詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金恵順(キム・ヘスン)「あなたの瞳の中の水」ほか

2008-01-16 11:37:47 | 詩(雑誌・同人誌)
 金恵順(キム・ヘスン)「あなたの瞳の中の水」ほか(韓成礼訳、「somethig」6、2007年12月23日発行)
 「somethig」にはいつも韓国人の詩が載っている。それがとてもおもしろい。「あなたの瞳の中の水」は抒情あふれる詩だが、抒情に流れない。その1連目。

私が朝起きて悲しい歌を歌えば
コップの水も悲しくなり、便器の水も悲しくなり
花の茎の中にぶくぶくと上がった花瓶の水も悲しくなり
のどの中に水をいっぱい含んだまま我慢している
蛇口の中の水も悲しくなり

 「悲しい」ということばが何度も出てくるが、そこには悲しみはない。「悲し」(み)ということばは、「悲し(み)」を探している。
 金は「悲しくなり」と書いているが、その「なり」に抒情を拒絶する力がある。悲しいのではなく、悲しく「なる」。動詞なのだ。感情を動詞としてとらえる精神の動きがある。激しさがある。
 その過激さが「便器」を呼び出す。
 あるいは「花の茎の中にぶくぶく上がった」の「上がった」という動詞を誘い、「我慢している」も引きずり込む。じっとしているのではなく、動き回るのである。「我慢している」でさえ、「のどの中に水をいっぱい含んだまま」と「含む」という動詞といっしょに存在する。そして、この動詞が、「のど」という肉体を覚醒させる。もちろん、この「のど」は蛇口ののどのことであるが、「のど」と書いた瞬間からそれは蛇口ではなく金のにくたいそのものになる。蛇口は金の肉体なのだ。
 存在と肉体がシンクロし、精神を、いままで動いていなかった場所へと駆り立てる。そして、そのことばに駆り立てられながら、駆り立てられることを利用してことばはさらに動いて行く。詩になって行く。

 3連目。

流れる水は流れながら身を洗うが
こんなに悲しい歌は私の体の中で淀み
流れ出すこともできない、排水口の栓が泣き
その下のパイプが泣くのだ

 肉体のこの変身、変形。自己が自己でなくなる。その瞬間こそ、自己を貫く精神がなまなましく生き延びる瞬間である。自己を否定して、自己を獲得する。「悲しみ」のなかに溺れるのではなく、悲しく「なる」こと、悲しみを作り出すことの意味がここには存在する。



「梅雨」もおもしろい。

幽霊たちはいつもぶつぶつ、言います
その中でも恨めしく死んだ女たちが一番うるさいです
初恋に落ちた幽霊は意外にひたひたと静かに現われ
狂った女の幽霊は少し恐ろしく現われます
髪の毛に稲妻が付いて来るからです

湖水はそんなに強く叩いてはいけません
たたいた所ごとに血の水が上がって来ます

口からミミズが出ているあの女
あまり叩くのは止めてください
毎日毎日叩かれるから口から
ミミズが一かます、二かます零れ落ちるじゃないですか
後でその内臓までゲーゲーすべて吐いて
空になって潰れるように崩れて行きます
臭いが大変ひどいですね

 入水自殺した女の姿を描いているのだが、描くたびに金はその女に「なる」。しかし、そういう女に「なった」からといって、そのままでは終わらない。そういう女に「なって」、しかもその女を「書く」のである。
 金にとって「なる」と「書く」ことは同義なのである。
 そういう女に「なって」「書く」と私は書いたが、ほんとうは、「書く」ことで、そういう女に「なる」と言い換えた方がいいかもしれない。「書く」ことで金は金という自己を超越し、女という普遍を手に入れる。
 そのとき、ことばは詩になる。

 すぐに「somethig」を買って、その全編を読んでください。

コメント
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