悩のなかでのみつかみとった他者への感謝と祈りがある。

わたしは じごくにゆくと きまっとるけど どうか しんぱいせんで わたしが じごくで
みんなと うまくやっていると おもうて あんしんして ください わたしは いきとるときも
じごくのことを ずっと おもうてきたから ごくらくのことは なんも しらんけど
じごくのことは からだの ぜんぶで しっとるから なんの しんぱいも なかと です

 心配しないでください。安心してください。--この遺言には、感謝と祈りがあふれている。
 「おもう」ということばが繰り返し繰り返し出てくるが、それまでことばにせずに、ただひたすらこころのなかで繰り返してきた祈り、感謝が、胎児を食べるという衝撃的な事実をつつみこむ、不思議な思想になっている。
 胎児を食べるという行為を超えてしまう思想などない、といってしまえばないのかもしれないけれど、どうしても私は思想を感じる。思想とは生きていたいという祈り、そして感謝であり、そこには必ず矛盾がある。
 非道なことをした。だから地獄へゆく。その解決のなかに、思想がある。非道なことをしなければいいじゃないか、と批判するのはたぶん簡単である。だが、非道なことをしなければ生きていけないとしたら、その生をどうやって解放するか。地獄へゆく、という思想を信じることで、自己を許すという解決しかないかもしれない。このとき許すとは受け入れるということである。
 地獄へゆくということで自己を許す「はは」。その「はは」を許すことで、古賀はまた「はは」を受け入れ、「はは」から生まれてきた古賀自身をも受け入れる。
 この作品に書かれている思想の美しさは、その「受け入れる」という姿勢にある。
 「じごくへゆく」ことを受け入れる。

 もちろん死ぬこと、そして地獄へゆくことを「受け入れる」というのは簡単なことではない。だからこそ、「はは」は鉛筆をなめなめ「遺言」を書くのである。

じごくは やみのなかで みゆると おもうの です
じごくをおもう ほんとの こころは ひだりめの やみのなかに あると おもうのです
やみは なんもみえんから なにもないこととおなじで やみは まじりけがなかけん じごくを
おもうきもちは
おもうて おもうて
おもう きもちに なるとやから じごくをおもうきもちは ほんとの きもちに
なると おもうの です

 「じごくをおもうきもちは ほんとの きもちに/なる」。この「なる」の切なさ。
 地獄へは本当は行きたくない。本当は死になくない。しかし、人間は死ぬ。そして死んだら地獄か極楽へゆく。「はは」は地獄へゆかなければならない、と自分自身で決めた。その「きもち」をゆるぎないものにするために、ことばにする。
 ことばは、誰にとはとっても、まだあいまいな思い、気持ちを明確にするための唯一の方法である。繰り返し繰り返しおなじことばを書く。書く度に少しずつ変わるけれど、けっきょくおなじことばである。そのおなじことばを書くということで、気持ちは気持ちに「なる」。
 古賀はまた「はは」のことばを繰り返す。「はは」はこういう「遺言」を書いたと、「はは」とおなじことばを繰り返す。そうすることで「はは」の「きもち」に「なる」。「はは」の「きもち」に「なる」とき、古賀は、生まれる前のように「はは」の胎内にいる。一体になっている。「はは」から生まれ、「はは」へ帰ってゆく。「はは」に「なる」。そして、「はは」に「なって」、この詩という作品を生み出した。
 循環し、繰り返し、引き継がれてゆく「血」というものを思った。その温かさと、強さを思った。


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