斎藤健一「雪」、みえのふみあき「淵にて」(「乾河」49、2007年06月01日発行)。
「乾河」に発表されている作品は皆文体が簡潔で、清潔だ。簡潔、清潔な文体の人間だけが集まって、その簡潔、清潔さにいっそう鍛え上げているという印象がある。
斎藤健一の「雪」は、簡潔、清潔さがあらゆる存在に行き渡り、存在の区別がなくなったしまう。「わたし」と「父」の区別もなくなってしまう。すべてが融合してしまう。
「からだが痛む。」だけを読むと、斎藤の感覚のように思えるが、これは「父」のことを斎藤が想像しているのだ。「寒いのである。」も同じだ。そうでないと、次の「そとは」という限定が生きて来ない。斎藤は室内にいる。そして「そと」を眺めている。「そと」には「父」がいる。その父が「からだが痛む。」と感じている、と斎藤は想像する。「寒いのである。」と想像する。「寒い」と書かずに「寒いのである。」と書く。その「のである。」のなかに、想像がある。「ぬれているのだ。」の「のだ。」も同じだ。
この「のである。」「のだ。」は、斎藤自身のことを書くときは省略されるべき「無駄」である。簡潔な文体という意味からいえば、「のである。」「のだ。」はない方が簡潔であるはずだが、それを省略してしまうと、そこに書かれていることがらが「想像」であることがわからない。そこに書かれていることが、斎藤の想像であることを明確にするために、「のである。」「のだ。」が書かれている。「想像」ということばを省略した形で。ここに「簡潔」の「簡潔」さの理由がある。
人間の肉体は不思議だ。他人の肉体なのに、その肉体が感じていることを感じることができる。実際には、自分の体は痛くない。寒くない。それなのに、その肉体を見ただけで、「痛い」「寒い」を感じる。そういう力が肉体にはある。見ている肉体がなじみのある肉親なら、その感覚はもっと強い。「痛い」「寒い」ということばを発したときの肉体の記憶がある。ああいうかっこうをしながら「痛い」と言った。「寒い」と言った、言うのを聞いた--そういう記憶があり、それがそのまま、まるで自分が感じるように「痛い」「寒い」を引き寄せる。
ところが、斎藤は実際には「父」を見ていない。「そと」に父はいない。すでに亡くなっている。亡くなった父の姿を、雪の降る日に思い出したのだ。父は雪になって、あるいは風になって、今そこにいる。「父は生きていない」がゆえに、そこに、斎藤の目の前に存在している。
この不在の父といっしょに、斎藤はまた風になり、小路地ぶつかり暗い音を立てる。
「痛い」「寒い」という声を殺して、雪のふる日にそとで働いている父の、その肉体のなかに響いている声になる。
雪。父の肉体。声にならない声。(暗い音。)すべてが融合し、斎藤になる。内と外の区別はなく、山茶花と雪の区別もなく、風と雪の区別もない。父と斎藤の区別もない。人間の肉体が感じる「痛い」「寒い」だけがある。
*
みえのふみあき「淵にて Occurece10」を読むと思念ということばがふいに思い浮かぶ。
ここに描かれているのは現実ではなく、思念である。
「淵は沈むためにある」の「ために」。もし、みえのに対して「ために」をつかわずに詩を書けという問題を出したとすると、どうなるだろうか。少なくとも、この詩は成立しない。この詩は1行目の「ために」にすべてが結晶している。
「淵」はもちろん「沈むために」など存在するのではない。「沈む」という自動詞を、自然界に存在する「淵」は必要としていない。「沈む」という自動詞の主語が「ために」と密着した形で存在し、「ために」によって「淵」を自然に存在する「淵」とは違ったもの、いわば思念としての「淵」に作り上げている。
