池井昌樹「花影抄」(「歴程」546 、2007年12月31日発行)
「ふたり」という作品が、しみじみしていて、同時に不気味である。しみじみと不気味というのは対立した概念というか、一種、とけあわない何事かを含んでいるのだが、そういう矛盾(対立)を飲み込んで動くのが池井のことばである。
その全行。
「こんなにとおくはこばれて」の「とおく」と「はこばれて」に池井の「思想」がある。池井のことばはいつでも「とおく」と交信する。そして、その「とおく」はいつでも、自分の意思でつかみとった「とおく」ではなく、何者かによってもたらされた「とおく」である。「はこばれて」が、そのことを明らかにしている。なにものかによってもたらされたものであるがゆえに、それはいつでも池井にとっては「いま」「ここ」である。「とおく」は「近く」と重なるのである。そこに特徴がある。
「とおく」は「近く」、「近く」は「とおい」。つまり、そのふたつが溶け合って、宇宙そのものになる。
「とおく」「近く」は距離ではないのだ。たとえば「家からとおく」でも、「家の近く」でもないのだ。池井と女がいて、そのいっしょにいることが「とおく」であり「近く」なのである。
「とおい」とは「しらない」ということと同じである。(遠い町について知らないように、遠くにあるものについては私たちは何も知らない。)「しらない」ことはいつでも「とおい」。それを、いま、ここに、女といっしょにいて、気がつく。「いま」「ここ」に「とおさ」があることに気がつく。それは、「いま」「ここ」が無限大になること(宇宙になること)と同じである。
「いま」「ここ」に「しらない」ことがある、というのは不気味である。よりそっているのに女が何をみつめている(女に何が見えるのか)を「しらない」(わからない)というのは不気味である。同じ窓なのに、その窓が女にとってどう見えるのか「しらない」(わからない」というのは不気味である。不気味であるけれど、たしかに、それは現実である。誰も他人が(それが連れ添っている女であっても)、彼女が何を見ているか、世界がどう見えているかということは正確にはわからない。その「しらない」(わからない)というのは、そのとき「感情」(思い)であるかもしれない。
しかし、そういうことを「しらない」(わからないまま)であっても、私たちは生きてゆける。あるいは、しらない(わからない)から生きてゆけるのかもしれないが。
そして、「しらない」(わからない)ことがつくりだす広がり(遠さ)が、私たちを真摯にする。正直にする。まじめにする。「しらない」(わからない)ことを頼りにするわけにはゆかない。「しっている」(わかってい)こと--つまり、自分に対して正直になり、自分を押し開いてひとと接する、ひとと寄り添うしかないのである。そうするとき「とおく」は「とおく」でありながら「近く」(いま、ここ)とゆったりと混じり合う。融合する。
「遠さ」のなかへ、自分自身を放心するのである。そして、「近く」(たとえば寄り添う女)に身をゆだねる。そのとき、「安心」というものがやってくる。「しみじみ」という感じがひろがるのである。
この「安心」にたどりついて、それからこの詩を読み返すと、たぶん、ふしぎなことが起きる。
この4行に登場する「きれい」や「花」が違ったふうに見えてくる。「きれい」なものを「きれい」ということばをつかわずに表現するのが「文学」であるという定義(?)めいたものが一般に流布しているが、そんな定義などどうでもよくなる。「きれい」を別なことばで表現するということなど、こざかしい「文学ごっこ」に見えてしまうのである。「きれい」は「きれい」でいいのだ。「はな」は「はな」でいいのだ。「文学ごっこ」(文学技法)など、すっかり捨て去って、ただ放心して世界と一体となる、宇宙と一体となる。世界や宇宙と一体になるためには、「ことば」は捨ててしまうにかぎるのだ。
池井は、ことばを捨て続けているである。「漢字」を捨てた。「漢字」が呼び覚ます「意味」を捨てた。「ひらがな」のなかに残っている「おと」そのものになって、「とおく」と「近く」を融合させる。池井自身を正直に押し開きながら。
「花影抄」の作品群は、女が家を空けたときの寂しさを書き綴っている甘ったれ男の詩のように見えるけれど、そんなふうに見えてもかまわないと、池井は正直に彼自身を押し開いている。そうすることで、また新しい宇宙との交信をしているのである。
「ふたり」という作品が、しみじみしていて、同時に不気味である。しみじみと不気味というのは対立した概念というか、一種、とけあわない何事かを含んでいるのだが、そういう矛盾(対立)を飲み込んで動くのが池井のことばである。
