入沢康夫『漂ふ舟』(1994年)。
入沢のこの詩集にはよく整理されたいない部分というか、「なま」の部分がある。「キーワード」がある。
この1行の、「といふかむしろ」が入沢の「キーワード」である。このことばがなければ、この詩集は成り立たない。入沢はこの作品を書くことができない。
ほんとうに「前表の確認 といふかむしろ 追認」ということであれば、推敲過程で「前表の追認」と書き直せばすむ。しかし、書き直してしまうと入沢の書きたいこと、書こうとしていることと違ってしまう。どうしても「前表の確認 といふかむしろ 追認」と書かなければならない。「といふかむしろ」という意識があることを、ことばとして表わしておかなければ何かを書いたことにはならないのである。
そして、この「といふかむしろ」ということばが存在することによって、「確認」と「追認」が同じものになる。違っているけれど「同じもの」になる。
そう書かれたときの「同じこと」に重なり合うものがある。梯子にとって「下」と「上」はまったく違う。「確認」と「追認」もまったく違う。ほんとうは違うけれど、入沢にとっては「同じ」なのである。今(ここ)から動くこと、今(ここ)ではない「場」へ動くこと--その「動き」が「同じ」という意識をひっぱりだす。方向が違っても「動き」そのものの「今(ここ)」からの「距離」が「同じ」ならば、すべて「同じ」なのだ。
梯子にとって「一段」下と「二段」下は違っても、一段「下」と一段「上」は「移動する距離」において「同じ」である。「確認」も「追認」も、ことばと対象の「距離」は「同じ」である。(ほかの誰かにとっては違うかもしれないが、入沢にとっては「同じ」である、という意味である。)
この「といふよりむしろ」のなかに「誤読」がある。「誤読」の精神がある。「確認」であることを「追認」と「誤読」することで、より強く納得できるなにごとかがある。「追認」と「誤読」することで、救い出したいものがある、ということでもある。
*
この詩集には、もう一つとんでもないことばがある。
ふいに登場する「作者」。この詩集ではそれまで「俺」が登場していた。
その主語をつかって、(俺は)と書くこともできるはずである。しかし、入沢はそうしていない。「俺」と「作者」を唐突に切り離している。
「地獄くだり」をこころみたのは「俺」であって、「作者」ではないのだ。つまり、仮構されたひとりの人間が「地獄くだり」をしはじめた。それは「地獄くだり」そのものが現実のものではなく仮構されたものであるということでもある。
しかし、いったんことばが動きだすと、仮構は仮構のままでは存在しなくなる。仮構のことばにむかって現実がなだれ込み、現実として出現してしまう。これは「作者」が望むことではあるけれど、そう望むのは、それが現実になることはないという一種の「約束事」があるからのことである。ことばは、文学は、現実ではない。たとえば初期の作品の「ランイゲルハンス氏の島」。それはいくらことばを積み重ねても現実の世界にランゲルハンス島を出現はさせない。出現するのは「意識」のなかにおいてのみである。
ところが「地獄」が、そのことば自体、いっしゅの「思想」であるためだろうか、意識のなかにのみ存在するはずなのに、出現してしまった。もちろん、それは意識のなかに、ではあるけれど、意識とともにある現実とぴったり重なり合ってしまった。「Copy of 《地獄》」から「Copy of 」が取れてしまった。
入沢は、そういう状況から「俺」と「作者」を引き離すために、強引に「作者は」という一語を挿入している。「作者」を導入することで、それ以前のことばを「仮構」そのものに引き戻そうとしている。
ここには、とんでもない「矛盾」がある。
「地獄くだり」を「リアル」に再現し、そのことばすべてを「現実」と感じてもらいたいというのが、ふつうの作者の基本的な願いである。自分のことばを信じてもらえることが作者冥利というものである。ところが入沢はそれを「リアル」にしたくないのである。なぜか。「現実」がことばを追い越してしまったからである。ことばがことばでなくなったからである。
「読者に」とってではなく、「作者に」とって。
「誤読」とは「読者」の特権である。「作者」が「誤読」に飲み込まれてしまっては、「誤読」が消滅してしまう。「といふよりもむしろ」が消滅してしまう。「作者」はあくまで「といふよりもむしろ」ということばとともに、どこまでも「読者」をひっぱって行かなければならない存在なのに、ことばに飲み込まれてしまったのである。
これまで守り通した入沢の手法がくずれたという意味では失敗作(あるいは未完成の作品)ということができるかもしれないが、それゆえに、そこに噴出してくる入沢がくっきり見えておもしろいといえば大変おもしろい作品だ。
といふかむしろ……。
位置づけがむずかしい作品だ。
入沢のこの詩集にはよく整理されたいない部分というか、「なま」の部分がある。「キーワード」がある。
前表の確認 といふかむしろ 追認
