詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

入沢康夫『かりのそらね』

2008-01-02 08:11:33 | 詩集
 入沢康夫『かりのそらね』(思潮社、2007年11月30日発行)
 『偽記憶』と『かはづ鳴く池の方へ』という2冊の詩集から構成されている。「現代詩手帖」連載・発表されたとき、何度か感想を書いたので、そのとき触れなかった作品について書くことにする。(この「日記」で「入沢康夫」で検索すると過去の書き込みを読むことができます。)
 『偽記憶』の冒頭の1篇。「海辺の町の思ひ出」。

もうさうなつて来ると 息つくひまもなく ざらつく夜闇が
落ちかかつて その路地を浸した 真正面に海の見える狭い
牡蛎の殻を敷きつめた細道 わづかに路面にこぼれた燈影 
その路地へ 思ひ詰めた横顔を見せて 踏み込んで行くのは
それは まちがひない 九歳の私だ

バケツの中で干からびていく魚の臓物の放つ匂ひ 靴底で砕
ける牡蛎殻の感触 この北の海辺の町の住民は 半ばは漁師
半ばは製鋼工場の労働者 遠いざわめきは その労働者が一
日の業を了へた証しだらうか

路地裏の右側五軒目か六軒目 斜めに貸家札の貼られた平屋
がある それを見にここまで来た 確かめにここまで来た
あの少女の父親が浮き桟橋の突端の辺りで 一糸まとわぬ水
死体で発見されたのは五日前のことで おとつひ丘の中腹の
寺での葬式に行つて饅頭を貰つたが それは帰り道に 海に
投げた

路地道を抜ければ海岸の通りに出る 浮き桟橋は ここから
左へ百メートルほどの所だが 私は右に曲がつて 石造りの
御神燈の明かりに向つて走る 躓いて前に手を突く 貝殻で
小指の付け根が切れてゐる 血は 生臭くかなり塩つぱかつ


(このとき 九歳の私には判らなかつたが 二つの岬に区切
られた水平線のあたりにぼんやりと白い大入道がたちはだか
つて 私を 私だけを 凝視してゐたのだ)

 なぜ、「偽」記憶なのだろうか。ほんとうの記憶ではないのだろうか。特に「貝殻で小指の付け根が切れてゐる 血は 生臭くかなり塩つぱかつた」というような描写は、体験したものだけがもつリアリティーを持っている。
 もし、ここに「事実」ではないものがあるとすれば、最終連の「大入道」の描写がそれにあたるかもしれない。「大入道」というものは存在しない。だから記憶のすべてが「偽」である--そういうことは可能かもしれないが、九歳の少年の不安なこころが、何かを「大入道」と思い込んだということなら、それは「偽」ではなく、真実といった方がいいかもしれない。「事実」ではないが「真実」である、と。
 「事実」と「真実」は違うのである。
 「事実」は何か科学的(?)、客観的(?)なものであるが、「真実」はときとして、そういう科学的、客観的なものを超えて共有される一種の「夢」のようなものである。「大入道」は現実には存在しないもの、「事実」ではないものであっても、あるいは「事実」ではないからこそ、多くの人によって共有され「真実」になる。「偽」であることによって「真実」に変わって行く。
 「大入道」は不思議な力で九歳の少年を守った。浮き桟橋へ行かないように働きかけた。それは「恐怖心」を呼び覚ますということだったかもしれないし、そういうことはしてはいけないと諭すことだったかもしれない。どっちでもいい。(読者が勝手に判断すればいい、という意味である。)どっちでもいいが、そんな具合に、実際は存在しないものが幼いこころに働きかけて、子供を動かしてしまう。そういうことはある。それは「事実」というよりも「真実」なのだ。何かが人間を守っている--というのは「真実」なのだ。「真実」と思い込みたい何かなのである。
 「真実と思い込みたいもの」--それは逆に言いなおせば「真実ではないもの」、つまり「偽」である。
 「偽記憶」の「偽」とは、「真実であると思い込みたいもの」という意味であり、そしてそれは、こころがとらえた「真実」そのものでもある。こころにしかない「真実」、
現実とつきあわせれば「事実」ではないもの。そういうものが、いつ、どこにでも存在する。