その全行。
あなたはひとりまどべにもたれ
いつもだまってそとをみていた
わたしはあなたのとなりにすわり
やはりだまってそとをみていた
まどのそとではきれいなそらが
きれいなまちやもりがすぎ
ひとはのりおりくりかえし
はながさきまたはながちり
こんなにとおくはこばれて
わたしはようやくきづくのだ
わたしのしらないまどのこと
あなたのみているまどのこと
ほしひとつない
こんなやみよのまどべにふたり
よりそって
「こんなにとおくはこばれて」の「とおく」と「はこばれて」に池井の「思想」がある。池井のことばはいつでも「とおく」と交信する。そして、その「とおく」はいつでも、自分の意思でつかみとった「とおく」ではなく、何者かによってもたらされた「とおく」である。「はこばれて」が、そのことを明らかにしている。なにものかによってもたらされたものであるがゆえに、それはいつでも池井にとっては「いま」「ここ」である。「とおく」は「近く」と重なるのである。そこに特徴がある。
「とおく」は「近く」、「近く」は「とおい」。つまり、そのふたつが溶け合って、宇宙そのものになる。
「とおく」「近く」は距離ではないのだ。たとえば「家からとおく」でも、「家の近く」でもないのだ。池井と女がいて、そのいっしょにいることが「とおく」であり「近く」なのである。
「とおい」とは「しらない」ということと同じである。(遠い町について知らないように、遠くにあるものについては私たちは何も知らない。)「しらない」ことはいつでも「とおい」。それを、いま、ここに、女といっしょにいて、気がつく。「いま」「ここ」に「とおさ」があることに気がつく。それは、「いま」「ここ」が無限大になること(宇宙になること)と同じである。
「いま」「ここ」に「しらない」ことがある、というのは不気味である。よりそっているのに女が何をみつめている(女に何が見えるのか)を「しらない」(わからない)というのは不気味である。同じ窓なのに、その窓が女にとってどう見えるのか「しらない」(わからない」というのは不気味である。不気味であるけれど、たしかに、それは現実である。誰も他人が(それが連れ添っている女であっても)、彼女が何を見ているか、世界がどう見えているかということは正確にはわからない。その「しらない」(わからない)というのは、そのとき「感情」(思い)であるかもしれない。
しかし、そういうことを「しらない」(わからないまま)であっても、私たちは生きてゆける。あるいは、しらない(わからない)から生きてゆけるのかもしれないが。
そして、「しらない」(わからない)ことがつくりだす広がり(遠さ)が、私たちを真摯にする。正直にする。まじめにする。「しらない」(わからない)ことを頼りにするわけにはゆかない。「しっている」(わかってい)こと--つまり、自分に対して正直になり、自分を押し開いてひとと接する、ひとと寄り添うしかないのである。そうするとき「とおく」は「とおく」でありながら「近く」(いま、ここ)とゆったりと混じり合う。融合する。
「遠さ」のなかへ、自分自身を放心するのである。そして、「近く」(たとえば寄り添う女)に身をゆだねる。そのとき、「安心」というものがやってくる。「しみじみ」という感じがひろがるのである。
この「安心」にたどりついて、それからこの詩を読み返すと、たぶん、ふしぎなことが起きる。
まどのそとではきれいなそらが
きれいなまちやもりがすぎ
ひとはのりおりくりかえし
はながさきまたはながちり
この4行に登場する「きれい」や「花」が違ったふうに見えてくる。「きれい」なものを「きれい」ということばをつかわずに表現するのが「文学」であるという定義(?)めいたものが一般に流布しているが、そんな定義などどうでもよくなる。「きれい」を別なことばで表現するということなど、こざかしい「文学ごっこ」に見えてしまうのである。「きれい」は「きれい」でいいのだ。「はな」は「はな」でいいのだ。「文学ごっこ」(文学技法)など、すっかり捨て去って、ただ放心して世界と一体となる、宇宙と一体となる。世界や宇宙と一体になるためには、「ことば」は捨ててしまうにかぎるのだ。
池井は、ことばを捨て続けているである。「漢字」を捨てた。「漢字」が呼び覚ます「意味」を捨てた。「ひらがな」のなかに残っている「おと」そのものになって、「とおく」と「近く」を融合させる。池井自身を正直に押し開きながら。
「花影抄」の作品群は、女が家を空けたときの寂しさを書き綴っている甘ったれ男の詩のように見えるけれど、そんなふうに見えてもかまわないと、池井は正直に彼自身を押し開いている。そうすることで、また新しい宇宙との交信をしているのである。