詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「無意味な絵葉書」

2008-01-03 11:08:50 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩手帖 2008年 01月号 [雑誌]

思潮社

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 谷川俊太郎「無意味な絵葉書」は「遠くで牛が草を食んでいる/その向こうに倒木を組んで建てたとおぼしい門が見える」という具合に「絵葉書」の描写がつづく。ほんとうは絵葉書ではなく、ことばの動くままにことばを動かし、その描写を「絵葉書」という「意味」のなかに閉じ込めたということだろう。
 実際に「絵葉書」が目の前に存在しないので、ことばは少しルーズに動く。というか、微妙な変化を見せる。

手前には乳白色のプラスティックのテーブルがあって
五人ほどの人間がそれを囲んで座っているが

という行につづいて5人(老人、マリー・アントワネット、少年、官吏2人)の描写がある。「五人ほど」は、ことばが彼らを描写しているあいだに「五人」に限定されてしまう。そして、その限定を前提として、「絵葉書」の締め(?)の描写として次の2行がある。

牛と門のあいだの空間を一団の探検隊が歩いて行く
テーブルを囲んだ五人が何を話し合っているかは知る由もない

 「ほど」と曖昧だったものが消えて、そのかわり別の曖昧なものがそれにとってかわる。テーブルを囲んでいる人の数が明確になると、かわりに5人の話している「話題」があらたに不明なものとして浮かび上がってくる。
 ことばはことば自身で動いてしまうものなのだ。同時に、ことばにあわせて意識も動いてしまうものなのだ。そして、その動きそのものが詩なのである。ある描写から始まり、その描写を離れてしまう。変化してしまう。
 それは、詩のなかで谷川が谷川でなくなる、ということでもある。
 それを象徴するのが、「絵葉書」の描写につづく次の2連である。

そんな絵葉書をミュージアム・ショップで買って
五年二組の教室の壁に貼り出したところ
生徒の一人が次のような詩を書いてきたのでびっくりした

えにはなんでもかけるからずるい
はこにことばはとじこめられない
がかはしじんとなかがいいらしい
きかいじかけのせかいはきらいだ

 「絵葉書」の描写をしていた谷川は、その描写の果てに「五年二組」の詩を書く「生徒」になってしまう。この転調が非常におもしろい。びっくりさせられる。散文体の文体で「絵葉書」の描写を追いかけてきて、そのふいの転調に、意識が覚醒させられる。
 で、つづきは?
 それがないのである。
 「五年二組」の「生徒」の詩で、作品は突然終わる。「生徒」の4行で31ページ目が終わっているので、私は自然にページを繰り、32ページへ進んだが、するとそこには大岡信の詩が載っていて、あ、谷川の詩はページを繰った瞬間に終わったのだと知らされる。
 谷川は跡形もなく消えていて、それがまた、谷川が「生徒」に変わってしまった、という印象をいっそう強くする。

 もしこの作品がほんとうに「五年二組」の「生徒」によって書かれたものだとしても、やはり谷川はその「生徒」になってしまったのだと思う。「生徒」になることで、「絵葉書」の描写を超越して別の次元へ行ってしまう。
 これはたまらない快感だ。やみつきになる快感だ。自分が自分でなくなってしまう。自分の外へはみ出してしまって別人になる。セックスのエクスタシーの瞬間のようである。そういう瞬間は、ことばを動かすことでもやってくるのである。
 ここでこんな感想は変なのかもしれないけれど、ことばは、谷川俊太郎にとってはまるでペニスである。動かし続けて、射精し、その瞬間にことばを動かし続けていた谷川はふっと消えて宇宙と一体になる。快感のなかへ消滅する。消滅することで別人として誕生する。--そんなことを思った。

コメント (1)
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