2行目の「エーテル」は象徴的である。「エーテル」はかつては存在すると想定されていた。思念(想像力)が「エーテル」を必要とする時代があった。今では「エーテル」の存在は否定されている。物理的に否定された存在を平然と書いているのも、みえのが書いている世界が実在の世界ではなく思念の世界だからである。
ここに描かれているのは、すべて実存の世界ではなく、みえのの頭の中の世界、思念の世界である。
実際に「淵」に沈んでいるのなら、そのときになって「水着を忘れた」ことを思い出したりはしないし、思い出したとしても「故郷の家」まで取りにもどることはない。
したがって、それ以後の世界も現実の世界ではない。
死んだ兄が母の乳房を紙袋にいれて手渡してくれる。それが母の乳房であることを、みえのは肉眼で確認したわけではない。肉眼で体験したことではないこと、肉体が体験したことではないことが、ここでは肉体と共に、肉体の運動と共に描かれている。思念は、たんに頭の中にあるのではなく、肉体と共にある。思念が肉体と融合している。頭ではなく、肉体と融合した思念で世界を描くために、みえのの描く世界は、強い粘着力で、私のこころをひきつける。
どのような「淵」も沈む「ために」あるのではないが、みえのが「沈むためにある」と書いた瞬間から、その沈む「ために」ある「淵」へ、その「淵」へ沈んでゆくみえのの肉体に誘われて、現実ではないのに、現実そのもののようにリアルな世界に引きずり込まれる。
「ために」と同様、なにかしら不思議なことばがこの詩のことばの裏側にはたくさんひしめいているはずである。しかし、みえのはそれを書かない。省略する。そのために、簡潔で、清潔な世界が、悪夢のように鮮やかに浮かんでくる。
ことばを省略する力が、みえのの詩を美しいものにしている。
「乾河」に発表されている作品は皆文体が簡潔で、清潔だ。簡潔、清潔な文体の人間だけが集まって、その簡潔、清潔さにいっそう鍛え上げているという印象がある。
斎藤健一の「雪」は、簡潔、清潔さがあらゆる存在に行き渡り、存在の区別がなくなったしまう。「わたし」と「父」の区別もなくなってしまう。すべてが融合してしまう。
からだが痛む。寒いのである。そとは風が吹きしかもび
しょびしょにぬれているのだ。山茶花の枝や葉の一枚一
枚に雪が落ちている。背中を不意にうしろから突かれ、
半身を前に折る。ゴム長靴にはげしく雪が散りおちる。
父は生きていない。風は曲がりくねった小路へぶつかり
暗い音を立てた。
「からだが痛む。」だけを読むと、斎藤の感覚のように思えるが、これは「父」のことを斎藤が想像しているのだ。「寒いのである。」も同じだ。そうでないと、次の「そとは」という限定が生きて来ない。斎藤は室内にいる。そして「そと」を眺めている。「そと」には「父」がいる。その父が「からだが痛む。」と感じている、と斎藤は想像する。「寒いのである。」と想像する。「寒い」と書かずに「寒いのである。」と書く。その「のである。」のなかに、想像がある。「ぬれているのだ。」の「のだ。」も同じだ。
この「のである。」「のだ。」は、斎藤自身のことを書くときは省略されるべき「無駄」である。簡潔な文体という意味からいえば、「のである。」「のだ。」はない方が簡潔であるはずだが、それを省略してしまうと、そこに書かれていることがらが「想像」であることがわからない。そこに書かれていることが、斎藤の想像であることを明確にするために、「のである。」「のだ。」が書かれている。「想像」ということばを省略した形で。ここに「簡潔」の「簡潔」さの理由がある。
人間の肉体は不思議だ。他人の肉体なのに、その肉体が感じていることを感じることができる。実際には、自分の体は痛くない。寒くない。それなのに、その肉体を見ただけで、「痛い」「寒い」を感じる。そういう力が肉体にはある。見ている肉体がなじみのある肉親なら、その感覚はもっと強い。「痛い」「寒い」ということばを発したときの肉体の記憶がある。ああいうかっこうをしながら「痛い」と言った。「寒い」と言った、言うのを聞いた--そういう記憶があり、それがそのまま、まるで自分が感じるように「痛い」「寒い」を引き寄せる。
