詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「鼠年最初の注釈(スコリア)」

2008-01-31 09:57:35 | 詩(雑誌・同人誌)
現代詩手帖 2008年 02月号 [雑誌]

思潮社

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 岡井隆「鼠年最初の注釈(スコリア)」(「現代詩手帖」2008年02月号)
 ほんとうにあったことなのか、それとも創作なのかわからないが、岡井の書いていることがらはいつもおもしろい。ある「結末」へ向けてことばが動くのではなく、どこへゆくかわからないまま動く。どこへ行こうとかまわない、という感じである。こういう精神を私は「散文精神」と呼んでいるのだが、そうした「散文精神」が詩になっていることがおもしろいのである。なぜ詩になるかというと、「寄り道」があるからである。どこへ行こうとかまわないとはいいながらも、岡井の精神は瞬間瞬間に立ち止まり「寄り道」をし、また動く。一直線には進まない。(この違いは、岡井が引用している鴎外の文章と比較するとわかりやすいが、ここでは省略。)たとえば、次のように。

今年はじめての注釈の場は寒い雨の降る午過ぎの昔風の旅館の一室で障子の向かうのちよつとした庭の池にも雨は降りそそぎ藤棚がそれを黒々と覆ふのを見ながら話せといふことであつた。  (谷内注・引用にあたってルビは省略した。以下同じ)

 「注釈」(和歌の注釈である)を岡井はするのだが、そのときたとえ岡井の視野に雨や池や藤棚が見えたからといって、それを「見ながら話せ」とは「注釈」の講師に岡井を招いたひとは考えてはいないだろう。しかし、そういう状況を、岡井はあえて「見ながら話せといふことであつた」と書く。ビデオで「注釈」を撮影しているから、その撮影者から、「風景」として雨、池、藤棚も映します、と聞かされていたということかもしれないが、「注釈」の内容そのものとは関係のない「風景」が「寄り道」として、ひとつの文章のなかに溶け込んでしまうところがおもしろい。
 そして、ここからは私の「誤読」になるのだが、実は、私はこの部分を引用するまで、1か所間違って読んでいた。(最近、引用の間違いを指摘するメールを複数のひとからいただいたので、読み返して、あ、また間違えたと気づき、直した。)どこを間違えて読んだかというと「見ながら話せ」である。「見せながら話せ」と読み、あ、これはおもしろい、とほんとうは思った。そう思って書きはじめたのである。
 したがって、これから書くこと(これまで書いてきたこともそうかもしれないが)、最初に書こうとしていたこととは、少し(かなり?)違ったことなのであるけれど、それはそれでひとつの感想になると思うので、このままつづける。



 「見ながら話せ」を私は「見せながら話せ」と思い込んで読んだ。そして、どういうわけかわからないが、岡井はちゃんと「見せながら」話しているのである。

注釈者が選んだ歌は
 葦べ行く鴨の羽がひに霜降りて寒き夕べは大和し思ほゆ
                   (万葉集巻一 志貴皇子)
であって「葦べ行く」はふつう飛ぶ鴨を思ひ画くらしいが冗談ではないぜ葦原をかき分けて泳ぐ一対の鴨を予想することなしに注釈は完成しない。ではなぜ翼の上に霜が降るのか。霜が降るほど寒いとメタフォアにうけとるのはまだ浅い見解だろう。夕暮れの鴨(複数)の「羽がひ」はうす光りして(ほら君眼前の夕暮れの藤の幹だったさきほどまでの午後の光とはちがつて来たじやないか)いかにも寒い。

 「藤」が唐突に再登場してくる。「君」は岡井が岡井自身を納得させるために呼びかけているのだろうが、それを聴講者に呼びかけているとも受け取れるだろう。そして、「君」を聴講者として受け止めるなら、ここで岡井は「藤」を「見ながら」ではなく「見せながら」注釈をしていることになる。
 また、実際には、この括弧内のことばは語られず、「君」が岡井自身であるとしても、そのとき岡井のことばは一度「藤」をくぐり抜けているわけだから、間接的に聴講者に「藤」を「見せながら」話していることになるだろう。「藤」を見ることで強まった意識、その意識にそうことばを岡井が語るとき、それは「藤」を見せることである。これは、実際に岡井の詩を読んでいる読者を想定するともっとはっきりする。いま、私も(そして、この文章を読んでいるひとも)、「藤」の変化を「見ている」、岡井によって「見せられている」。これは、「寄り道」をさせられている、ということでもある。
 「寄り道」は「結論」を引き延ばす。しかし、引き延ばされることで、逆に「近道」にもなる。人間は気分屋だからである。ある「結論」というものがあると仮定して、そこへたどりつくためにかかる「時間」は時計の計測どおりではない。「気分」でかわる。「気分」でとても長く感じたり、逆に短く感じたりする。「寄り道」(藤の幹の色)が結論を遠ざけながらも、気分的には結論を先取りするというか、結論を把握するときのショートカットになることもあるのだ。
 ようするに、人間は気まぐれである。
 岡井は、この、気まぐれをそのままことばとして定着させる。そこが非常におもしろいのである。(「誤読」について書きながら、なぜか、書こうとしていたことに、私は戻ってきてしまった。)
 岡井は、このあとビデオカメラマンの指示で休憩したり、聴講者の質問にこたえたりしたことを書き綴る。それらは岡井にしてみれば、他者によって「寄り道」させられた瞬間ということになるかもしれない。人間は自分でする「寄り道」は気にならないし、必要だと思っているが、他人によってさせられる「寄り道」にはいらだったりする。そんな気分の調子が、たとえば「志貴皇子の人柄をどう思ひますか」という質問にこたえる岡井のことばにあらわれる。

作者は難波へ旅してきて家郷を思つてゐる壮年の歌人といふところまででいいじやありませんか。

 「いいじやありませんか」。ほら、岡井のいらだちがあらわれているでしょ?
 もちろん、こうした気分の色は岡井が意識的に「見せて」いるのもなのだが、その意識的に見せている「気分の色」があるから、岡井の書いている日記ともエッセーともつかないことばが詩になるのである。
 詩とは「寄り道」と、その「寄り道」をするときの「気分の色」のことなのである。そういう「色」がくっきりと出ているものはおもしろい。「気分の色」が出ていないことばはおもしろくない。「色」がないと、単なる「意味」になってしまう。

 岡井の「気分の色」の出し方、その手法を見ていると、あ、歌人は熟練の度合いが違うなあ、とも思う。歌については私はほとんど知らないが、たとえば俳句に比べるとずいぶんと叙情的というか、感情のきめのこまかさを特徴にしていると思う。そういう感情の動きのきめのこまかさをあらわすことば、ことばの動かし方の熟練した力が詩にも働いていて、他の詩人とは違った味(色)になっているのかもしれない。

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