監督 マルジャン・サトラビ 声 キアラ・マストロヤンニ、カトリーヌ・ドヌーブ
黒く、太い線。その強さが美しいアニメである。そして、そこには「手」の美しさ、肉体の美しさがあふれている。
好きなシーンが二つある。ひとつは少女のおじさんが「白鳥」をくれるシーンである。「白鳥」は2個ある。1個目の「白鳥」は刑務所でつくったとしか説明がなかったので素材が何かはわからない。2個目はやはり刑務所でつくったものだが「パンでつくった」とおじさんが説明している。
もうひとつは、おばあさんのブラジャーからジャスミンの花びらが散るシーン。「おばあさんは、いいにおいがする。どうして?」「ジャスミンを朝摘んで、ブラジャーのなかに入れているからだよ」。
このふたつに共通するのは「手」である。自分の「手」。人間には「手」がある。あたりまえである。そしてその「手」はいろんな魔法を引き起こすことができる。パンから「白鳥」を作り出すことができる。ジャスミンから素敵なにおいを引き出すことができる。ただし、そこには人間の「智恵」が加わらなければならない。肉体(手)と智恵。それが組み合わさったとき、そこに「奇跡」が起きる。
その「奇跡」は世界を変えるような奇跡ではない。ただただ人間のこころの奥深くにのこりつづる奇跡である。あるひとりの人間をこころに永遠に刻みつけるという奇跡である。そのひとが大好きになる、そのひとを忘れられなくなるという奇跡である。
この映画の監督、マルジャン・サトラビは、そのおじさんと、おばさんの「奇跡」をそっくり引き継いでいる。彼女自身の手で書かれた「線」、その線が作り出すアニメの主人公。手で描くことによってはじめて可能な「乱れ」。しかし、乱れながらも、きちんと形をつくっていく強さ。そして、乱れが引き起こす美しさ。
この映画は、CGでは不可能な美しさに満ちている。人間のぬくもりに満ちている。「手」のぬくもりに満ちている。
激動のイランを脱出し、ひとりで生きる少女(女性)という題材もそうだが、それを便利な道具(たとえばコンピュータ)をつかって表現するのではなく、あくまで「手」で再現する。あらゆる対象を「そっくり」に描くのではなく、何を強調し、何を省略するか--という工夫のなかに、彼女自身の「視線」をもぐりこませ、それを「手」で再現する。こういう作業は、現代では、力業である。それをやりとおす。そのやりとおすための「線の太さ」なのである。線は「太い」からこそ、そこにさまざまなニュアンスを含むことができる。
モノクロの映像も、そうした「手」の仕事の延長である。おじさんのつくった「白鳥」もおばあさんの「香水(?)」も、それは本物ではない。そして「本物」ではないからこそ、本物以上に、ひとを「本物」へとひきずりこむ。存在が「本物」になるのは、そこに受け手の想像力が加わったときである。
映画であるなら、その映画が「本物」になるのは、監督がそれをつくったときではなく、観客がその映画に対して、自分なりの想像力を加え、その作品を動かしたときである。この映画は、観客の想像力を、モノクロの映像で引っ張りだす。そして、そのとき、実はマルジャン・サトラビは単に観客を誘っているのではない。観客と勝負しているのである。色が見えるか、と挑戦しているのである。
この挑戦に、私は、実はこたえることができない。イランの激動。そこで流された血。その色を私は漠然と想像することはできる。だが、それが見えるとはこたえられない。私は、その実際を知らない。その苦悩を知らない。この映画のなかにも、そうした苦悩は描かれているが、それを私自身の苦悩として感じるとはいえない。私は、この挑戦に対しては、負け続けることしかできない。
--こうしたことは、書かなくてもいいことかもしれない。しかし、書かずにはいられない。アニメの絵の線の強さ、美しさが、そうさせるのである。私はこの映画から「手」(肉体)と智恵で人間は何でもつくれる、ということはしっかり学んだとだけしか書けない。
