詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫と「誤読」(メモ40)

2007-06-14 23:36:16 | 詩集
 入沢康夫『水辺逆旅歌』(1988年)。
 ラフカディオ・ハーンやジョイスにかわって(?)つくられた旅の詩。代筆詩集というべきものか。いわば偽りのことばなのだが、その偽りのなかには入沢の願いがこめられている。「誤読」ならぬ、「誤書」というべきものか。この「誤書」という視点からとらえなおせば『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』は宮沢賢治を語った「誤書」ともいえるかもしれない。「誤読」と「誤書」はひとつの行為である。「誤読」とは、読者が作者にかわって、そこに書かれていないことばを書き加えることだから。

 「水辺逆旅歌」の最終連の最後の5行。

それでゐて 何がなし嘲るやうな口調で言ふ
「ジジサン サムカロ?」
あはれ おろかや
永遠に気だけは若い(耳は遠い)迂生には かうも聞こえる
「イジンサン サムカロ?」「シジンサン サムカロ?」
            (谷内注・「迂生」の「迂」は原文は正字体)

 「ジジサン」が「イジンサン」に、あるいは「シジンサン」に聞こえるというのは本当だろうか。そうではなく、「異人さん」「詩人さん」と呼んでもらいたい気持ちがあるからそう聞き取ってしまうのだ。「誤聴」には、そう聞き取りたい聞き手の欲望が反映されている。「誤読」と同じである。



 「死者の祭」にはサブタイトルがついている。「--Lafcadio Hearnの十二、三の章句にあるいは和し、あるいは和さずにうたふお道化唄」と。「和す」とは、そっくりそのままではないいくらかの変奏をくわえるということだ。「誤書」あるいは「偽書」とは書かずに「和す」「和さず」という不思議な距離感がここにある。「本歌取り」ということばもあるが、どのような場合にしろ、そこには必ず先行することばがある。入沢はいつも先行することばと向き合いながら、そのことばと現実の入沢との「ずれ」のなかへ突き進み、ことばの可能性を探している。
 「章句」10番目の、最後の3行。

(偽の記憶の中では、
月はいつも、爪で一掻きしたやうな形で
西空にあつた)
            (谷内注「一掻き」の「掻」は原文は正字体)

 「偽の記憶」。間違った記憶ではなく「偽」の。「誤読」のなかには、もしかすると「誤った」ではなく「偽った」も含まれるかもしれない。意図的に間違える。
 「和す」「和さず」という行為にも、自然なのものもあれば意図的なものもあるだろう。
 ことばを引き継ぎ、受け渡す--そのとき「誤読」ではなく、「偽読」という行為がないとはかぎらない。「誤読」がどのような意図にもとづいているか(意図などなかったのかを含め)、検討しなければならないのかもしれない。

 私たちは「誤読」する。あるいは積極的に「偽読」する。「偽読」の方が、人間の欲望を端的にあらわしているかもしれない。「偽書」も同じだろう。
 『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』は、「テキスト」の校異を調べる、「テキスト」をより完全にするという手法をとりながらつくられた「偽書」として読むべき作品かもしれない。入沢の作品全体が「偽書」という体裁をとっているものかもしれない。
 「偽る」という行為のなかにある心情・真情。「誤読」のなかにある心情・真情。それは重なり合うものだ。

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柏木麻里「斥力、遠さにふれる」

2007-06-14 22:22:54 | その他(音楽、小説etc)
 柏木麻里「斥力、遠さにふれる」(「AC2」8、2007年03月31日発行)。
 柏木麻里と小島郁子のインスタレーション「斥力、遠さにふれる」(2006年03月04日-21日、国際芸術センター青森)に関するエッセーを、柏木が書いている。展覧会そのものを私は見ていない。私がこれから書くのは、あくまで柏木のエッセーに関する感想である。
 とてもおもしろい部分があった。

 私からみて、安藤郁子の作品は、肌のような敏感な表面の周りに、今ここにはない時間や思いが呼びよせられて漂っているような、立体からはみだしてゆくものがある。それは受けとる人によって、物語であったり、感情であったり、記憶であったり様々であろうが、何かそうした「空気」がある。その、安藤作品から発したものと、私の詩からも漂いだしてゆくものが、触りあう。

 ここに書かれている「空気」ということばに、私は見ていないインスタレーションを見たような気がした。「空気」ということばで、インスタレーションの現場に立ち会っているような気持ちになった。
 「空気」ということばのまえに、柏木は「物語」「感情」「記憶」ということばをつかっている。そうしたことばをつかいながら、なおそれでは言い表わせないものを感じて、「空気」と言い直している。
 「空気」。
 このことばを柏木は、さらに言い直している。

 安藤作品も私の詩も、共通しているのは、それが「姿」であることだ。姿は「外」を求めてしまう。ものが在る限り、そこには否応なく「外」が生まれる。内と外に揺り動かされ、その間にある皮膜には、感情が漂う。

 「空気」は、柏木のことばにしたがえば、柏木の詩、安藤の作品の、それぞれの「姿」の「内」と「外」のあいだにあることになる。そして、その「あいだ」から漂いだしてくるものでもある。
 漂いだしてきたものは、しかし、その「漂い出し」のなかに、それが生まれてきた「場」、「内」と「外」の拮抗する「場」、分離不能の「場」をもっている。
 そうした「場」があるがゆえに、二人の作品は近づきながらも絶対にひとつにはならない。ひとつになる(融合する)ことを拒否して、新しい「内」と「外」をつくり出す。会場全体、展示場という空間を「姿」に変える。展示場という「空間」が、そのときインスタレーションという「空気」、創作の「場」になる。
 ひとつにならない、融合してしまわない--そのことを指して、柏木は「斥力、遠さ」と呼んでいるのだろう。
 そして、そうした「場」に私たちが行き、その「空気」を呼吸するとき、「斥力、遠さ」が私たちの肉体のなかで混じり合う。私たち自身が「場」になり、「空気」になる。その瞬間に、いままで存在しなかった詩(作品)、つまり柏木のことば単独ではありえなかった詩、柏木の立体だけでは存在しなかった何かが誕生する。詩が詩になり、立体が立体になる。
 インスタレーションは二人の作家が出会うことで成立するのではなく、その二人がつくりあげた「場」へ観客が行き、その「空気」を呼吸することで、はじめて成立する芸術なのだろう。
 会場へ出掛け、その「空気」を体験したかった、と思った。体験できなかったことを残念に思った。

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