臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ大江 健三郎新潮社、2007年11月20日発行このアイテムの詳細を見る |
大江健三郎の文体が変わった。その書き出し。
肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒(フレクス・バー)を左手に、足早で歩いていく。
「重たげな赤い樹脂製のたわむ棒(フレクス・バー)を左手に」という修飾語の重なった文はかつての大江健三郎のままだが、「肥満した老人が、」「足早で歩いていく。」という簡潔さに私はちょっと驚いた。ここから何かが始まる--そういう予感が漂ってくる。
小説が始まってすぐ、
--まだ百歳までには時間があります。小説も、主題というより、新しい形式が見つかれば書くつもりです。
という「種明かし」があるが、大江は新しい形式を手に入れたために、この作品を書きはじめたのである。その形式にふさわしい文体が、冒頭の、途中にかつての大江独特の修飾過多の名残は残しながらも、簡潔な姿である。
大江がここで試みているのは「映画」と小説の融合である。映画の文体を小説に取り込むことである。冒頭は、たしかに映画の文体になっている。カメラの視線でとらえられている。
肥満した老人が、重たげな赤い樹脂製のたわむ棒(フレクス・バー)を左手に、足早で歩いていく。その右脇を、肥満した中年男が青いたわむ棒(フレクス・バー)を握って歩く。老人が右手を空けているのは、足に故障のある中年男が重心を失った時、支えるためだ。狭い遊歩コースで擦れちがう者が興味を示すけれど、たわむ棒(フレクス・バー)の二人組は、かまわず歩き続ける。
老人が(私だ)、不整脈を発見されて水泳を止めた時、……(略)
これが映画ならば、スクリーンに映し出されるのは、顔を移さず、首から下の姿で老人(肥満)がわかる人間の姿である。顔を省略するのは、その老人の姿をまず印象づけるためである。左手に棒を持っている。カメラは顔を写さず、首から下へ、つまり胸から、棒もった手へ移動し、そして棒から棒の先端、地表の近くへと移動する。足早に歩く、その足を映し出す。それから少し角度を広角にとり、隣りを歩く中年の男を、その足元を映し出す。棒を映し出す。さらに広角になり、擦れ違うひとを写す。擦れ違うひとの視線を写す。だが、まだ老人の顔は写さない。状況を明確にした上で、ようやく、
老人が(私だ)、
と主役の「顔」が映し出される。
この映画の文体をどこまで維持できるか、というのが小説家の本当の仕事なのだが、私の印象では、それは完成されていない。まだまだ映画になりきっていない。けれども、そういう文体を試みていることに、私はとてもこころを動かされた。新しいことをやろうとする意欲というものに引き込まれた。
映画と芝居は、ともに役者を必要とする芸術だが、その形式は大きくちがう。映画にはフィードバックという便利なものがあるが、芝居にはそれがない。芝居は常に「今」のなかに「過去」を抱いたまま「未来」へ動かなくてはならない。映画は小説といくらか似ていて、「今」を描きながら突然そのなかに「過去」をまぎれこませ、実は「過去」にこういうことがありました、と説明できる。しかも、何度も何度も「過去」を繰り返し登場させることで、その「過去」の意味あいを少しずつ変えていくということが可能である。この映画の便利な便利な技法が、この小説では随所に取り入れられている。
ストーリーが展開するにつれて「過去」がつぎつぎと(しかもおなじ「過去」が)繰り出され、徐々に「過去」という全体が浮かび上がってくる。そして、それが「今」を乗り越えて「未来」へあふれだす。関係なかった登場人物の「過去」が繰り返されることで重なり合い、単独でははっきりしなかったものが見えてくる。--ようするに、破局があらわれる。カタストロフィーといってもいい。
この小説では、私の「アナベル・リイ」(ポーの詩)と少女ポルノの映像、女性主人公の役者の少女ポルノを撮られた記憶が、ひとつの映像の中で出合う。
そして、その破局ゆえに、その破局のなかの悲劇、傷ついたヒロインが、傷を手がかりに再生する。生まれ変わる。
この小説を映画の「脚本」そのものとして読むにはかなり厳しいけれど、その手法は、私のような映画が大好きな人間から見るととてもおもしろい。あ、大江健三郎は映画を見たことがあるんだ、ということさえ驚きであった。映画から文体を作り替えようとしていることも以外であった。
文体とからんでくる問題だが、この小説には、女主人公の再生が「過去」にもきちんと描かれている。破局を超えて主人公が生きて行ける理由が「過去」のなかに丁寧に描かれている。映画を見終わった瞬間、あるシーンが突然意識の中でフラッシュバックを引き起し、一瞬のうちに映画の全体をもういちど頭の中でよみがえる時があるが、それに似た現象を引き起こす場面がある。
--病気で臥(ふ)せっている「メイスケさん」を「メイスケ母」が励ましてやる言葉、私はあれが好きです。「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。」
女性は産む性である。何度でも産む。「あなたが死んでも、私がもう一度、産んであげる」。それがたとえ母子相姦でも気にしない。女主人公ははっきり言っている。「本当の母親だったとしても、何が悪い、という気がする」と。
ここには大江健三郎の「夢」というか「願い」が込められている。もう一度産んでもらいたい、という夢ではなく、女のように、もし大切なものが死ぬならもう一度産んでやりたいという夢が。主人公(私=大江)と女主人公の夢が少女ポルノの中で重なり合い、破局してしまった瞬間、「私」と「女主人公」は重なり合い、互いの中でもう一度生きるのである。互いに相手を産み、そして産まされるのである。
それの何が悪い?
何も悪くない。感動してしまう。
『新しいひとよ目覚めよ』にも感動したが、常に新しい文体を作り出して行く大江には、やはり感動してしまう。