入沢康夫『水辺逆旅歌』(1988年)。
ラフカディオ・ハーンやジョイスにかわって(?)つくられた旅の詩。代筆詩集というべきものか。いわば偽りのことばなのだが、その偽りのなかには入沢の願いがこめられている。「誤読」ならぬ、「誤書」というべきものか。この「誤書」という視点からとらえなおせば『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』は宮沢賢治を語った「誤書」ともいえるかもしれない。「誤読」と「誤書」はひとつの行為である。「誤読」とは、読者が作者にかわって、そこに書かれていないことばを書き加えることだから。
「水辺逆旅歌」の最終連の最後の5行。
「ジジサン」が「イジンサン」に、あるいは「シジンサン」に聞こえるというのは本当だろうか。そうではなく、「異人さん」「詩人さん」と呼んでもらいたい気持ちがあるからそう聞き取ってしまうのだ。「誤聴」には、そう聞き取りたい聞き手の欲望が反映されている。「誤読」と同じである。
*
「死者の祭」にはサブタイトルがついている。「--Lafcadio Hearnの十二、三の章句にあるいは和し、あるいは和さずにうたふお道化唄」と。「和す」とは、そっくりそのままではないいくらかの変奏をくわえるということだ。「誤書」あるいは「偽書」とは書かずに「和す」「和さず」という不思議な距離感がここにある。「本歌取り」ということばもあるが、どのような場合にしろ、そこには必ず先行することばがある。入沢はいつも先行することばと向き合いながら、そのことばと現実の入沢との「ずれ」のなかへ突き進み、ことばの可能性を探している。
「章句」10番目の、最後の3行。
「偽の記憶」。間違った記憶ではなく「偽」の。「誤読」のなかには、もしかすると「誤った」ではなく「偽った」も含まれるかもしれない。意図的に間違える。
「和す」「和さず」という行為にも、自然なのものもあれば意図的なものもあるだろう。
ことばを引き継ぎ、受け渡す--そのとき「誤読」ではなく、「偽読」という行為がないとはかぎらない。「誤読」がどのような意図にもとづいているか(意図などなかったのかを含め)、検討しなければならないのかもしれない。
私たちは「誤読」する。あるいは積極的に「偽読」する。「偽読」の方が、人間の欲望を端的にあらわしているかもしれない。「偽書」も同じだろう。
『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』は、「テキスト」の校異を調べる、「テキスト」をより完全にするという手法をとりながらつくられた「偽書」として読むべき作品かもしれない。入沢の作品全体が「偽書」という体裁をとっているものかもしれない。
「偽る」という行為のなかにある心情・真情。「誤読」のなかにある心情・真情。それは重なり合うものだ。
ラフカディオ・ハーンやジョイスにかわって(?)つくられた旅の詩。代筆詩集というべきものか。いわば偽りのことばなのだが、その偽りのなかには入沢の願いがこめられている。「誤読」ならぬ、「誤書」というべきものか。この「誤書」という視点からとらえなおせば『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』は宮沢賢治を語った「誤書」ともいえるかもしれない。「誤読」と「誤書」はひとつの行為である。「誤読」とは、読者が作者にかわって、そこに書かれていないことばを書き加えることだから。
「水辺逆旅歌」の最終連の最後の5行。
それでゐて 何がなし嘲るやうな口調で言ふ
「ジジサン サムカロ?」
あはれ おろかや
永遠に気だけは若い(耳は遠い)迂生には かうも聞こえる
「イジンサン サムカロ?」「シジンサン サムカロ?」
(谷内注・「迂生」の「迂」は原文は正字体)
「ジジサン」が「イジンサン」に、あるいは「シジンサン」に聞こえるというのは本当だろうか。そうではなく、「異人さん」「詩人さん」と呼んでもらいたい気持ちがあるからそう聞き取ってしまうのだ。「誤聴」には、そう聞き取りたい聞き手の欲望が反映されている。「誤読」と同じである。
*
「死者の祭」にはサブタイトルがついている。「--Lafcadio Hearnの十二、三の章句にあるいは和し、あるいは和さずにうたふお道化唄」と。「和す」とは、そっくりそのままではないいくらかの変奏をくわえるということだ。「誤書」あるいは「偽書」とは書かずに「和す」「和さず」という不思議な距離感がここにある。「本歌取り」ということばもあるが、どのような場合にしろ、そこには必ず先行することばがある。入沢はいつも先行することばと向き合いながら、そのことばと現実の入沢との「ずれ」のなかへ突き進み、ことばの可能性を探している。
「章句」10番目の、最後の3行。
(偽の記憶の中では、
月はいつも、爪で一掻きしたやうな形で
西空にあつた)
(谷内注「一掻き」の「掻」は原文は正字体)
「偽の記憶」。間違った記憶ではなく「偽」の。「誤読」のなかには、もしかすると「誤った」ではなく「偽った」も含まれるかもしれない。意図的に間違える。
「和す」「和さず」という行為にも、自然なのものもあれば意図的なものもあるだろう。
ことばを引き継ぎ、受け渡す--そのとき「誤読」ではなく、「偽読」という行為がないとはかぎらない。「誤読」がどのような意図にもとづいているか(意図などなかったのかを含め)、検討しなければならないのかもしれない。
私たちは「誤読」する。あるいは積極的に「偽読」する。「偽読」の方が、人間の欲望を端的にあらわしているかもしれない。「偽書」も同じだろう。
『かつて座亜謙什と名乗つた人への九連の散文詩』は、「テキスト」の校異を調べる、「テキスト」をより完全にするという手法をとりながらつくられた「偽書」として読むべき作品かもしれない。入沢の作品全体が「偽書」という体裁をとっているものかもしれない。
「偽る」という行為のなかにある心情・真情。「誤読」のなかにある心情・真情。それは重なり合うものだ。