詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤維夫「アルカディア」

2008-01-15 11:52:44 | 詩(雑誌・同人誌)

 藤維夫「アルカディア」(「SEED」14、2007年12月31日発行)
 普通の会話ではつかわないことば。それをあえてつかう。つかうことで、無意識をかきまぜる。--詩をそんなふうに定義してみたくなるときがある。たとえば藤の「アルカディア」の2連目。

永遠のアルカディアの美酒を飲む
幻影の始まりと終わりまで
木や花や鳥 生き物たちのベッドはきっとあたたかいものだ
帰還していく朝の季語と改行のときが明るくなる
青ざめた顔が美しく蘇るなか
最初のブラームスがきて ソナタのピアニシモは終わる

 「改行のときが明るくなる」。まさに意識が「改行」される。音楽でいえば「転調」かもしれない。「最初のブラームスがきて」の「きて」が、また美しい。「くる」という動詞は日常的にはこんなふうにつかわないが、「改行のときが明るくなる」ということばの使い方が新鮮なので、この「きて」の違和感がなくなる。「きて」以外のことば方が不自然かもしれない--そう感じさせるほど美しい。
 そして「きて」に対応するように「ソナタのピアニシモは終わる」の「おわる」。1行のなかに「きて」と「おわる」が同時に存在するスピード。ここから藤のことばは飛躍する。ありえないことを、そのスピードにまかせて呼び込んでしまう。
 3連目。

新緑の木々と 紅葉の木々
卵黄のような脳髄 浮腫のような睾丸
バレンボイムの指揮棒は終わらない

 「新緑の木々」と「紅葉の木々」は普通は併存しない。新緑の木々の隣に紅葉の木々があるということはありえない。ここでは「時間」はかきまぜられている。そのかきまぜられた「時間」のなかから「脳髄」と「睾丸」が並列して浮かび上がる。「新緑」と「紅葉」のように、遠く離れたものが一瞬のうちに出合う。
 かきまぜられた無意識が、「意識」の世界ではありえないものを出合わせる。この出合いを快感と感じるか不快と感じるか。それが「現代詩」に向き合ったとき、たぶん、読者を2つに振り分けるのだろう。「おもしろい」と「難解」に。 それまでの「意識」を退屈にかんじるひとには「おもしろい」ものに見え、いままでの「意識」を手放したくないひとには「難解」に見える。



 ということは別にして……。3連目の「卵黄のような脳髄 浮腫のような睾丸」に私は西脇順三郎を思い出した。くるみを天使の睾丸と読んだ西脇を。そして、「あとがき」にかえてという副題をもった(イカロスの踊り)を最後のページに見つけた。

永遠を歌った西脇順三郎は小千谷に行ってしまった
銀杏を拾いどんぐりを積み
それから先の詩の休暇は楽しい
風の声も鳥の歌声もイカロスの踊りもつづいている

 こういう偶然(?)は楽しい。もう季節はすぎてしまったが、これが晩秋ならば銀杏ひろい、どんぐりを積みに行きたくなる。「意識」なんかは全部放り出して。

コメント
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