詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩切正一郎『おだやかな微光』

2008-01-26 10:46:07 | 詩集
 岩切正一郎『おだやかな微光』(私家版、2008年01月23日発行)
 しおりに、家庭用のプリンターを利用してつくった、と書いてあった。美しい詩集である。用紙の選択にもこころを配っていることがよくわかる。そして、そのこころ配りは、詩にもあらわれている。いい意味と悪い意味と、二通りに。
 冒頭の「木の越境」。

はじめて、鳥がきたよ。
ふしぎな重さが枝に乗ってさ。その日は、いままでとは違うふうに
景色がかわった日だった。
木はじっと鳥の声をきいた。じっと。(ほら、きいてごらん。鳥の声を)
いっぱい繁った葉を揺さぶるよろこびが
あたらしいいのちのように木のなかを流れたんだ。
じぶんじゃ動けないだろう、木はね、
だからこのときくらい風が木のなかを深く吹きぬけたことはなかった。

 鳥と木の交歓。そのときの木のよろこび。木にはもちろん「こころ」などないだろう。だが、その存在しないこころを、こころとして浮かび上がらせる岩切。そこには、「こころ」というのは他者のなかにあるというより自分のなかにあるものが他者に反映しているだけなのだという「哲学」がある。他人のなかにあると想像できるものは、実は自分のものである。他人にこころ配りをするということは自分自身にこころ配りをすることである。自分を大切にすることである。--こうした「哲学」が、説教にならず、自然にあふれている。特に「だからこのときくらい風が木のなかを深く吹きぬけたことはなかった。」の「深く」に。この「深く」は、こころのなかまで「深く」ということである。木の、こころのなかまで「深く」。ことばにすることで、はじめて存在する「深さ」。それがとても美しい。
 木に鳥がきてとまる。そのときの「枝」の感じた「ふしぎな重さ」。その「ふしぎ」からはじまるていねいなことばの動きが、ていねいさの果てにたどりついた美しさである。ていねいさによって、岩切は木と一体になる。そしてその木には鳥も一体になっている。風も一体になっている。風景も一体になっている。つまり、宇宙と一体になっている、ということである。
 ここまでのこころ配りはとても美しい。しかし、そのあとが私にはこころ配りのしすぎに思える。

木は、風にふかれながら、風とひとつになって、いやいやをするようないじらしい身振りで、
うれしそうに身をゆすってた。
この日からさ、木は時のなかを越境してる、
あたしら人間とはべつの旅をしてるんだ。
歌を呼吸しながらね。
はにかむように揺れながらね。

 これは読者に向けたこころ配りである。「解説」である。「解説」を作品のなかに書いていけないということではないが、その「解説」が詩を「越境」してしまっている。
 岩切の詩はすでに木の、存在しないこころへと「越境」してしまっている。木にこころを読み取ったときから、人間と木のありふれた関係を「越境」し、「越境」することで木と一体になるという美しい体験をことばにしているのだが、そこから、どんなうふうにもう一度「越境」するか。その「越境」の仕方に問題がある。
 木と一体になるということは、すでに岩切は岩切ではない。「人間」ではない。こういう「変身」は詩にとってとても美しいものであるし、文学のすべては、ことばといっしょに動きながら自分が自分でなくなる体験をすることなのだが、そこからもう一度「越境」すのことは、とても難しい。
 岩切は、木へと「越境」し、岩切ではなくなってしまったのに、そこからなぜか、もう一度「人間」(岩切)に逆に「越境」してきてしまう。読者に対して「解説」するために、である。
 木と一体であるいわきりを振り切って、もう一度岩切にもどり、「木は、……」と「解説」しはじめる。「木は時のなかを越境している」というような、抽象的なことばで。このとき、「鳥」は消えてしまう。「風」も消えてしまう。「人間とはべつの旅」によって、その消去はいっそう強まる。
 「べつの」? 「べつ」って、何?
 人間と木の「区別」である。人間と木とは違う、という区別である。
 人間と木は別の存在であることはだれもが知っている。しかし、その別の存在であるはずの木と人間は交感できる。そして一体になることができる、というのが岩切が前半で書いたことばの運動である。
 それを、こんどは裏返すようにして、実は人間と木とは別の存在なんですよ、と念押しをするとき、詩は、どこかへ消えてしまう。
 読者にこころ配りをしすぎたために、詩が詩ではなくなってしまう。

 詩は、わからなければわからないでかまわない存在なのである。10円玉と1万円札がどう違うかわからないと生活に困ってしまうが、詩がわからなくても何も困ることはない。わからないまま、あ、何か美しい(日常とは違ったこと)ことを言っているみたいだな、という印象が残れば、それでいい。日常は時間をかけて、そのことばを、そのうちになっとくするようになる。わからなくても、あ、そうだったのか、と思うようになるときがくる。(もちろん、永遠にこないこともある。)人間は、そういう瞬間を待つことができる。そういう瞬間を待つ能力を持っている。
 岩切にもう必要なものがあるとすれば、この「待つ」というこころ配りかもしれない。「教える」のではなく、気がつくまで「待つ」。--と、こんなことを書いてしまう私も、待つことができない人間なのかもしれないが。


コメント (4)
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