田島安江「鶏景」(「somethig」6、2007年12月23日発行)
田島は「鶏景」「鶏径」「鶏町」と3篇の詩を書いている。連作ということだろう。
という行から書きはじめている。鶏は実際の鶏である。卵も産むけれども、つぶして食べるための鶏である。そうであるのだけれど、その鶏が実際にそうであるからこそ、鶏を超えてしまう。そういう瞬間がある。
「鶏景」の3、4連目。
「人気のいえ鶏気のなくなった鶏舎が」というのは意識的に書いたのか、無意識に書いてしまったのか(たぶん後者だと思うが)、そのことばに象徴されているように、「人」と「鶏」が鶏を食べているうちに区別がつかなくなる。
食べるということは、食べたものになるということである。
ふるいふるい人間の体の中に眠っているものが、ふいに目覚めてきて、田島を超えて存在してしまう。そういう瞬間を、田島はきちんととらえている。その瞬間に対応している。
『トカゲの人』あたりから田島は突然おもしろくなったが、この詩でも、そのおもしろさが拡大している。
4連目の後半(「そっとマッチをすると」以降)の不思議な人間の肉体の感覚、肉といっしょにある精神の動きのなまなましい温かさはすばらしい。食べたものが人間の体のなかで肉になり、食べた人間が食べられたものになるように、肉体(肉)はそのまま精神になり、精神はそのまま肉として蘇る。切り離せない。切り離せないから、ずるずると互いに引っ張りあいながら「よからぬ」ところへ行ってしまう。そうやって「人間」ではなくなってしまう。「詩人」になってしまう。そのうち「詩人」は「死人」になって、それから括弧なしの詩人として蘇る。そんなことを予感させる作品である。
田島は「鶏景」「鶏径」「鶏町」と3篇の詩を書いている。連作ということだろう。
旱魃続きで穀物も野菜もとれなかった年
村では週に一羽鶏をつぶした (「鶏景」)
という行から書きはじめている。鶏は実際の鶏である。卵も産むけれども、つぶして食べるための鶏である。そうであるのだけれど、その鶏が実際にそうであるからこそ、鶏を超えてしまう。そういう瞬間がある。
「鶏景」の3、4連目。
あとにはがらんとして
人気のいえ鶏気のなくなった鶏舎が
残されただけである
人びとは食べては眠り
また食べては眠った
空腹は少しも癒されず
一晩眠っても
朝にはまた
空腹を抱えねばならなかった
起きるのさえ億劫であった
布団のなかでうつうつと
よからぬことを考えて過ごした
そっとマッチをすると
暗闇にぼっと
見知らぬ人の顔が映し出される
鶏の顔ではないのでほっとして
またねむるのである
「人気のいえ鶏気のなくなった鶏舎が」というのは意識的に書いたのか、無意識に書いてしまったのか(たぶん後者だと思うが)、そのことばに象徴されているように、「人」と「鶏」が鶏を食べているうちに区別がつかなくなる。
食べるということは、食べたものになるということである。
ふるいふるい人間の体の中に眠っているものが、ふいに目覚めてきて、田島を超えて存在してしまう。そういう瞬間を、田島はきちんととらえている。その瞬間に対応している。
『トカゲの人』あたりから田島は突然おもしろくなったが、この詩でも、そのおもしろさが拡大している。
4連目の後半(「そっとマッチをすると」以降)の不思議な人間の肉体の感覚、肉といっしょにある精神の動きのなまなましい温かさはすばらしい。食べたものが人間の体のなかで肉になり、食べた人間が食べられたものになるように、肉体(肉)はそのまま精神になり、精神はそのまま肉として蘇る。切り離せない。切り離せないから、ずるずると互いに引っ張りあいながら「よからぬ」ところへ行ってしまう。そうやって「人間」ではなくなってしまう。「詩人」になってしまう。そのうち「詩人」は「死人」になって、それから括弧なしの詩人として蘇る。そんなことを予感させる作品である。