ところが、斎藤は実際には「父」を見ていない。「そと」に父はいない。すでに亡くなっている。亡くなった父の姿を、雪の降る日に思い出したのだ。父は雪になって、あるいは風になって、今そこにいる。「父は生きていない」がゆえに、そこに、斎藤の目の前に存在している。
この不在の父といっしょに、斎藤はまた風になり、小路地ぶつかり暗い音を立てる。
「痛い」「寒い」という声を殺して、雪のふる日にそとで働いている父の、その肉体のなかに響いている声になる。
雪。父の肉体。声にならない声。(暗い音。)すべてが融合し、斎藤になる。内と外の区別はなく、山茶花と雪の区別もなく、風と雪の区別もない。父と斎藤の区別もない。人間の肉体が感じる「痛い」「寒い」だけがある。
*
みえのふみあき「淵にて Occurece10」を読むと思念ということばがふいに思い浮かぶ。
淵は沈むためにある
方位を失ったエーテルの闇
ぼくの沈降に逆らって
浮上する無数の小さな気泡
ぼくは水着を忘れたことを思いだし
大急ぎで故郷の家まで帰った
門口から亡くなって久しい兄が顔を出し
紙袋をふたつ手渡してくれた
深くえぐりとった母の乳房だ
開けてもいいよと笑った
ここに描かれているのは現実ではなく、思念である。
「淵は沈むためにある」の「ために」。もし、みえのに対して「ために」をつかわずに詩を書けという問題を出したとすると、どうなるだろうか。少なくとも、この詩は成立しない。この詩は1行目の「ために」にすべてが結晶している。
「淵」はもちろん「沈むために」など存在するのではない。「沈む」という自動詞を、自然界に存在する「淵」は必要としていない。「沈む」という自動詞の主語が「ために」と密着した形で存在し、「ために」によって「淵」を自然に存在する「淵」とは違ったもの、いわば思念としての「淵」に作り上げている。
2行目の「エーテル」は象徴的である。「エーテル」はかつては存在すると想定されていた。思念(想像力)が「エーテル」を必要とする時代があった。今では「エーテル」の存在は否定されている。物理的に否定された存在を平然と書いているのも、みえのが書いている世界が実在の世界ではなく思念の世界だからである。
ここに描かれているのは、すべて実存の世界ではなく、みえのの頭の中の世界、思念の世界である。
実際に「淵」に沈んでいるのなら、そのときになって「水着を忘れた」ことを思い出したりはしないし、思い出したとしても「故郷の家」まで取りにもどることはない。
したがって、それ以後の世界も現実の世界ではない。
死んだ兄が母の乳房を紙袋にいれて手渡してくれる。それが母の乳房であることを、みえのは肉眼で確認したわけではない。肉眼で体験したことではないこと、肉体が体験したことではないことが、ここでは肉体と共に、肉体の運動と共に描かれている。思念は、たんに頭の中にあるのではなく、肉体と共にある。思念が肉体と融合している。頭ではなく、肉体と融合した思念で世界を描くために、みえのの描く世界は、強い粘着力で、私のこころをひきつける。
どのような「淵」も沈む「ために」あるのではないが、みえのが「沈むためにある」と書いた瞬間から、その沈む「ために」ある「淵」へ、その「淵」へ沈んでゆくみえのの肉体に誘われて、現実ではないのに、現実そのもののようにリアルな世界に引きずり込まれる。
「ために」と同様、なにかしら不思議なことばがこの詩のことばの裏側にはたくさんひしめいているはずである。しかし、みえのはそれを書かない。省略する。そのために、簡潔で、清潔な世界が、悪夢のように鮮やかに浮かんでくる。
ことばを省略する力が、みえのの詩を美しいものにしている。