詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ47)

2007-06-30 16:58:44 | 詩集
 入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
 入沢のこの詩集にはよく整理されたいない部分というか、「なま」の部分がある。「キーワード」がある。

前表の確認 といふかむしろ 追認

 この1行の、「といふかむしろ」が入沢の「キーワード」である。このことばがなければ、この詩集は成り立たない。入沢はこの作品を書くことができない。
 ほんとうに「前表の確認 といふかむしろ 追認」ということであれば、推敲過程で「前表の追認」と書き直せばすむ。しかし、書き直してしまうと入沢の書きたいこと、書こうとしていることと違ってしまう。どうしても「前表の確認 といふかむしろ 追認」と書かなければならない。「といふかむしろ」という意識があることを、ことばとして表わしておかなければ何かを書いたことにはならないのである。
 そして、この「といふかむしろ」ということばが存在することによって、「確認」と「追認」が同じものになる。違っているけれど「同じもの」になる。

梯子だ 一段と下の(「上の」といってもそれは同じこと)

 そう書かれたときの「同じこと」に重なり合うものがある。梯子にとって「下」と「上」はまったく違う。「確認」と「追認」もまったく違う。ほんとうは違うけれど、入沢にとっては「同じ」なのである。今(ここ)から動くこと、今(ここ)ではない「場」へ動くこと--その「動き」が「同じ」という意識をひっぱりだす。方向が違っても「動き」そのものの「今(ここ)」からの「距離」が「同じ」ならば、すべて「同じ」なのだ。
 梯子にとって「一段」下と「二段」下は違っても、一段「下」と一段「上」は「移動する距離」において「同じ」である。「確認」も「追認」も、ことばと対象の「距離」は「同じ」である。(ほかの誰かにとっては違うかもしれないが、入沢にとっては「同じ」である、という意味である。)

 この「といふよりむしろ」のなかに「誤読」がある。「誤読」の精神がある。「確認」であることを「追認」と「誤読」することで、より強く納得できるなにごとかがある。「追認」と「誤読」することで、救い出したいものがある、ということでもある。



 この詩集には、もう一つとんでもないことばがある。

                      かつて
自ら気負うて「地獄くだり」を僣称したあの見せかけの
旅とは異なつて こたびは地獄そのものを見た 少なく
とも(作者は)その縁辺をかすめた
 (谷内注・原文は「見せかけの」と「作者」に傍点がある。)

 ふいに登場する「作者」。この詩集ではそれまで「俺」が登場していた。

かつての俺は「妻子ある独身者」だつたが
今ではただのありふれた独身者に過ぎない

 その主語をつかって、(俺は)と書くこともできるはずである。しかし、入沢はそうしていない。「俺」と「作者」を唐突に切り離している。
 「地獄くだり」をこころみたのは「俺」であって、「作者」ではないのだ。つまり、仮構されたひとりの人間が「地獄くだり」をしはじめた。それは「地獄くだり」そのものが現実のものではなく仮構されたものであるということでもある。
 しかし、いったんことばが動きだすと、仮構は仮構のままでは存在しなくなる。仮構のことばにむかって現実がなだれ込み、現実として出現してしまう。これは「作者」が望むことではあるけれど、そう望むのは、それが現実になることはないという一種の「約束事」があるからのことである。ことばは、文学は、現実ではない。たとえば初期の作品の「ランイゲルハンス氏の島」。それはいくらことばを積み重ねても現実の世界にランゲルハンス島を出現はさせない。出現するのは「意識」のなかにおいてのみである。
 ところが「地獄」が、そのことば自体、いっしゅの「思想」であるためだろうか、意識のなかにのみ存在するはずなのに、出現してしまった。もちろん、それは意識のなかに、ではあるけれど、意識とともにある現実とぴったり重なり合ってしまった。「Copy of 《地獄》」から「Copy of 」が取れてしまった。
 入沢は、そういう状況から「俺」と「作者」を引き離すために、強引に「作者は」という一語を挿入している。「作者」を導入することで、それ以前のことばを「仮構」そのものに引き戻そうとしている。

 ここには、とんでもない「矛盾」がある。
 「地獄くだり」を「リアル」に再現し、そのことばすべてを「現実」と感じてもらいたいというのが、ふつうの作者の基本的な願いである。自分のことばを信じてもらえることが作者冥利というものである。ところが入沢はそれを「リアル」にしたくないのである。なぜか。「現実」がことばを追い越してしまったからである。ことばがことばでなくなったからである。
 「読者に」とってではなく、「作者に」とって。

 「誤読」とは「読者」の特権である。「作者」が「誤読」に飲み込まれてしまっては、「誤読」が消滅してしまう。「といふよりもむしろ」が消滅してしまう。「作者」はあくまで「といふよりもむしろ」ということばとともに、どこまでも「読者」をひっぱって行かなければならない存在なのに、ことばに飲み込まれてしまったのである。
 これまで守り通した入沢の手法がくずれたという意味では失敗作(あるいは未完成の作品)ということができるかもしれないが、それゆえに、そこに噴出してくる入沢がくっきり見えておもしろいといえば大変おもしろい作品だ。
 といふかむしろ……。
 位置づけがむずかしい作品だ。
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メル・ギブソン監督「アポカリプト」

2007-06-30 06:53:05 | 映画
監督 メル・ギブソン 出演 ルディ・ヤングブラッド、ダリア・ヘルナンデス

 奇妙な映画である。そして映画でしかない映画である。
 日食を恐れる一族にとらえられ、そこから脱出する。ただし、猟(人間狩り)の標的となって、森林を走って逃げる。それだけの映画である。(もちろん、その前段階として、捕虜になるシーンがあるが、「脱出」のスタートまではちょっと退屈である。)
 主人公は素手である。武器はもたない。唯一の武器があるとすれば、それは主人公が逃げ回る森林が彼の猟場であったということ。つまり、土地鑑があるということ。最後の方に、この土地鑑(自分の猟場)を生かしたエピソード(シーン)があるが、それは付け足しのたぐいであり、もしかすると「うるさい」部分かもしれない。土地に根差したものだけが勝利する--というような「哲学」はこの映画には似合わないのである。(かえるの毒を利用して吹き矢で戦うなどというエピソードも、主人公の造形としては有効ではあるけれど、やはりうるさい。)
 見どころは、ひたすら森林を走る疾走感。こんなに走り回れるわけはないのだが、そんなくだらない批判を吹っ飛ばして、ただただ走る。走る男、逃げ回る男をカメラは逃げる男といっしょのスピードで追いかける。逃げる男より速くも遅くもない。この一体感がすばらしい。そのスピードのなかで、男の裸が森林になり、森林が男の鎧になる。森林を着て男が走るのである。走る、走る、走る。走るにつれて、男は森林そのものになる。汗を吹き飛ばし、同時に、男は恐怖心を捨て去る。男は森林と完全に一体になる。
 何もこわくない。森林はいのちが生まれ、いのちがかえっていく場所である。森林こそが男のすべてであり、男は走ることによって森林そのものになったのだから。

 (前半は眠っていても大丈夫。後半は目をらんらんにして、男といっしょになって森林を駆け回ってください。ジャガーになってください。)
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