詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水嶋きょうこ「飛猿」

2008-01-18 08:56:15 | 詩(雑誌・同人誌)
 水嶋きょうこ「飛猿」(「ひょうたん」34、2007年12月20日発行)

 よくわからない詩である。よくわからないけれど惹かれる行がある。
 冒頭。

台風が近づいています。風がビルの窓ガラスをがつがつとたたきます。曇った、きしむ空の中に小さな明かりのついた部屋、その部屋にひとりの男。白髪交じりの小柄な男がいました。田口です。

 と、登場人物(?)の紹介がおこなわれる。当然、筆者は「田口」ではない。その筆者ではない「田口」の肉体の感じが、だんだんなまなましいものにかわってゆく。そこからがおもしろい。

人のいない部屋なのにしめった空気がそこらじゅうにうち澱んでおりました。息苦しい、息苦しいぞ、田口は、立ちあがり、ネクタイを緩め、薄明かりの中、浮かぶ手のひらをみつめます。手のひらには深い皺が刻まれている。みつめていると田口のからだはゆるみました。

 「みつめていると田口のからだはゆるみました。」があぶない。とても、あぶない。そこがおもしろい。
 なにか張りつめていたものがなくなって、田口が田口でなくなってゆく感じが「からだはゆるみました。」のなかにつまっていて、あふれてくる。田口を田口でなくしてしまう。当然、それをみつめる水嶋も水嶋自身ではなくなる。
 2連目の後半。

壮大な曇天の空の下、老いた猿は何か大きなものに取り残された田口自身のようであり。田口は思わず足下に力を入れました。風が足下から湧きあがり、アスファルトをおおう、落ち葉がするすると文字となって舞いあがります。

 田口は、猿になる。そして、水嶋も猿になる。そのなり方が、引用しなかった部分にあるのだが、これは水嶋が1連目で「田口」を発見したのとおなじ方法である。みつめる。みつめることで、そこに自分と共通する(かもしれない)存在をみつける。共通する存在をみつけるということは、それが似ているからではない。違っているから、似ている、という部分がみつかり、そこへのめりこんでゆく。違ったものの中に存在する似ているものが、「呼ぶ」のである。(呼ぶ、ということばが引用では省略した部分にある。)呼ばれて、聞いた瞬間に、「からだはゆるみ」、「私」ではなくなる。
 これがおもしろい。

 水嶋は水嶋ではなく「田口」になり、「田口」は「田口」ではなく「猿」になる。そして、その瞬間から、水嶋-「田口」-「猿」とつながったものが「わたし」になる。何もかもがゆるんで(それぞれのからだがゆるんで)、すべてが「私」になってしまうのだ。3連目からは、それまでの「散文体」が捨てられ、行わけになる。そして「わたし」が突然登場するのである。
 ことばを追って行くと、田口は猿に見せられビルから飛び下り、死んでしまう--という印象がある。そして、死んでしまって「わたし」になるという感じがする。人は死んでしまうと「水嶋」も「田口」も関係なくなり、「わたし」になる。「からだがゆるむ」とは「死」の体験なのである。
 --というふうに動いて行くことばが、奇妙で、こわい。そして、おもしろい。
コメント
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