武田肇『海軟風』(銅林社、2008年02月01日発行)
句集である。私は俳句は門外漢である。何も知らない。だから私がこれから書くのは批評ではなく、ことばへの感想である。
この句集はとても疲れる。縦長の本で、紙が厚い。広げるのに苦労する。そういう物理的なことに拮抗するようにして、ことばがとても多い。俳句だから17文字のはずなのだが、17文字の軽みがない。 1ページに2句ずつという配置(?)も、とても重たい。重たい俳句を目指しているのかもしれないが……。
この句に惹かれた。「春の崖」の「春」が軽いからだと思う。「冬の崖」だったらたぶん重たくてやりきれない。なんだか投身自殺したあとも、そこに崖のまま突っ立っていろよ、といっているような感じがする。「春」だから軽い。明るい。「切り立つて」もきらきら輝いている岩の感じが出ている。
これに音楽が加わるととてもいいのになあ、と思う。(私は欲張りである。)「切り立つてゐよ」という中7文字には音楽を感じるが、「春の崖」がそれを壊している感じがする。「崖の春」ではまずいのかな? 音楽は、しかし、個人差があって、私が心地よいと感じるものと武田が心地よいと感じるものは違っているだろうから、まあ、これはほんとうに単なる思いつきの感想にすぎないのだろうけれど。
この句もおもしろいのだが、「遅れる」で、私はつまずいた。「空港へむげんに」まではとても響きがよい。特に「むげんに」がのびやかでいいなあ、と思う。漢字ではなく、ひらがなで表記したところがさらに伸びやかさをおしひろげる。ただし、「むげん」は鼻濁音で読んで、という限定つき。鼻濁音ではない「げ」だと、とたんに厳しくなる。ぎすぎすしてくる。
武田は鼻濁音を正確に発音するだろうか。
私は九州に住んでもう長くなるが、今でも、が行の音が嫌いで、ぞっとする。学生時代「***実現」とデモしている仲間に会ったが、「実現」は私には「実験」にしか聞こえなかった。「順吾」という名前は「順子」にしか聞こえなかった。坂口安吾は「さかくち・あんこ」である。大好きな「林檎」も「りんこ」。これは、ほんとうにぞっとする。傑作は「市外電話」。私が発音すると「しないでんわ」と聞こえるらしく、話が通じなかったことがある。
ふと、そなんことを思い出しながら読んだのだが「むげん」は鼻濁音であってほしい。
これもおもしろいが、やはり音楽が気になる。目で読んだときはおもしろいのに、意識の中で声帯が動きはじめると何かがひっかかる。
私は濁音というのは清音より豊かで美しいと感じる人間だが、武田の濁音にひっかかる。「春泥」はきれいな音だが「笑窪」と組み合わさると、その美しさが消えてしまう。どうしてだろうか。「しゅんでい」というのびやかなリズムを「えくぼ」というリズムが殺してしまう。
「しゅんでい」の「しゅ」はすばやく動いて、1音なのに半分の音に聞こえる。一方「ん」は母音がないので音は半分という感じ。「しゅ」と「ん」で2音になり、さらに「でい」は実際には「でえ」と「で」のなかの「え」を引きずる感じでゆったりのびて2音。「しゅんでい」のなかだけで、音楽が楽しめる。
その音楽と「えくぼ」が私の感覚では、完全に不一致。不協和音ならぬ不協リズムである。「えくぼ」の「く」は私の耳の印象では3音ではなく2音である。アルファベットで表記すると「EKBO」、「く」は「う」を含まない。(「草」の「く」も最近の感じでは子音Kだけにしか私には聞こえないし、自分で発音するときもUはほとんど欠落している。)
この句もおもしろい。でも、これも目で読んだとき。声に出すと舌になじまない。
たぶん私の感じる音楽と武田の感じる音楽はまったく別のものなのだろう。音楽が違いすぎて、私は、武田の句はとても疲れる。
