詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ティム・バートン監督「スウィニー・トッド」

2008-01-23 10:10:50 | 映画
監督 ティム・バートン 出演 ジョニー・ディップ、ヘレナ・ボトム・カーター

 ミュージカルの映画化。
 ティム・バートンがあいかわらず映像に凝っている。画面の色調を濡れたような黒で統一している。ボイラーというか、巨大なオーブンといった鉄でできているものさえ、冷たい冷たい水分を含んでいて、触るとその濡れたような感触が、触れた指先から、手、肘、肩、心臓へと浸食してくるような、そういう色である。窓ガラスも壁も石畳も下水道の暗渠も、空も。そして、そういう黒を拒絶して剃刀の白い輝きだけが異質である。水分を含んだ色には違いないのだが、その水分は体とはなじまない。不思議な輝きをしている。
 そこに赤い血が流れる。この血の色は、赤くはあるけれど実際の血の色ではない。わざと赤が目立つようにしている。
 何度も何度も赤い血が流される。流れる。そのたびに、ティム・バートンはこの赤い色が何色に見えますか? と問いかけてくる。剃刀に浮き上がる立体的な膨らみ、血の噴出、あるいはさーっと首の切れ目から流れ落ちる血。さまざまに形をかえ、その流れるスピードにもさまざまな動きがある。そういう赤を登場させながら、ティム・バートンは問いかける。何色に見えますか? 狂気の赤? 感激の赤? 激情の赤? 純愛の赤? 怨念の赤?
 ティム・バートンは狂気を描くことで、純愛(劇愛)の純度と激しさをいっそう鮮烈にしたかったのだと思う。
 だが、私には、それが純愛の赤には見えない。それどころか、「赤」さえが見えない。狂気の純粋さが見えない。たしかにそこに登場する「赤」は「赤」としか表現できない色なのだが、引き込まれない。魅力的に感じられない。ようするに「赤」とは感じられない。「血」にしかすぎない。感情がない。
 赤を登場させることで、逆に「赤」が見えなくなってしまっている。先に「赤」を見せられるために、「赤」が見えなくなってしまっている。映画の中の「赤」はとても人工的な赤であり、ほんとうの血の色とは違っている。そして、その人工的であることによって、なんだか感情そのものさえも人工的に動かされているようで、それが「赤」の魅力を消してしまっているのだと思う。「血」のなかにあるものをゆがめてしまっているのだと思う。
 「赤」ではなく、全体の黒になじみ、同時に異質であるような「黒」なら、血の色はもっと鮮烈に見えたかもしれないと思う。

 この映画ではティム・バートンとヘレナ・ボトム・カーターが実際に歌っている。へたではない。だが魅力的でもない。一昨年、私はニューヨークでこの芝居を見たが、声がとても魅力的だった。声に引きずられて劇のなかへ入ってゆく。ミュージカルの魅力はそこにある。この映画は映像を優先させてしまっていて、声で観客を引きずり込むという努力にも欠けている。
コメント
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