詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マルジャン・サトラビ監督「ペルセポリス」

2008-01-25 20:21:46 | 映画
監督 マルジャン・サトラビ 声 キアラ・マストロヤンニ、カトリーヌ・ドヌーブ

 黒く、太い線。その強さが美しいアニメである。そして、そこには「手」の美しさ、肉体の美しさがあふれている。
 好きなシーンが二つある。ひとつは少女のおじさんが「白鳥」をくれるシーンである。「白鳥」は2個ある。1個目の「白鳥」は刑務所でつくったとしか説明がなかったので素材が何かはわからない。2個目はやはり刑務所でつくったものだが「パンでつくった」とおじさんが説明している。
 もうひとつは、おばあさんのブラジャーからジャスミンの花びらが散るシーン。「おばあさんは、いいにおいがする。どうして?」「ジャスミンを朝摘んで、ブラジャーのなかに入れているからだよ」。
 このふたつに共通するのは「手」である。自分の「手」。人間には「手」がある。あたりまえである。そしてその「手」はいろんな魔法を引き起こすことができる。パンから「白鳥」を作り出すことができる。ジャスミンから素敵なにおいを引き出すことができる。ただし、そこには人間の「智恵」が加わらなければならない。肉体(手)と智恵。それが組み合わさったとき、そこに「奇跡」が起きる。
 その「奇跡」は世界を変えるような奇跡ではない。ただただ人間のこころの奥深くにのこりつづる奇跡である。あるひとりの人間をこころに永遠に刻みつけるという奇跡である。そのひとが大好きになる、そのひとを忘れられなくなるという奇跡である。
 この映画の監督、マルジャン・サトラビは、そのおじさんと、おばさんの「奇跡」をそっくり引き継いでいる。彼女自身の手で書かれた「線」、その線が作り出すアニメの主人公。手で描くことによってはじめて可能な「乱れ」。しかし、乱れながらも、きちんと形をつくっていく強さ。そして、乱れが引き起こす美しさ。
 この映画は、CGでは不可能な美しさに満ちている。人間のぬくもりに満ちている。「手」のぬくもりに満ちている。
 激動のイランを脱出し、ひとりで生きる少女(女性)という題材もそうだが、それを便利な道具(たとえばコンピュータ)をつかって表現するのではなく、あくまで「手」で再現する。あらゆる対象を「そっくり」に描くのではなく、何を強調し、何を省略するか--という工夫のなかに、彼女自身の「視線」をもぐりこませ、それを「手」で再現する。こういう作業は、現代では、力業である。それをやりとおす。そのやりとおすための「線の太さ」なのである。線は「太い」からこそ、そこにさまざまなニュアンスを含むことができる。
 モノクロの映像も、そうした「手」の仕事の延長である。おじさんのつくった「白鳥」もおばあさんの「香水(?)」も、それは本物ではない。そして「本物」ではないからこそ、本物以上に、ひとを「本物」へとひきずりこむ。存在が「本物」になるのは、そこに受け手の想像力が加わったときである。
 映画であるなら、その映画が「本物」になるのは、監督がそれをつくったときではなく、観客がその映画に対して、自分なりの想像力を加え、その作品を動かしたときである。この映画は、観客の想像力を、モノクロの映像で引っ張りだす。そして、そのとき、実はマルジャン・サトラビは単に観客を誘っているのではない。観客と勝負しているのである。色が見えるか、と挑戦しているのである。
 この挑戦に、私は、実はこたえることができない。イランの激動。そこで流された血。その色を私は漠然と想像することはできる。だが、それが見えるとはこたえられない。私は、その実際を知らない。その苦悩を知らない。この映画のなかにも、そうした苦悩は描かれているが、それを私自身の苦悩として感じるとはいえない。私は、この挑戦に対しては、負け続けることしかできない。
 --こうしたことは、書かなくてもいいことかもしれない。しかし、書かずにはいられない。アニメの絵の線の強さ、美しさが、そうさせるのである。私はこの映画から「手」(肉体)と智恵で人間は何でもつくれる、ということはしっかり学んだとだけしか書けない。
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松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」(追加)

2008-01-25 19:28:04 | 詩(雑誌・同人誌)
 松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」(追加)(「something 」6、2007年12月23日発行)

 松尾の詩の形は少し特徴がある。1行の形が最初は短く、それから徐々に長くなる。そしてあるところまでゆくと徐々に短くなる。さらに短くなるところまで短くなると再びまた長くなる。逆三角形をいくつかつらねた形になる。
 長くなるときが、私にはおもしろく感じられる。逸脱が、逸脱することで加速する。そして思わぬことばを引き出す。
 たとえば、

気づかぬうちに丘からころがる臓の内部の変転に

 「臓の内部」は「内臓」ということばを思い起こさせる。そのさらに「内部」。そして、「ころがる 臓の内部の」、さらなる「変転」。「変転」のなかにある「転がる」という文字。
 つづく行。

ひそやかな唖者の痛みをきりきりと重ねていき

 その末尾の「重ねていき」。単に「重ね」ではなく、それを念押しするように「重ねていき」の「いき」。こういう加速が、次の行を誘い出す。

逸脱の野はすでに点火しない涸れた花火に満ちていて

 「点火しない涸れた花火」の「涸れた」は何を指すのか。どういうことを意味するのか。何も「意味」しない。「点火しない」「花火」というすでに「花火」ではないものを「花火」として復活させるための「わざと」挿入された「無意味」なのである。「無意味」が唐突に挿入されることによって、「意味」が攪拌され、ことばが「意味」から解放されて「ことば」そのものになる。
 この運動をスムーズにするため、あるいは隠蔽するための「方法」が、逆三角形の形なのである。
 水のように、ただ「重力」にひかれて動いていくことばを、視覚的に再現することで、そのなかにあることばの運動、ことばの「無意味」に一定の位置を与える。「涸れた」ということば書かなければ、この逆三角形の詩の形は崩れてしまう。ことばの解放と同時に、詩の形にとっても必要なことばなのである。