句集である。私は俳句は門外漢である。何も知らない。だから私がこれから書くのは批評ではなく、ことばへの感想である。
この句集はとても疲れる。縦長の本で、紙が厚い。広げるのに苦労する。そういう物理的なことに拮抗するようにして、ことばがとても多い。俳句だから17文字のはずなのだが、17文字の軽みがない。 1ページに2句ずつという配置(?)も、とても重たい。重たい俳句を目指しているのかもしれないが……。
二分後も切り立つてゐよ春の崖
この句に惹かれた。「春の崖」の「春」が軽いからだと思う。「冬の崖」だったらたぶん重たくてやりきれない。なんだか投身自殺したあとも、そこに崖のまま突っ立っていろよ、といっているような感じがする。「春」だから軽い。明るい。「切り立つて」もきらきら輝いている岩の感じが出ている。
これに音楽が加わるととてもいいのになあ、と思う。(私は欲張りである。)「切り立つてゐよ」という中7文字には音楽を感じるが、「春の崖」がそれを壊している感じがする。「崖の春」ではまずいのかな? 音楽は、しかし、個人差があって、私が心地よいと感じるものと武田が心地よいと感じるものは違っているだろうから、まあ、これはほんとうに単なる思いつきの感想にすぎないのだろうけれど。
空港へむげんに遅れる春の客
この句もおもしろいのだが、「遅れる」で、私はつまずいた。「空港へむげんに」まではとても響きがよい。特に「むげんに」がのびやかでいいなあ、と思う。漢字ではなく、ひらがなで表記したところがさらに伸びやかさをおしひろげる。ただし、「むげん」は鼻濁音で読んで、という限定つき。鼻濁音ではない「げ」だと、とたんに厳しくなる。ぎすぎすしてくる。
武田は鼻濁音を正確に発音するだろうか。
私は九州に住んでもう長くなるが、今でも、が行の音が嫌いで、ぞっとする。学生時代「***実現」とデモしている仲間に会ったが、「実現」は私には「実験」にしか聞こえなかった。「順吾」という名前は「順子」にしか聞こえなかった。坂口安吾は「さかくち・あんこ」である。大好きな「林檎」も「りんこ」。これは、ほんとうにぞっとする。傑作は「市外電話」。私が発音すると「しないでんわ」と聞こえるらしく、話が通じなかったことがある。
ふと、そなんことを思い出しながら読んだのだが「むげん」は鼻濁音であってほしい。
雲雀野や家具一斉にそとへ出る
春泥を押し上げてゐる笑窪かな
これもおもしろいが、やはり音楽が気になる。目で読んだときはおもしろいのに、意識の中で声帯が動きはじめると何かがひっかかる。
私は濁音というのは清音より豊かで美しいと感じる人間だが、武田の濁音にひっかかる。「春泥」はきれいな音だが「笑窪」と組み合わさると、その美しさが消えてしまう。どうしてだろうか。「しゅんでい」というのびやかなリズムを「えくぼ」というリズムが殺してしまう。
「しゅんでい」の「しゅ」はすばやく動いて、1音なのに半分の音に聞こえる。一方「ん」は母音がないので音は半分という感じ。「しゅ」と「ん」で2音になり、さらに「でい」は実際には「でえ」と「で」のなかの「え」を引きずる感じでゆったりのびて2音。「しゅんでい」のなかだけで、音楽が楽しめる。
その音楽と「えくぼ」が私の感覚では、完全に不一致。不協和音ならぬ不協リズムである。「えくぼ」の「く」は私の耳の印象では3音ではなく2音である。アルファベットで表記すると「EKBO」、「く」は「う」を含まない。(「草」の「く」も最近の感じでは子音Kだけにしか私には聞こえないし、自分で発音するときもUはほとんど欠落している。)
鞦韃よりうへにあり春日と死と
この句もおもしろい。でも、これも目で読んだとき。声に出すと舌になじまない。
たぶん私の感じる音楽と武田の感じる音楽はまったく別のものなのだろう。音楽が違いすぎて、私は、武田の句はとても疲れる。