詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

神山睦美『夏目漱石は思想家である』

2007-06-28 23:04:29 | その他(音楽、小説etc)
 神山睦美『夏目漱石は思想家である』(思潮社、2007年05月01日発行)
 本のタイトルを読んで疑問に思ったことがある。漱石は思想家でなければならないのだろうか。小説家(作家)であるだけでは不十分なのだろうか。私は漱石は小説か(作家)であるだけで十分に感じる。特別に「思想家」でなければならない理由を感じない。
 神山の構想は、漱石をドストエフスキー、カフカ、フロイト、マルクスなどと向き合わせ、彼らに引けをとらない「思想家」であると位置づけることにある。そのために、漱石の立っているフィールドを世界へと拡大する。その拡大されたフィールドを見つめていると、神山が「思想」と考えているフィールドはよくわかるのだが、それはあくまで神山のフィールドであって漱石のフィールドとは私には感じられなかった。神山は漱石について語っているというより、神山自身について語っている。そんな感じがした。「神山睦美は思想家である」と語っている。それがこの作品である。
 この作品の大きな特徴は、たとえば次のような文章である。

 『変身』とほぼ同じ時期に書かれたこの『流刑地にて』が、『道草』とまったく別種の作品であることはいうをまたない。だが、共通する要素のまったくみとめられないこの作品に、「帽子を被らない男」がもたらす理由のない不安を読み取ることは、不可能ではないのだ。

 「……を読み取ることは、不可能ではない」。これは、神山が、そう読み取りたいと言っているだけのことである。
 あるいは次の文章。

 往来に立って、健三を凝視する「帽子を被らない男」のもたらす脅威は、咽頭の権化ともいうぶきフョードル・カラマーゾフや復讐の虜(とりこ)であるハムレットの亡霊王があたえる畏怖には決してかなわない。にもかかわらず、これをくすんだ現実のうちに描き出すことによって、漱石は、一九一五年における日本社会を、荒涼とした砂地の斜面が四方にひろがる流刑地のようにみなしていたということを、否定することはできないのである。

 「……を否定することはできない」。というよりも、神山はそれを否定したくない。そう把握したいだけなのである。
 漱石をどう読むか、というより、漱石をどう読みたいか。そう読むことによって、漱石の「思想」を明らかにするのではなく、神山自身の「思想」を明らかにしたいのだと思う。
 そうしたことを象徴するのは次のような部分である。

 漱石が、この下り(谷内注・「カラマーゾフの兄弟」の「大審問官」の部分。「下り」は「件」だろう)にさしかかったとき何を思っていたかを考えてみるならば、どうであろうか。『カラマーゾフの兄弟』についても「大審問官」についても、それに目を留め、読み通した証拠はまったくないにもかかわらず、そのことを想定してみるのは、なにごとかなのである。

 漱石が、神山の指摘する作品を読んでいたという「証拠はない」。しかし、神山は、漱石がそれを読んでいたと仮定し、そのとき漱石は何を思ったかを考えてみる。そして、そこから浮かび上がるあものについて「なにごとかなのである」と結論を下す。
 これでは、とうてい漱石の「思想」を語ったことにはならないだろう。あくまで神山の「思想」を、漱石を利用して語っているにすぎないだろう。漱石が何を思ったかを「神山が」考えてみて、そこから出てくる結論は、「神山が」考えたことであって、けっして漱石が考えたことではない。神山は、いたるところで漱石と神山自身を混同している。漱石と神山を区別せずに、一方的に「漱石が」どう考えたかを想像している。その想像は「漱石が」想像したことではなく、「神山が」想像したことにすぎないことを忘れている。
 こうした混同は、神山が漱石に心酔していることを明らかにするかもしれないが、その混同を、混同のままにしておいて、それが「漱石の思想」であると言われても、ちょっと困る。
 漱石の思想について語るなら「証拠」が必要である。漱石の文章のなかにカラマーゾフの文章につかわれていることばがある、とか、漱石の日記にカラマーゾフについて言及した部分がある、そこにはこれこれのことが書いてあるという「証拠」が必要である。
 「思想」はことばである。「思想」について語るなら、ことばの「証拠」が必要である。
 神山のこの本を読んでわかることは、神山は漱石を読んだ。また、ドストエフスキーを読んだ。カフカを読んだ。マルクスを読んだ。プルーストを読んだ。……というような、神山の「読書遍歴」だけである。神山が、神山自身の「読書遍歴」のなかに、漱石をどう位置づけているかということだけである。漱石をそういうふうに位置づけようとする神山の「思想」がわかるのであり、漱石自身の「思想」は神山の本からは、私は取り出すことができない。



 神山は「表現の水位」ということばをつかっている。たとえば、

漱石は、明治四十年代における表現の水位を最上のかたちでたどりながら、存在の不条理と、いわれのない罪責感に根拠を与える試みを進めていたのだ。

 漱石の「表現の水位」。それをていねいに分析することこそ、漱石の「思想」を明らかにする方法なのではないのだろうか。三木清は、なんという本のなかであったか思いだせないけれど、たしか「国語とはその国民の到達した思想の頂点である」というようなことを言っている。漱石のことばそのもののなかにこそ「思想」がある。それは、他の作家や思想家と、こんなふうに似ている、というのではなく、ここが違うという形でこそ明らかになるのものだと私は思う。そういう分析を読みたかった。
 どんな「表現の水位」の文体で小説を書いたか--その表現そのもののなかにこそ、漱石の「思想」があるのだと思う。

コメント
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