ヨシフ・ブロツキイ「ケロミャッキ」(たなかあきみつ訳、「ロシア文化通信 GUN 群」31、2007年12月28日発行)
詩はことばを新しくする。古いことばを洗い直し、真新しくする。ローゼ・アウスレンダー『雨の言葉』を読んだときに、そう思ったが、ブロツキイにもそれを感じる。
ただし方法は違う。
ローゼ・アウスレンダーはほとんどのことばを捨て去り、ひたすら捨て去り、捨て去ることで、新しくなろうとする。すべてを捨てることを通して、はじめて「あなた」に会えるとでもいうように。
ブロツキイは雄弁である。たとえば、「ケロミャッキ」の「Ⅶ」の部分。
「拾い集める」が特徴的だが、ブロツキイは捨てるのではなく、「拾い集める」。見落としてきたものを。ただ集めるだけではなく、「主語」を「私」ではなく、「おまえ(あなた)」でもなく、人間以外のものに譲りながら拾い集める。
これはある意味では、「私」が「私」であることを捨て、たとえば「生石灰」として生まれ変わるということでもある。
そのとき、世界はまったく新しくなる。「私」がいなくなるので、感情は行き場がない。しかし感情というもの、思いというものは、どんなときにだって存在する。たとえ「私」が「私」であることを捨てたときでも、感情は、そこにうごめいている。生まれてようとしてうごめいている。「生まれ変わる」と書いたのは、そういう意味である。「世界」が視点を変えることで生まれ変わり、そのまだどんな感情にもまみれていない世界のなかでまっさらな感情ごと、純粋な感情ごと、「私」はそれまでの「私」ではない人間になってしまうのである。
方法は違うが、ブロツキイもまた別の意味で「私」を捨てるのである。捨てることでのみ、人は新しくなる。
矛盾した言い方でしか書き表すことができないのだが……。
ここにはすべて捨てられたことばが書かれている。捨てようとしたものが書かれている。「拾い集め」たものすら、実は知らずに身につけたものである。知らなかったということを、自覚し、捨てるのである。そこにはすべてブロツキイの体温の刻印がある。「生石灰」に自分自身を譲っているときでさえ、そこにはブロツキイの体温が、ブロツキイの生きてきた時代・世界がもっている体温が刻印されている。初めて出合った(初めて目撃した)世界のようにブロツキイは書くが、それはすべてブロツキイが自覚しないままいっしょに存在していた世界である。ブロツキイは世界はほんとうはこうだった、と意識しながらことばを脱ぎ捨てる。自分体温、無意識の体温を帯びた無数の存在・ことばを脱ぎ捨て、寒風の中にさらす。そのとき、その震えから、感情が新しく生まれるのである。生まれ変わるのである。
生まれ変わるということは、いままでの延長線上にはことばはうごかないということでもある。どうしても、なにかにぶつかるたびにうねってゆく。「生石灰」が「拾い集め」たものは何? 簡単に言えない。針葉樹と思えばラシャにかわり、カルメンにもかわってゆく。うごめきながら、世界を異形のものにする。--異形をつくりだすために、異形を意識させるために、詩は存在するのだ。
*
冬生まれ、雪国生まれの私としては、「Ⅱ」の部分がいちばん好きである。
「鴎」の描写が特に好きである。冬の海を思い出す。雪を思い出す。風を思い出す。そして、鴎の腹の白い輝きを思い出す。背中は冬の空に吸い込まれ、一体になってしまっている。腹だけが光をはなつようにきらきらと生きている。その鴎を。
ブロツキイのみた鴎と私の知っている鴎は違うだろう。それでもブロツキイの鴎ということばのなかで、私の鴎がもう一度、生きて、舞うのである。
詩はことばを新しくする。古いことばを洗い直し、真新しくする。ローゼ・アウスレンダー『雨の言葉』を読んだときに、そう思ったが、ブロツキイにもそれを感じる。
ただし方法は違う。
ローゼ・アウスレンダーはほとんどのことばを捨て去り、ひたすら捨て去り、捨て去ることで、新しくなろうとする。すべてを捨てることを通して、はじめて「あなた」に会えるとでもいうように。
