現代詩手帖 2008年 01月号 [雑誌]思潮社このアイテムの詳細を見る |
山口小夜子に捧げられた詩である。高橋は小夜子に「詩」を見ていた。高橋にとって小夜子の「衣装」は詩にとっての「ことば」であり、「着る」ことは「書く」ことであった。
たとえば
古い門 新しい階段
布を裁ち ミシンを踏む学校
教科書で指名され 立ちあがり
読まされて 忘れられない一節
「化粧術は死者をよみがえらせ
衣裳術は蘇生者を立ちあがらせる」
それは 遠い古代の死んだ国の谺
いいえ お墓の中からの
なつかしい声
「化粧術は死者をよみがえらせ/衣裳術は蘇生者を立ちあがらせる」がほんうとに教科書に書かれていた文章か。また山口小夜子がほんとうに感動したことばか。それはわからない。むしろ、それは高橋が山口小夜子のためにつくりだしたことばのように思える。そして、高橋自身に向けて発していることばのように思える。
「ことばは死者をよみがえらせ
詩は蘇生者を立ちあがらせる」
高橋のことばは山口小夜子をよみがえらせ、そしてその詩は山口小夜子を立ちあがらせる。つまり、生き生きと、読者の前に現れ、動きだす。そして、そのよみがえり、立ち上がり、動く山口小夜子は、実は高橋そのものである。
この至福のような一体感は次の部分を読むといっそう強まる。
私は着た
風を着た
空を着た
夜明けを着た
夕焼けを着た
海を着た
草原を着た
廃墟を着た
地下迷路を着た
考古学を着た
占星術を着た
髪霊術を着た
着ては脱ぎ
脱いでは着ながら気付いた
着ては脱ぐ私も一種の服で
本当は着られているのだと
私にも本当は
顔も体もないのだと
「着た」を「書いた」にすれば、それはそのまま高橋である。前半は省略して、後半だけ書き換えてみよう。「服」は詩である。(「脱ぐ」は「捨てる」と、とりあえず書き換えてみる。ことばを書くということは、ことばを捨てることだから。)
書いては捨て
捨てては書きながら気付いた
書いては捨てる私も一種の詩で
本当は書かれているのだと
私にも本当は
顔も体もないのだと
「書かれている」は「書かされている」にしてしまうと、池井昌樹になってしまう。高橋の場合は、「書かれている」である。
ことばによって「書かれる」。「書かれる」とこで高橋自身が「詩」になる。高橋自身が「詩」になってしまうからこそ、そこには高橋の顔はない。たとえば、この作品では、そこには高橋の顔も体もなく、ただ山口小夜子の顔と体があるだけなのだが、その一体感、高橋が山口小夜子の顔になり、体になるという一体感が高橋のことばのすべてなのである。
高橋のことばはあらゆる対象のなかに高橋を封印し、消し去り、そうすることで高橋と世界は和解する。一体になる。
最終連。
蒙古斑の幼女のお尻
のような すべすべの
満月がのぼる
いつか風が出て
満月の表面に
蒙古斑のような
さざなみをつくる
さざなみがくりかえし
月を洗い 洗い流した後
夜明けが立ちあがる
私は夜明けに溶け
私は夜明けになる
かつて着たことのある夜明けに
夜明けになった私を着るのは
誰だろう
とても美しい連だ。終わりから2行目の「着る」はもちろん「書く」である。山口小夜子と一体になった高橋--それを書くのは、誰だろう。その問いに、私は、思わず、私はこんなふうに書いてみました、と言うしかないのだが、ここには深い深い祈りがある。詩への限りない祈りがある。
詩は読まれねばならない。引き継がれねばならない。