![]() | 雨の言葉―ローゼ・アウスレンダー詩集ローゼ・アウスレンダー,加藤 丈雄思潮社、2007年12月25日発行このアイテムの詳細を見る |
「言葉」について書かれた痛切な詩、思わず涙がこぼれてしまう悲しい祈りの詩がある。「言葉と言葉」。その全行。
私たちは隣同士
言葉と言葉の
ねえ
おしえてください
あなたのいちばん好きな言葉を
私のは
あなた (谷内注・「あなた」はゴシック体)
「言葉」を生きる。そして「言葉」を生きるということは、「言葉」を使って語り合うということである。だれかとつながるということである。触れ合うということである。「あなた」と。「私」を「私」のまま受け入れてくる「あなた」と。そのひとりをローゼ・アウスレンダーはひたすら求めている。そしてそれはほんとうは彼女の外にはいないのである。彼女の中にいるのである。彼女は自分自身と「和解」したがっているのである。生きている--そのことと「和解」したがっているのである。
そして、その「和解」は「言葉」を書くこと。「言葉」を書くことで「あなた」ではなく「私」でありつづけること。--そういう矛盾でしか成り立たない「和解」である。
この「和解」のことを、ローゼ・アウスレンダーは「愛」とも呼んでいる。
「愛 Ⅴ」という作品。
私たちは互いをまた見いだすでしょう
湖の中で
あなたは水として
私は睡蓮の花として
あなたは私を運ぶでしょう
私はあなたを口にふくむでしょう
私たちは互いに一部となるでしょう
みなの見ている目の前で
星さえも
驚くことでしょう
今二人ハ
モトノ姿ニ戻ッテシマッタ
自分タチヲ選ンダ
夢ノ姿ニ
「あなた」と「私」、「水」と「睡蓮」は、「詩」と「言葉」に置き換えることができる。「詩」と「言葉」は水と睡蓮のように出会い、互いを選び合うのだ。そして一体となる。切り離しては存在し得ない。ローゼ・アウスレンダーにとって「言葉」とは「詩」であり、「詩」とは「言葉」である。そして、そのなかで命は「和解」するのである。「生きる」ということが、その瞬間だけ、許されるのである。
*
もう1篇。悲しく、美しい詩。「分ける Ⅱ」。
私はふるい落とす
ひとつの林檎を
夢の中から
さあ
分けましょう
この実を
この身の中の
虫を
この夢を
さあ
分けあいましょう
「林檎」と「虫」は「詩」と「言葉」である。「林檎」のなかで「虫」は生きる。そして「林檎」と「虫」は「命」と「言葉」でもある。それは別々には生きられない。
「虫」は「林檎」を傷つけながら生きる。「言葉」は「命」をむしばみながら生きる。そして、むしばむこと、傷つけることで、「命」の輝きを知らせる。そういう矛盾でしかありえない関係がある。
この作品の中で「虫」ということばは洗い直されている。私たちが普通考えている「虫」、「林檎」をむしばみ、傷つけるだけの「害」のあるものとしてではなく、生きる力として新しくよみがえっている。
「詩」とは、常に、そうやってことばを洗い直し、新しくする働きのことでもある。