現代詩手帖 2008年 01月号 [雑誌]思潮社このアイテムの詳細を見る |
池井昌樹「闇の噂」「そっと」(「現代詩手帖」2008年01月号)
「闇の噂」「そっと」は連作「眠れる旅人」のなかの作品。読みながら、人間はなぜひとりなんだろうと思ってしまった。「闇の噂」の全行。
ちかごろわたしのおもうこと
だんだんだれかのかおににてくる
だんだんだれかにもどってゆく
わたしをとらえ
みぐるみはがし
さんざんもてあそんだあげく
やみへほうむりさったやつ
やつのあわれなまつろなら
やみのうわさにきいていた
あさのしごとのつかのまを
ひとりかがみにむかうたび
ちかごろいつもおもうこと
だんだんだれかのかおににてくる
だれかのまつろのあわれさが
だんだんほねみにしみてくる
「人間はひとり」というのは孤独のことではない。宇宙に人間はひとりしかいないということである。ひとは、そのひとりになるために生きている。そして死んで行く。死んで、そのひとに戻って行く。
だんだんだれかにもどってゆく
詩のことばを「意味」に還元しても何にもならないとは思うけれど、池井が書いている「もどってゆく」は、私のことばでいえば「なる」である。ひとは「だれか」に「なる」。「だれか」とあいまいに書いているのは具体的に書く必要などないからである。「だれか」どころか、人間は「ひとり」であり、その「ひとり」に「なる」だけなのである。
人間はたいてい自分はだれかとは違った存在である、と信じたがっている。しかし、そうではないのだ。人間はみんな同じ。かわったところなど何もない。どんな感情も、どんな欲望も、だれもが同じように苦しみ、楽しんでいる。しかしそのことはなかなかわからない。自分の悲しみと他人の悲しみがいっしょだなどとはだれも信じたがらない。
しかし、同じものなのだ。
池井の詩を、池井のことばを読んでいると、そうした気持ちになって行く。ひとは「ひとり」になるために、苦しみ、そして書くのである。あらゆることを。愛も憎しみも。書きながら、少しずつ「自分は特別な存在だ」という意識をどうでもいいことだと思い、「ひとり」になる。
でも、なぜ「ひとり」なんだろう。
池井にとって、答えは単純だ。詩はひとつだからである。詩はひとつであり、したがって人間はその詩に吸収されて、そしてそこから次々に分裂して、ある瞬間瞬間に存在しているだけのものにすぎない。もし、いま、ここに池井がいるとしても、それはひとつの詩のなかをらくぐり抜けてでてきた存在にすぎず、それが「だれか」と違って見えるとしたら、それは池井がまだ完全に詩になりきれていないからである。
詩になりきる。--そのとき、「ひとり」になる。世界は、その「ひとり」をくぐり抜けた光の乱反射、プリズムによって光が色に分かれたようなものなのだ。「ひとり」は強靱なプリズムなのである。
「そっと」の全行。
むかいのせきがあいている
すこしへこんで
ぬくまっている
だれかすわっていたんだろ
けれどもいまはないだれか
わたしをみつめていたんだろな
ねむりつづけていたわたし
ゆめみつづけていたわたし
そっとみつめていたんだな
でんしゃはづきのえきにつき
わたしもそっとせきをたつ
すこしへこんでいるせきに
けさもほのぼのひがあたり
「わたし」(池井)を見つめていたのは詩である。その、池井をみつめる詩の力に、池井は、ただ、したがってことばを書いている。自分で書くのではない。詩にしたがって書くのである。それが池井の特徴である。自己を捨てて、詩になるのである。
それいつものことなのである。
最終行「けさも」の「も」がそのことを語っている。「けさも」とは「いつも」とおなじことである。池井は自己を捨て、無防備で、放心状態のまま詩になる。詩になるために、放心する。すると、そこへ人間のもっているいろんな思いが飛び込んでくる。それを存分に味わい尽くして、捨てる。--つまりことばにしてしまう。そうすることで「ひとり」に戻って行く。「ひとり」に「なる」。
この愉悦は、私には、ただ池井ひとりが味わい尽くしている愉悦のようにも思える。詩人は、私にとっては、池井ただひとり、という意味である。