ブロツキイは雄弁である。たとえば、「ケロミャッキ」の「Ⅶ」の部分。
どうでもよい。さまざまな冬の空間の生石灰は、じぶんの餌を
郊外のひとけのないプラットホームから拾い集めつつ、
それら空間に針葉樹の枝の重みで
黒いコートをはおった現在を置き去りにする、そのラシャ地は
チェヴィオットラシャよりももっと丈夫で
そこで未来を予防しさらに
過去をいぶしガラスのさえぎるビュッヘェよりもすぐれて予防した。
黒以上に恒常的なものはなにもない。
こうして文字が誕生する、あるいは《カルメン》の動機が。
こうして転換の敵対者たちは服を着たまま眠りこむ。
「拾い集める」が特徴的だが、ブロツキイは捨てるのではなく、「拾い集める」。見落としてきたものを。ただ集めるだけではなく、「主語」を「私」ではなく、「おまえ(あなた)」でもなく、人間以外のものに譲りながら拾い集める。
これはある意味では、「私」が「私」であることを捨て、たとえば「生石灰」として生まれ変わるということでもある。
そのとき、世界はまったく新しくなる。「私」がいなくなるので、感情は行き場がない。しかし感情というもの、思いというものは、どんなときにだって存在する。たとえ「私」が「私」であることを捨てたときでも、感情は、そこにうごめいている。生まれてようとしてうごめいている。「生まれ変わる」と書いたのは、そういう意味である。「世界」が視点を変えることで生まれ変わり、そのまだどんな感情にもまみれていない世界のなかでまっさらな感情ごと、純粋な感情ごと、「私」はそれまでの「私」ではない人間になってしまうのである。
方法は違うが、ブロツキイもまた別の意味で「私」を捨てるのである。捨てることでのみ、人は新しくなる。
矛盾した言い方でしか書き表すことができないのだが……。
ここにはすべて捨てられたことばが書かれている。捨てようとしたものが書かれている。「拾い集め」たものすら、実は知らずに身につけたものである。知らなかったということを、自覚し、捨てるのである。そこにはすべてブロツキイの体温の刻印がある。「生石灰」に自分自身を譲っているときでさえ、そこにはブロツキイの体温が、ブロツキイの生きてきた時代・世界がもっている体温が刻印されている。初めて出合った(初めて目撃した)世界のようにブロツキイは書くが、それはすべてブロツキイが自覚しないままいっしょに存在していた世界である。ブロツキイは世界はほんとうはこうだった、と意識しながらことばを脱ぎ捨てる。自分体温、無意識の体温を帯びた無数の存在・ことばを脱ぎ捨て、寒風の中にさらす。そのとき、その震えから、感情が新しく生まれるのである。生まれ変わるのである。
生まれ変わるということは、いままでの延長線上にはことばはうごかないということでもある。どうしても、なにかにぶつかるたびにうねってゆく。「生石灰」が「拾い集め」たものは何? 簡単に言えない。針葉樹と思えばラシャにかわり、カルメンにもかわってゆく。うごめきながら、世界を異形のものにする。--異形をつくりだすために、異形を意識させるために、詩は存在するのだ。
*
冬生まれ、雪国生まれの私としては、「Ⅱ」の部分がいちばん好きである。
《σ(ペー)》字形ではじまる海の細かいながらかな波、
遠目にはもろもろの自己観念と酷似している波は
くねくねと蛇行しつつだれもいない浜辺にどっとうち寄せ
皺となって凍りついた。山査子の裸枝のかもす
乾いた恐怖感はときおり網膜に
あばたの樹皮でおおうよう促した。
さもなければ鴎らが雪煙からぬっと現れた、
何も書かれていない紙のような白日の
だれのものでもない手によって汚された隅のように。
そして久しくだれも点灯しなかった。
「鴎」の描写が特に好きである。冬の海を思い出す。雪を思い出す。風を思い出す。そして、鴎の腹の白い輝きを思い出す。背中は冬の空に吸い込まれ、一体になってしまっている。腹だけが光をはなつようにきらきらと生きている。その鴎を。
ブロツキイのみた鴎と私の知っている鴎は違うだろう。それでもブロツキイの鴎ということばのなかで、私の鴎がもう一度、生きて、舞うのである。