この1行の、「といふかむしろ」が入沢の「キーワード」である。このことばがなければ、この詩集は成り立たない。入沢はこの作品を書くことができない。
ほんとうに「前表の確認 といふかむしろ 追認」ということであれば、推敲過程で「前表の追認」と書き直せばすむ。しかし、書き直してしまうと入沢の書きたいこと、書こうとしていることと違ってしまう。どうしても「前表の確認 といふかむしろ 追認」と書かなければならない。「といふかむしろ」という意識があることを、ことばとして表わしておかなければ何かを書いたことにはならないのである。
そして、この「といふかむしろ」ということばが存在することによって、「確認」と「追認」が同じものになる。違っているけれど「同じもの」になる。
梯子だ 一段と下の(「上の」といってもそれは同じこと)
そう書かれたときの「同じこと」に重なり合うものがある。梯子にとって「下」と「上」はまったく違う。「確認」と「追認」もまったく違う。ほんとうは違うけれど、入沢にとっては「同じ」なのである。今(ここ)から動くこと、今(ここ)ではない「場」へ動くこと--その「動き」が「同じ」という意識をひっぱりだす。方向が違っても「動き」そのものの「今(ここ)」からの「距離」が「同じ」ならば、すべて「同じ」なのだ。
梯子にとって「一段」下と「二段」下は違っても、一段「下」と一段「上」は「移動する距離」において「同じ」である。「確認」も「追認」も、ことばと対象の「距離」は「同じ」である。(ほかの誰かにとっては違うかもしれないが、入沢にとっては「同じ」である、という意味である。)
この「といふよりむしろ」のなかに「誤読」がある。「誤読」の精神がある。「確認」であることを「追認」と「誤読」することで、より強く納得できるなにごとかがある。「追認」と「誤読」することで、救い出したいものがある、ということでもある。
*
この詩集には、もう一つとんでもないことばがある。
かつて
自ら気負うて「地獄くだり」を僣称したあの見せかけの
旅とは異なつて こたびは地獄そのものを見た 少なく
とも(作者は)その縁辺をかすめた
(谷内注・原文は「見せかけの」と「作者」に傍点がある。)
ふいに登場する「作者」。この詩集ではそれまで「俺」が登場していた。
かつての俺は「妻子ある独身者」だつたが
今ではただのありふれた独身者に過ぎない
その主語をつかって、(俺は)と書くこともできるはずである。しかし、入沢はそうしていない。「俺」と「作者」を唐突に切り離している。
「地獄くだり」をこころみたのは「俺」であって、「作者」ではないのだ。つまり、仮構されたひとりの人間が「地獄くだり」をしはじめた。それは「地獄くだり」そのものが現実のものではなく仮構されたものであるということでもある。
しかし、いったんことばが動きだすと、仮構は仮構のままでは存在しなくなる。仮構のことばにむかって現実がなだれ込み、現実として出現してしまう。これは「作者」が望むことではあるけれど、そう望むのは、それが現実になることはないという一種の「約束事」があるからのことである。ことばは、文学は、現実ではない。たとえば初期の作品の「ランイゲルハンス氏の島」。それはいくらことばを積み重ねても現実の世界にランゲルハンス島を出現はさせない。出現するのは「意識」のなかにおいてのみである。
ところが「地獄」が、そのことば自体、いっしゅの「思想」であるためだろうか、意識のなかにのみ存在するはずなのに、出現してしまった。もちろん、それは意識のなかに、ではあるけれど、意識とともにある現実とぴったり重なり合ってしまった。「Copy of 《地獄》」から「Copy of 」が取れてしまった。
入沢は、そういう状況から「俺」と「作者」を引き離すために、強引に「作者は」という一語を挿入している。「作者」を導入することで、それ以前のことばを「仮構」そのものに引き戻そうとしている。
ここには、とんでもない「矛盾」がある。
「地獄くだり」を「リアル」に再現し、そのことばすべてを「現実」と感じてもらいたいというのが、ふつうの作者の基本的な願いである。自分のことばを信じてもらえることが作者冥利というものである。ところが入沢はそれを「リアル」にしたくないのである。なぜか。「現実」がことばを追い越してしまったからである。ことばがことばでなくなったからである。
「読者に」とってではなく、「作者に」とって。
「誤読」とは「読者」の特権である。「作者」が「誤読」に飲み込まれてしまっては、「誤読」が消滅してしまう。「といふよりもむしろ」が消滅してしまう。「作者」はあくまで「といふよりもむしろ」ということばとともに、どこまでも「読者」をひっぱって行かなければならない存在なのに、ことばに飲み込まれてしまったのである。
これまで守り通した入沢の手法がくずれたという意味では失敗作(あるいは未完成の作品)ということができるかもしれないが、それゆえに、そこに噴出してくる入沢がくっきり見えておもしろいといえば大変おもしろい作品だ。
といふかむしろ……。
位置づけがむずかしい作品だ。