詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

広岡曜子「潜り戸」ほか

2008-01-14 14:44:37 | 詩(雑誌・同人誌)
 広岡曜子「潜り戸」ほか(「左岸」31、2007年12月24日発行)
 連作「京都」という形で3篇。そのどれもに肉体が微妙な形で出てくる。

町家のおじいさんは
奥座敷に座ったままで
ようこちゃん、あんたの小指、細いさかいに耳かきになるわ

にやにや笑っている
最近はろくろ遊び
形のととのわない緑色の魚の皿が
ときどき座敷を泳いでいる

祇園のそばの
旧家では
潜り戸(くぐりんど)を潜って
長い時間を ひょと超えていく

あかない蔵には
いまも古い雛人形が そろって眠っているらしい

降り積もった湿気もいっしょに
人形の
深く切れ込んだ目と 真っ白な胸のはだけるところまで
                 (「潜り戸」)

 教官が少女の平泳ぎの形の足を指さして
「どうだ、きれいだろう。」
と告げる
 深緑色の藻が、ねっとりと両足にからみつく。藻は、遠く
湖から運ばれたのかもしれない。

「あそこはものすごく深いんだってね…。」
 おさげの友人が上目遣いで耳打ちする。そう、だれも
水底の秘密を知らないのだ。
                (「南禅寺界隈」)

すっかり化粧の落ちた顔を
レジの大きな鏡で見て
そして、
ちょっと口元で笑ってみる

ふふふ、
                  (「秋の楽隊」)

 「潜り戸」「南禅寺界隈」は「過去」の時間を呼び寄せる。「肉体」のなかにはいつも「過去」が川の淀みのようにつもっている。水は流れているのか、それとも淀みだけをのこして他の水が流れていくのか。そんなことを思わせるように、肉体をのぞきこむとかならず「過去」がわきあがってくる。「肉体」として他人に見られた記憶が。
 広岡は、その不快さのようなものを、隠さずにみつめている。
 広岡が、肉体である、ということを受け入れている、ということだと思う。そのときの受け入れの姿勢が、妥協でもなければ、あきらめでもない。挑戦、というのでもない。ちょんとことばがみつからないのだが、「秋の楽隊」の、

ふふふ、

のなかに、その不思議な感じが凝縮している。
 「町家のおじいさん」も水泳の「教官」も、結局、思っているだけで、肉体のなかになにが動いているか知らないでしょ、と言っているような感じなのである。
 こうした世界が、なぜ「京都」なのか。
 京都というのは、知ってるつもりでしょ? でも知ってるのはそこに住んでいるひとだけ。京都は「街」ではなく「肉体」、「過去を抱え込んだ肉体」ということなのかもしれない。
 3篇読んだだけではまだよくわからないが、連作が完成したとき「肉体としての京都」が浮かび上がってくるのかもしれない。それも「観光都市」としての「肉体とその過去」ではなく、「日常」としての「肉体」と「過去」が。
 そんなことを期待させる3篇である。

コメント
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