詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ローゼ・アウスレンダー『雨の言葉』

2008-01-06 10:04:39 | 詩集
雨の言葉―ローゼ・アウスレンダー詩集
ローゼ・アウスレンダー,加藤 丈雄
思潮社、2007年12月25日発行

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 「言葉」という表現がたくさん出てくる。「言葉」しか、なかったのだ。ローゼ・アウスレンダーには。そのことが、まるで生傷のように、ひりひりと痛みをともなってつたわってくる。それは「言葉」という表現が出てこない作品にも感じられる。たとえば「伝記的メモ」。その全行。

私は語るのです
あの燃え上がった夜のことを
それを消したのは
プルート河

悲しみにしだれる柳のことを
血色欅(ちいろぶな)の木
歌うことをやめた小夜啼鳥(さよなきどり)のことを

黄色い星のことを
その星の上で私たちは
刻一刻と死んでいった
あの死刑執行の時代に

薔薇について私は
語りはしない

彷徨(さまよ)い揺らぎ
ブランコにのって
ヨーロッパ アメリカ ヨーロッパと

私は住むのではない
私は生きるのです

 ここには第二次大戦を生き抜いたユダヤ人詩人としての「伝記」が反映されているのだが、その最終連の2行を、私は思わず「言葉を」ということばをさしはさんで読んでしまうのである。「ヨーロッパ、アメリカ、ヨーロッパ」とブランコのように揺れながら「生きた」のはローゼ・アウスレンダーだが、その「土地」に住むのではなく「生きる」のだと書くとき、彼女は、彼女自身の「言葉」を生きているのである。ただ「語る」ために、彼女自身の「言葉」を語るために生きているのである。
 「生きる」とは「言葉」を「語る」ことと同じ意味なのだ。ローゼ・アウスレンダーにとっては。
 そして彼女にとって「言葉」とは、非常に限られたものなのだ。「言葉」は無数にある。「言葉」には無数の組み合わせがある--と、私は信じているが、ローゼ・アウスレンダーは、そんなふうには考えていない。
 「的中」という作品。

紙でできた弓
張りつめた雪面
私の指はそこで
矢のごとく飛ぶ
定められた場所へ
定められた言葉へと

言葉の旅
数分の隔たりを行く
そしさらに
あの地点まで
そして私は出会う
あなたの言葉と

 「言葉」は「定められている」のである。ひとつしかないのである。それを探すのだ。ただただ探して生きるのだ。それがローゼ・アウスレンダーだ。この作品でローゼ・アウスレンダーは「あの地点」「あなた」を具体的には指し示していない。それは実は指し示せないからだ。「あの地点」はどこかにあるのではない。いつもローゼ・アウスレンダーのなかにある。彼女の体験の、彼女の肉体のなかにある。「あの地点」は彼女とともに生きているのである。ヨーロッパ、アメリカ、ヨーロッパと揺れるときも、けっして「あの地点」から離れることができない。

定められた場所へ
定められた言葉へと

 「場所」と「言葉」が同列に、そして同じく「定められた」と限定されていることが、ローゼ・アウスレンダーが「場所」と「言葉」を同じものと考えていることを指し示している。そして、「場所」に彼女が「私は住むのではない/私は生きるのです」と言ったように、彼女は、いま「定められた言葉」を生きているのである。
 それは「あなた」についても同じことである。「あの地点」「あなた」が語りかけてくる「言葉」--それをローゼ・アウスレンダーはただひたすら耳を澄まして聞き取る。聞き取ることが、語ることなのだ。語ることが生きることなのだ。



 詩集のタイトルとなっている「雨の言葉」はとても美しい。これも短い作品なので全行引用する。

雨の言葉が
私に氾濫する

滴(しずく)によって吸い上げられ
雲の中に押し上げられ
私は雨となって
開いた
真っ赤な
罌粟(けし)の口もとに降る

 雨--水分は天と地を行き来する。そんなふうにローゼ・アウスレンダーのことばもまた天と地を、ヨーロッパとアメリカを、つまりは世界のいたるところを行き来し、そのことばを受け止めてくれる人のそばで、その口もとで、そっとよみがえる。「罌粟」を「生きる」ように、ローゼ・アウスレンダーは「読者」(あなた)を、そのとき「生きる」のである。
 深い深い祈り、透明な透明な祈りがここにある。

コメント
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