 いま、私が書いたことは、たぶん詩の鑑賞にはあまり意味がないかもしれない。だから、どうしたの? といわれると、私には次のことばがない。ただ、私はこんなふうにして詩を読んでいる。ふいにあらわれる「無意味」--そこに、なまなましく詩人の個性を感じるのである。
 あ、松尾は「涸れた」ということば、特にその「涸」という文字が書きたくてしかたがなかったんだな、と感じてうれしくなるのである。
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松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」

2008-01-25 11:50:47 | 詩(雑誌・同人誌)
something 6
鈴木ユリイカ
書肆侃侃房、2007年12月23日発行

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 松尾真由美「秘めやかな失火、その過剰にきらめく音を」(「something 」6、2007年12月23日発行)
 松尾のリズム過剰に逸脱しながらも、というか、逸脱することで「散文」であることを拒絶するリズムである。

それから
もう遠い日の影
飲みこめない氷の欠片を
そっといだいてかがんいでいる
慣らされた地はゆるやかに下降して
気づかぬうちに丘からころがる臓の内部の変転に
ひそやかな唖者の痛みをきりきりと重ねていき
逸脱の野はすでに点火しない涸れた花火に満ちていて
行き場のない荒野のようにさかしらな悪徳をかくまいつつ
こうしてひろがる不穏な地理を
背から胸へと受けとめる

 何が書いてある? 主語は? 動詞は?
 私にはまったくわからない。
 これは「改行」の形式で書かれているから読めるのであって、「散文」の形式であればまったく読むことができない。3行目の「いだいてかがんでいる」という二つの動作の主語がまず不明である。次に「慣らされた地」という主語がでてくるが、これは「格助詞」の「は」によって主語と推測されるだけでのことであって、ほんとうに主語であるかどうかわからない。「いだいてかがんでいる」の主語と共通の主語なのかどうかもわからない。わからないまま、すぐにまた「逸脱の野」という主語も出てくる。これも「格助詞・は」によって主語と推測できるだけである。「慣らされた地」と「逸脱の野」は共通のもの中のか、対立するものなのか、それもよくわからない。「慣らされた地」と「逸脱の野」が「対句」になっているのかどうかもわからない。
 そして、この作品は、そういうものがわからないことによって「詩」になっている。「詩」としてとどまっているのである。
 ある一点に水をこぼす。するとその水は低い方へ流れていくが、その低い方が1か所とはかぎらない。そうすると水は四方八方へ広がりながら流れていくことになる。その流れは水の意思によるものか。そうではない。単なる偶然である。重力の働く場に身をゆだねているだけである。水はその方向を選んでいるのではなく、意思を欠いたまま流れていく。
 それと同じように松尾のことばは、一種の重力にひかれるように動いていく。そこには意思というか、目的がない。目的があるとすれば、そうやって「重力」というものが世の中には存在するということを知らせる、ということだけである。
 目的がなくて(あらわすべきものを最初から内包していなくて)、それでも「詩」なのか。目的がないからこそ、詩なのである。目的を拒絶し、その一瞬一瞬、純粋にことばであろうとする。そのことが詩なのである。
 あふれつづける水を見る。流れても流れても尽きることのない水を見る。そのとき、あ、水は美しいなあ、と思う。(私は、思う。)その瞬間が詩なのである。松尾のことばは、水のように流れる。どこへ行くのか、さっぱりわからない。いつ終わるのかさっぱりわからない。だから詩なのである。
 わからないまま、流れ、うねる。長く長くそのことばがのびるとき、水の腹がつややかに太陽の光を帯びてゆったりとなまめくのに似て、ことばの奥から不思議な艶が出てくる。それが輝いたり、輝くことで逆に目つぶしのように暗さを感じさせたりする。ようするに、きらきらする。

 こうした作品は、私が引用した一部や、あるいは一編では、ほんとうの魅力を発揮しない。したがって、とても批評がしにくい。感想が書きにくい。水が知らず知らずに海にたどり着くように、松尾のことばは方々にさまよいながら、そのときどきで輝きながら、そのとぎどきでさまざまなものを映し、映すことで他者を内部にとりこみながら、最終的にひとつの場をつくりあげる。海、ではなく、「詩集」である。そのとき、あ、松尾のことばはここへ向かっていたのだ、ということがわかる。
 ただし、それは、あ、ここへ向かっていたのだということがわかるだけであって、何のために? それで? と、問いはじめると、何も答えはでない。ひとが海をみても何も答えがでないのとおなじである。
 ただ、そこに、そんなふうにことばを動かす力がある、ということを受け入れるか受け入れないかだけである。意味を拒絶することばを受け入れるか受け入れないかだけである。
 私は、海を見ると泳ぎたくなる。松尾のことばのなかでも、ただ適当に泳ぎたくなる。泳ぎに目的はない。どこかへ行くために泳ぐのではない。ただ泳ぐ楽しさを味わうために泳ぐ。泳ぐとき、私は「意味」を拒絶している。「意味」を拒絶するとき、海はやさしく穏やかになる。松尾の詩もおなじである。「意味」を求めないとき、ことばがきらきらと輝く。「散文」では、ない、のである。

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