The Wasteless Land 2田中 宏輔書肆山田、2007年12月20日発行このアイテムの詳細を見る |
引用が無数に出てくる。ただし、その引用がほんとうに引用かどうかはすこぶる怪しい。出典があいまいである、引用に際して語句が変更されている、という意味ではない。引用というに値しない、という意味である。
「ATOM HERT MOTHER。」の冒頭。
ころげよといへば裸の子どもらは波うちぎはをころがるころがる
相馬御風の歌である。それにしても、「この音は何だ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)。なんと楽しい歌であろう。これほど人を楽しませる歌は、ほかにはないであろう。
田中は相馬の歌の音の楽しさから書きはじめようとしている。そしてそこにシェリーを引用する。「この音は何だ」。だが、この「この音は何だ」はシェリーの『鎖を解かれたプロメテウス』からの引用であるとことわらなければならないようなものだろうか。「この音は何だ」ということばは、シェリーの作品以外にも、多くの文学作品のなかに書かれているだろう。私はシェリーを読んでいるので知らないが、相馬の歌とシェリーは無関係だろう。無関係なのに相馬はシェリーの作品からそのことばを引用した、とわざわざ明記している。
これは何だ?
ことばの破壊である。文学の破壊であり、シェリーの破壊である。
与謝野晶子の「わが恋は虹にもまして美しきいなづまにこそ似よと願ひぬ」について語った部分へ行くと、もっとすごい。作品と訳者の部分(傍点も)を省略して引用すると、
「形式は本質的に反復と結びついている。」(ヴァレリー)「リズムはいたるところにあり--いたるところに忍び込む。」(ノヴァーリス)「音楽がはっきりした形をとるのが見える。」(ウィリアム・ギブスン)「形式は作品の骨格だ。」(ヴァレリー)「音律とは何か?」(ディラン・トマス)「霊なのか?」(ディラン・トマス)「霊?」(ラーゲルクヴィスト)「霊である。」(著者欠落--谷内注、ただし『智恵の書』一・六、と明記あり)
「霊なのか?」「霊?」「霊である。」--このことばの動きは、原典とは何の関係もないだろう。それぞれの原典で「霊」がどんなふうに使われているか、そしてそれが与謝野晶子の歌とどういう関係があるかなど、だれにもたどることはできない。田中にもたどれない。(たどれるなら、きちんとそれを書く、というのが文章の基本である。)
田中は彼自身が考えたことさえ破壊してしまう。「意味」になることを拒絶して、ただその瞬間にことばと向き合うだけである。
原典から引き剥がされ、ことばが破壊される。そしてその破壊のたびに、そこから「音楽」が生まれる。「意味」に束縛されない、単なる音のつらなりが生まれる。
この本には「詩論詩の試み」という帯がついている。
私の印象では「詩論詩」というよりも、ことばで書かれた「音楽」である。
形式的には田中がさまざまな他人の作品に触れながら、田中自身の作品の解説(?)もするというテーマをもっているが、音楽にとってテーマなどどうでもいい。心地よいかどうかだけが問題である。
田中が「意味」などどうでもよいと考えていることは、田中自身の「夏の思い出」という作品に触れた部分を読むとさらに明らかになる。
最初に引用したシェリーの「この音は何だ」さらに破壊されている。次のように。
(これも作者だけを表記し、作品は省略して引用する。)
「愛はわたしを大きくする」(ロールト・ヴァルザー)「それにしても、何の光だろう?」(サングィネーティ)「この光、」(ルーシャス・シェパード)「この音は」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)「偽りを許さない何か」(ロバート・F・ヤング)
シェリーの、一度「この音は何だ」という形で引用されたものが、ここでは「この音は」だけになっている。ここでは「引用」はすでに「文」であることをやめている。「意味」は「文」として構成されてこそそこに存在することができるものである。
「意味」を拒絶したとき、あるいは「意味」を剥奪したときというべきだろうか、あらゆることばは「音楽」になる。
なぜ、田中は音楽にこだわるのか。冒頭にもどる。実は、冒頭の文には続きがある。最初から全部引用しよう。
ころげよといへば裸の子どもらは波うちぎはをころがるころがる
相馬御風の歌である。それにしても、「この音は何だ」(シェリー『鎖を解かれたプロメテウス』第一幕、石川重俊訳)。なんと楽しい歌であろう。これほど人を楽しませる歌は、ほかにはないであろう。愛と喜びに満ちあふれた歌である。おそらく、「音楽は人間的なことの中でももっとも人間的なことで」(シオアド・スタージョン『夢見る宝石』14、永井淳訳)であろう。
シオアド・スタージョンのことばを引き継ぎながら田中は「音楽は人間的なことの中でももっとも人間的なことで」であろう--と書く。この文章だけが、全体の中で特異性を放っている。そこには「意味」が剥奪されずに生き残っている。「意味」を生き残らせている。
音楽とは何か。「人間的なこと」とは何か。「愛と喜びに満ちあふれた」瞬間のことである。瞬間は「愛と喜びに満ちあふれ」るとき「永遠」になる。田中は、音楽のなかに永遠を、愛と喜びを見ているのである。
田中が繰り返し繰り返し、彼自身の愛の日々を語り、愛の日々と作品との関係を語るのは、それが消え去ってしまったものであるとしても、それを思い出すたびに、そこに喜びが満ちあふれ、音楽が鳴り響くからである。これは失った(あるいは積極的に捨て去った)恋人たちへ捧げた、壮大な交響曲なのである。
交響曲を聴くとき、ひとはどうするだろう。音楽の専門家なら、今の音はバイオリン、これはチェロ、あれはクラリネット……と一つ一つの音を聞き分けながら聞くかもしれない。私は音に鈍感なせいか、そんなことはしない。ただ、あ、美しい音だ。この音と音の組み合わせは美しい、うっとりする。そんなふうに和音のことすら考えず、ただ音によう。
田中のこの本は、文学の専門家なら、その引用の一つ一つの読み分けて吟味するかもしれない。私は、そういうことはしない。面倒(?)なことはしない。ただ、音の集まりとして読む。田中は、こんなにたくさんのことばを集めてきて、それをすべて恋人に捧げようとしている。そのことに、ただ感心する。
ただし。
この交響曲が恋人に届くかどうか、私は実のところよくわからない。集めた音、その和音の壮大さに田中自身が酔ってはいないか。演奏家が自らの音の美しさに酔って、その世界に溺れて、ひとりでいい気持ちでいるとき、それを聞くのは必ずしも楽しくはない。その演奏家が今の恋人なら、その音はとても楽しい。でも、分かれてしまった恋人の場合、どうなんだろう。うるさい、と感じないだろうか。
こう書きながら、私はちょっとモーツァルトを思い出している。モーツァルトは私にはかなり不思議な音楽家である。私自身が元気なときは、その音のすべてがとても美しく聞こえる。しかし疲れているときや病気のときは、とてもいやである。聞きたくない。なぜだかわからないが。
田中のこの本も、元気なときになら楽しく読める。疲れているときに読むとうんざりするだろうなあ、と思った。--完全な余談ではあるのだが、思ってしまったので、書き残しておく。