詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中宏輔『The Wasteless LandⅢ』

2008-01-21 10:42:08 | 詩集
The Wasteless Land.Ⅲ
田中 宏輔
書肆山田、2007年12月20日発行

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 とてもおもしろい詩集である。そして、その詩集よりもおもしろいのが「帯」である。誰が書いたのかわからないが「詩人の内に滾る未生の言葉の噴出。これらのこれらのこれらの言葉がたったひとつの単語として複雑で遠大な意味にむかう。」あ、そうなのか、と思う。
 「そうなのか」というのは、田中の詩への感想ではない。
 そうなのか、詩は「意味へ向かう」ものなのか。そんなふうにして読まれるものなのか、ということである。そして、そうか、と思いながら、その「そうか」のなかにはなんだかがっかりした、という気持ちに含まれてしまう。
 私ももちろんことばを読むときは「意味」をさぐりながら読むのだけれど、実際に「意味」ということばに出合ってしまうと、何かちがうなあ、と思ってしまうのである。読者である私は「意味」を求めてしまうけれど(凡人だから)、作者である詩人のことばせ「意味」へ向かわないでほしいと願うのである。そのことばが「意味へむかう」ならば詩の価値(意味?)がなくなってしまうと思うのである。天才のことばを読む楽しみがなくなってしまう。意味を求める思いをひっくり返してくれる--それが詩である、と私はひそかに思っている。天才のことばは凡人のことばをかきまぜてしまう。意味をとおらなくさせてしまう。意味を破壊してしまう。意味が破壊されて、ことばがことば以前--「未生」になる瞬間、そこにこそ詩があると思うからである。

 田中のこの詩集には、この詩集のことばには「意味」などない。ことばは「意味」へなどむかっていない。それが私にはおもしろく感じられる。

●ぼくの金魚鉢になってくれる●草原の上の●ビチグソ●しかもクリスチャン●笑●それでいいのかもね●そだね●行けなさそうな顔をしてる●道路の上の赤い円錐がジャマだ●百の赤い円錐●スイ●きのう●ジミーちゃんと電話で話してて●たれる●もらす●しみる●こく●はく●さらす●といった●普通の言葉でも●なんだか●いやな言葉があるねって●そんなことばをぷつぷつと●つぷやきながら●本屋のなかをうろうろする●ってのは●どうよ●笑

 「意味」というか、「ストーリー」は自然に私の頭の中に浮かんでくる。ジミーちゃんか、それともだれかほかのひとか、それはどうでもいいのだが、ある人間に「愛を告白する」(ぼくの金魚鉢になってください)。「金魚鉢になってください」という言い方は普通の日本語ではないし、愛の告白とは考えられないかもしれないが、それは比喩であり、比喩で限りにおいて、それはどんなものであってもいい。その比喩が他人に気に入るかどうかは、直接、愛を告白されたひと以外にはなんの関係もないことだからである。
 そして、実際に愛を告白されたひと(たとえばジミーちゃん)と、愛を告白したひと(たとえば田中)の、その後の会話がつづく。
 (田中が「ぼくの金魚鉢になってくれる」と告白されたほうである仮定することも可能だけれど、めんどうくさいので省略する。)
 「金魚鉢になってくれる」というような奇妙な比喩での愛の告白が可能な関係になってしまえば、(そんな比喩が通じる間柄になってしまえば)、もう、どんなことばをまき散らしても会話になる。どうでもいいことばが、それぞれにあいての肉体に届いてしまう。あいての肉体のなかから、それこそ恋人同士にしか意味のない(価値のない)快感を引き出してしまう。どうして、そんなところが感じる? と、愛しあっている人間に問いかけることほど馬鹿げたことはないだろう。どこだって、感じるのである。快感なのである。それが「恋人」というものだろう。
 指や舌で体中をまさぐるように、ことばをまきちらしながら、指や舌や性器では触れることのできなかった肉体の奥、肉体の記憶をかきぜる。「笑」「そだね」といったような、相槌がときどきはじける。破壊と肯定。肉体を破りながら、新しい肉体(快感)を求めて動き続けることば。
 どんなことばにも「意味」はない。ただ、それを使ってみたいだけなのである。たとえば指で体のどこかに触る。舌で触る。性器で触る。意味はない。したいだけなのである。それとおなじである。
 「意味」というものが、歴史のなかで蓄積され、共有されてきた流通する何かだとすれば、愛とは、そういう流通が隠してきたものをあばくために、流通そのものを破壊することである。詩もおなじである。歴史のなかで蓄積され、洗練されてきた何か、流通に便利な感覚(感情--たとえば抒情)を破壊し、そういう抒情の形式が隠してきた「もの」(ものとしかいえない何か)を出現させる力が詩なのである。そして、そのとき詩のことばは、そういうことを狙っているというより、ただ、そんなふうにことばを動かしたいから動かしただけのことにすぎず、なにかが噴出するとしても、それは単なる結果である。
 なにが噴出してくるか、ということは詩には無関係である。その後の「意味」は詩には無関係である。
 ただ、いままであるものを破壊する--そのために、わざと、いままでとはちがったことばの動かし方をする。そういう動かし方を、「瞬間芸」としてではなく、あきもせずに延々と繰り返す--それが芸術なのだ。詩なのだ。

 田中はこの作品のなかでは「●」を多用している。それは読点「、」であったり句点「。」であったりする。会話の始まり、終わりを示す括弧だったりもする。簡単に言ってしまえば、声にならないもの。ことばにならないもの。ことばを際立たせるための意識の存在を浮かび上がらせるための技法。
 田中は一方で、どうでもいいような(他人にはなんの「意味」もない恋人の睦言)を垂れ流し、他方でその垂れ流しの睦言のなかに、ことばにならない(日本語として「声」に出せない)意識があることを浮かび上がらせる。そして、そのことばにならないかったもの、●でしかあらわせないものが、ありとあらゆる瞬間に存在していることを明示する。どのページを開いてみてもおなじである。そこにあるのは●の洪水である。
 田中の手柄は、そういう●でしかないものが世界にあふれていることを●を書き散らすことではっきりと浮かび上がらせたことである。●にぶつかり、●にさえぎられ、めんどうだなあ、●なんか飛ばしちゃえ、なんて思いながら●を笑いながら読む、というのがこの詩集にはふさわしい態度だと思う。
 「意味」なんかに向かってはだめ。1ページから最後まで順序よく読む、なんていうのもだめ。秘蔵の(?)ポルノ映画(まだ、あるんだろうか)を見るみたいに、気分次第で好きなページを開いて●(あるところを愛撫していて、つぎの場所へ移るための呼吸のようなものだね)を、あ、ここにも、あそこにも、この瞬間かあ、いや、この瞬間だな、と思いながら読むしかないのだと思う。
 こんなふうに読むことができる詩集が誕生した、ということがおもしろい。

 田中のことばは「意味」へ向かうのではなく、「意味」からどこまでもどこまでも遠ざかる。「意味」を破壊し尽くし、肉体になる。私は「帯」に書いてあることとはまったちちがう世界を楽しんだ。
コメント (6)
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