詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田島安江「鶏景」

2008-01-17 11:11:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 田島安江「鶏景」(「somethig」6、2007年12月23日発行)
 田島は「鶏景」「鶏径」「鶏町」と3篇の詩を書いている。連作ということだろう。

旱魃続きで穀物も野菜もとれなかった年
村では週に一羽鶏をつぶした    (「鶏景」)

 という行から書きはじめている。鶏は実際の鶏である。卵も産むけれども、つぶして食べるための鶏である。そうであるのだけれど、その鶏が実際にそうであるからこそ、鶏を超えてしまう。そういう瞬間がある。
 「鶏景」の3、4連目。

あとにはがらんとして
人気のいえ鶏気のなくなった鶏舎が
残されただけである
人びとは食べては眠り
また食べては眠った

空腹は少しも癒されず
一晩眠っても
朝にはまた
空腹を抱えねばならなかった
起きるのさえ億劫であった
布団のなかでうつうつと
よからぬことを考えて過ごした
そっとマッチをすると
暗闇にぼっと
見知らぬ人の顔が映し出される
鶏の顔ではないのでほっとして
またねむるのである

 「人気のいえ鶏気のなくなった鶏舎が」というのは意識的に書いたのか、無意識に書いてしまったのか(たぶん後者だと思うが)、そのことばに象徴されているように、「人」と「鶏」が鶏を食べているうちに区別がつかなくなる。
 食べるということは、食べたものになるということである。
 ふるいふるい人間の体の中に眠っているものが、ふいに目覚めてきて、田島を超えて存在してしまう。そういう瞬間を、田島はきちんととらえている。その瞬間に対応している。
 『トカゲの人』あたりから田島は突然おもしろくなったが、この詩でも、そのおもしろさが拡大している。
 4連目の後半(「そっとマッチをすると」以降)の不思議な人間の肉体の感覚、肉といっしょにある精神の動きのなまなましい温かさはすばらしい。食べたものが人間の体のなかで肉になり、食べた人間が食べられたものになるように、肉体(肉)はそのまま精神になり、精神はそのまま肉として蘇る。切り離せない。切り離せないから、ずるずると互いに引っ張りあいながら「よからぬ」ところへ行ってしまう。そうやって「人間」ではなくなってしまう。「詩人」になってしまう。そのうち「詩人」は「死人」になって、それから括弧なしの詩人として蘇る。そんなことを予感させる作品である。

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アンドリュー・ドミニク監督「ジェシー・ジェームズの暗殺」

2008-01-17 10:37:21 | 映画
監督 アンドリュー・ドミニク 出演 ブラッド・ピット、ケイシー・アフレック、サム・シェパード

 南北戦争後のアメリカ。伝説のアウトローと彼を暗殺した男の野望と悲しみを描いている。
 映像がすばらしい。19世紀という時代を知らないのだけれど、あ、19世紀の風景だと言いたくなってしまう。空の色、枯れた草の色、雪の色--そういう自然の色がすばらしい。強い自己主張ではなく、そこに存在しながら何か他のものに頼っているというと誤解があるが、まわりと溶け合っている。融合することで、そこに存在する。その融合の間を、人間が動くとき、そこに複雑な変化が始まる。
 これはそのまま男たちの関係にもあてはまる。それぞれが何か複雑な交錯と融合を生きている(アウトローの文法のようなもの)のだが、それが微妙に狂いはじめる。野望によって。その不思議な交錯する感情を邪気いっぱいのブラッド・ピットと繊細なケイシー・アフレックが演じる。互いの表情の中に互いの野望が映る。反映する。反映するからこそ、そこから予想を超える動きが加速する。たいへんおもしろい。
 象徴的なのがクライマックスの暗殺のシーン。
 ブラッド・ピットが壁にかかった馬の絵のほこりを払う。絵にはガラスがはめられている。ブラッド・ピットはそのガラスにケイシー・アフレックが銃を構える姿を見る。これは、まるでそれを見たくてブラッド・ピットが馬の絵(そのガラス)に近づいたとさえ思えるほどの、不思議な静けさをたたえたクライマックスである。(ブラッド・ピットがその瞬間を望んでいたということは、その寸前に、彼が銃を体から外すシーンに暗示されているのだが。)
 そして、このときの映像が、またとても美しい。灰色の、つまりモノクロの絵、それに映る色彩を殺した男の服、つまり白いシャツ、黒いズボンが交錯する。そのぼんやりとした交錯の中に、ぼんやりさ加減を超えて劇が走る。ドラマが炸裂する。ただし、ここでも色は19世紀なのだ。血は真っ赤ではない。黒だ。衝撃をあおる赤を拒絶し、黒い力で引き込む。
 映画全体をつらぬくこのトーンはすばらしい。美しい。

 しかし、と私は付け加えずにはいられない。『長江哀歌』がすでにやったことの二番煎じである。この映画のトーンは『長江哀歌』をなぞっているにすぎない。これから10年はだれもが『長江哀歌』をなぞって映画を撮るだろうと思う。日常が抱え込む生活の傷跡をていねいに再現する映像文法をさまざまな形でまねるだろう。この映画は、それを19世紀の自然とファッション(家の中のインテリアを含む)に応用した。すばらしくよく消化した。ほとんどオリジナルの領域だけれど、私はやはりそこに『長江哀歌』の影響を見る。もっともこれは私が『長江哀歌』の影響下でこの映画を見ただけ、ということになるかもしれないけれど。

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