 『かりのそらね』の「結びのことば」で入沢は

「かり」は「雁」であり また「仮」であり「借」でもあり

 と書いている。「真実」は「仮」の現実を「借」りて、ことばのなかへあらわれる。それが入沢の「詩」である。「仮」はほんとうは「仮」ではなく「事実」かもしれないが、たとえば少女の父が水死体で発見されたということは「事実」であるかもしれないが、それをその事実の方向へ向かうのではなく、「仮構」のための材料となり、「仮構」とはすでに「事実」とは違う方向へと向かう運動を含んでいるのである。反対の方向へ向かうのである。(「仮」の字には「反対」の「反」が含まれている。)浮き桟橋ではなく、その反対の方向へ走る九歳の少年の動きそのままに。
 そのとき、見たいもの、そうあってほしいものが、「偽」の形で、こころの求める「真実」として浮かび上がる。あるいは、そういうものを浮かび上がらせるために、「事実」とは反する方向へ、あえて向かうのである。


 「偽」、あるいは「嘘」、あるいは間違い--何かしら「事実」とは違うもの。それはなぜ存在するのか。存在してしまうのか。ことばはなぜそういうものを呼び込んでしまうのか。

 この問題を一篇の作品に仕立てたのが『かはづ鳴く池の方へ』という傑作である。ことばは、どんなふうにして「事実」ではなく「真実」を選びとるか。ことばとは何か。詩とは何かが問われている作品でもあるのだが、すでに書いてきたことなのでここでは省略する。



 最初、読み落としていた部分についても書いておく。
 「海辺の町の思ひ出」でいちばん奇妙なのは最終連の「大入道」ではない。そういうものは現代の人間から見ればすぐに「事実」ではないということ、「偽」であることがわかる。そんなところに、入沢のほんとうに書きたいものは存在していない。
 ここには九歳の子供の記憶が、子供の実感として書かれているように見える。特に「貝殻で小指の付け根が切れてゐる 血は 生臭くかなり塩つぱかつた」というような描写は、読者を肉体のもつリアリティーへ引き込み、ここに書かれているのが入沢の九歳の体験であるかのように錯覚させる。
 しかし、ここに書かれているのは九歳の子供の記憶ではない。

その路地へ 思ひ詰めた横顔を見せて 踏み込んで行くのは
それは まちがひない 九歳の私だ

 九歳の子供には「思ひ詰めた横顔を見せて 踏み込んで行く」姿は決して見えない。彼に見えるのは、路地であり、牡蛎殻であり、貸家札であり、海である。自分で自分の姿は決して見えない。それを見ているのは、現在の入沢である。
 「現実」はすでに仮構されている。
 入沢は少年が貝殻で手を切ったことなど書きたいのではない。少年が手を切って、血を生温かくしょっぱかったと感じたことさえ、それは入沢の願いである。あとから夢見た付け足しの「事実」である。「偽」の事実、「偽」の記憶である。
 そういう「偽」を積み上げながら、さらなる「偽」--「大入道」が「私を 私だけを 凝視してゐたのだ」と書きたいのだ。
「九歳の私には判らなかつた」とは、なんとも不思議な(絶妙な)表現である。「九歳の私」には「大入道」は見えなかった。そして今なら見える。今なら「大入道」ということばで、「真実」を語ることができる、ということになるだろう。

 詩とは、あるいは文学とは、さらには芸術とは、と言い換えてもいいかもしれない。それは見えるものを描くのではない。見たいものを描くのである。見たいもの、というのは「事実」ではなく「真実」である。「偽」「嘘」を書けば書くほど「真実」に近づいて行く。そういうパラドックスを入沢は浮かび上がらせようとしている。


コメント
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