詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

堀田孝一「猩 猩 記」

2007-06-23 21:05:06 | 詩(雑誌・同人誌)
 堀田孝一「猩 猩 記」(「鷭」2、2007年05月31日発行)
 庭で吐血するか。そのあと、

 夜 どうしてもいっしょに行く と言って用意を
はじめたおふくろをふりきって 私はひとり 町の
内科医院へ車を走らせました 草ぶかい堤防を 何
度か立ち止まり 我家の方をふりむいたりしました
 どんよりとした闇でした くま川に架かる歩道橋
の灯りが押さえつけられた仔猫たちの眼のようで
川面にちゃぷちゃぷゆれるそれがふいに涙をかきあ
げました

 この部分に、なんともいえない「正直さ」を感じる。不安ゆえに、ひとりで病院へ行きたいという気持ち。その裏側には、母を心配させたくないという気持ちもある。それでいて、母というか、肉親というか、「家」にすがりたい気持ちもある。「仔猫たちの眼」は堀田自身の眼でもある。押さえつけられて、どうすることもできない眼。いのちと風景が一体となっている。
 最後の方の「それが」の「それ」を特定するのはなかなか難しい。
 堀田自身にも、「それ」が何をさすのかは具体的にはいえないのではないだろうか。それまでに書いてきたことばすべてが「それ」としかいいようがないのではないだろうか。こういうことばの力が、私は、実は好きである。
 ことばがふいにことばの機能を果たさなくなる。指し示しているものがあいまいになる。あいまいになればなるほど、「それ」はこころのなかで巨大になる。「涙」になってしまう。「涙」になって、あふれてしまう。
 「涙をかきあげました」の「かきあげました」もいいなあ、と思う。
 いのちと風景が一体になり、その風景がいのちの内部の「涙」を「かきあげる」。こみ上げる涙ではなく、かきあげられる涙。

 「わたし」というひとりの人間が存在するのではなく、「わたし」のまわりに風景が、自然が存在する。あるいは「わたし」のまわりに、「おふくろ」や、その他のひとが存在する。そうした存在とともにあって、「わたし」以外のものが「わたし」の内部に入ってきて、「わたし」を突き動かす。
 これは、「わたし」だけにかぎったことではない。堀田のまわりのすべての存在、犬やじいちゃん、ばあちゃんも同じである。
 肉体を病んで、そういう原初的(?)な肉体感覚がよみがえったのか、堀田自身が最初からそういう肉体感覚をもっていたのかよくわからないが、この感覚をおしひろげていくとおもしろい言語空間ができると思った。


コメント
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