黒く、太い線。その強さが美しいアニメである。そして、そこには「手」の美しさ、肉体の美しさがあふれている。
好きなシーンが二つある。ひとつは少女のおじさんが「白鳥」をくれるシーンである。「白鳥」は2個ある。1個目の「白鳥」は刑務所でつくったとしか説明がなかったので素材が何かはわからない。2個目はやはり刑務所でつくったものだが「パンでつくった」とおじさんが説明している。
もうひとつは、おばあさんのブラジャーからジャスミンの花びらが散るシーン。「おばあさんは、いいにおいがする。どうして?」「ジャスミンを朝摘んで、ブラジャーのなかに入れているからだよ」。
このふたつに共通するのは「手」である。自分の「手」。人間には「手」がある。あたりまえである。そしてその「手」はいろんな魔法を引き起こすことができる。パンから「白鳥」を作り出すことができる。ジャスミンから素敵なにおいを引き出すことができる。ただし、そこには人間の「智恵」が加わらなければならない。肉体(手)と智恵。それが組み合わさったとき、そこに「奇跡」が起きる。
その「奇跡」は世界を変えるような奇跡ではない。ただただ人間のこころの奥深くにのこりつづる奇跡である。あるひとりの人間をこころに永遠に刻みつけるという奇跡である。そのひとが大好きになる、そのひとを忘れられなくなるという奇跡である。
この映画の監督、マルジャン・サトラビは、そのおじさんと、おばさんの「奇跡」をそっくり引き継いでいる。彼女自身の手で書かれた「線」、その線が作り出すアニメの主人公。手で描くことによってはじめて可能な「乱れ」。しかし、乱れながらも、きちんと形をつくっていく強さ。そして、乱れが引き起こす美しさ。
この映画は、CGでは不可能な美しさに満ちている。人間のぬくもりに満ちている。「手」のぬくもりに満ちている。
激動のイランを脱出し、ひとりで生きる少女(女性)という題材もそうだが、それを便利な道具(たとえばコンピュータ)をつかって表現するのではなく、あくまで「手」で再現する。あらゆる対象を「そっくり」に描くのではなく、何を強調し、何を省略するか--という工夫のなかに、彼女自身の「視線」をもぐりこませ、それを「手」で再現する。こういう作業は、現代では、力業である。それをやりとおす。そのやりとおすための「線の太さ」なのである。線は「太い」からこそ、そこにさまざまなニュアンスを含むことができる。
モノクロの映像も、そうした「手」の仕事の延長である。おじさんのつくった「白鳥」もおばあさんの「香水(?)」も、それは本物ではない。そして「本物」ではないからこそ、本物以上に、ひとを「本物」へとひきずりこむ。存在が「本物」になるのは、そこに受け手の想像力が加わったときである。
映画であるなら、その映画が「本物」になるのは、監督がそれをつくったときではなく、観客がその映画に対して、自分なりの想像力を加え、その作品を動かしたときである。この映画は、観客の想像力を、モノクロの映像で引っ張りだす。そして、そのとき、実はマルジャン・サトラビは単に観客を誘っているのではない。観客と勝負しているのである。色が見えるか、と挑戦しているのである。
この挑戦に、私は、実はこたえることができない。イランの激動。そこで流された血。その色を私は漠然と想像することはできる。だが、それが見えるとはこたえられない。私は、その実際を知らない。その苦悩を知らない。この映画のなかにも、そうした苦悩は描かれているが、それを私自身の苦悩として感じるとはいえない。私は、この挑戦に対しては、負け続けることしかできない。
--こうしたことは、書かなくてもいいことかもしれない。しかし、書かずにはいられない。アニメの絵の線の強さ、美しさが、そうさせるのである。私はこの映画から「手」(肉体)と智恵で人間は何でもつくれる、ということはしっかり学んだとだけしか書けない。