詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「森にひかれる」

2008-01-29 10:03:05 | 詩(雑誌・同人誌)
 野村喜和夫「森にひかれる」(「歴程」546 、2007年12月31日発行)
 ちょっと退屈な感じで詩がはじまる。

森にひかれる
それはなぜだろう

たとえば熱帯雨林
と聞いただけで興奮してしまうのだ
いつだったかシンガポールを訪れたとき
町全体がきれいな公園のようですこしがっかりしたけれど
ナイトサファリなる場所にタクシーで駆けつけると
そこはほぼ自然のままで
生まれてはじめて
熱帯雨林を肌で感じることができた
トラムに乗って夜のジャングルを行くのだが
生い茂る厚い葉むらの奥に
名も知らない珍獣が身をひそめていたりして
童心を大いに呼び覚まされたものだ

 つづきを読んでもどうしようもない、という気持ちにさせられる。「興奮」とはなんだろうか、と期待して(?)読み進んでいるのに「童心」か。熱帯雨林を「肌で感じ」ながら、浮かび上がってくるのが「童心」か……。
 「興奮」というのは知っていることを超越して、「知らない」ものを「肌で感じ」ることだと思うのだが、「知らない」ものの対象が「名も知らない」「珍獣」では、ちょっとがっかりする。さらに、その結果として浮かび上がってくるのが「童心」では、どうしようもない。「童心」を「童心」と呼べるのは「童」だった記憶(知っている)があるからである。野村は「知らない」ものを発見していない。
 「興奮」とは書いてあるが、読んでいて、まったく「興奮」しないのである。勝手に「興奮」していたら? と興ざめしてしまう。
 行わけしただけの、学校の宿題の作文のような、あるいは定年退職した男の初めて書いた文章のような、味気ない文体が、その興ざめに拍車をかける。

 ところが。

森から出てくると
私は内奥を
さみどりにうがたれたまま
そのなかをあたりまえに鳥たちが飛び交い
さながらわが身は
一枚のルネ・マグリットの絵として差し出されている
ような気がする

森にひかれる
森にひかれる

 突然、転調して「歌」に変わるのである。この瞬間が、とても美しい。特に、

さみどりにうがたれたまま
そのなかをあたりまえに鳥たちが飛び交い
さながらわが身は

 という3行は、歌謡曲でいえば「サビ」へかけのぼっていくメロディーのようにぞくぞくさせる。冒頭の「さ」「そ」「さ」というさ行の響きあいが絶妙だ。途中に混じる濁音が豊かな音を感じさせるし、「さながらわが身は」という「文語調」が、ここの部分は特別仕立てなんですよ、とささやきかけるようで、ほんとうに美しい。「さながらわが身は」の「が」の音の繰り返しが特に美しい。
 そうしおいて、「サビ」。

一枚のルネ・マグリットの絵として差し出されている

 「俗」といえば「俗」(スノブ)かもしれないが、「サビ」とはもともとそういうものであるだろう。だれもが知っていること。「知らない」ではなく、「知っている」けれど普通は言わないことをあえて言う。わざと言う。「サビ」であることを利用して、わざと言ってしまうのである。
 そのあと、その「興奮」を静め、さらにゆったりと、リフレインがある。

 以前、私は、野村のこうした「俗」が大嫌いであった。「俗」まみれのことばの動きが大嫌いであった。
 ところが、この詩のように、その「俗」が全編に散らばるのではなく、一か所に集まっているのを読むと、あ、いいなあ、美しいなあ、と思ってしまうのである。
 冒頭の、つまらない「散文」くずれのことばから、歌謡曲(昭和歌謡曲だね)への転調は野村が狙って仕組んだものなのかどうか、この一編だけではわかりかねるけれど、意図的につくりあげたものだとしたら、すごい。


コメント
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